2019年度前期非常勤第3週目(+読書記録:中坊公平,2000,『中坊公平・私の事件簿』集英社.)

 水曜の講義を終えてからどうも喉の調子が良くなく、それどころか風邪をひいてしまった。細々とした仕事や用事、研究会の報告準備をなんとかこなしているうちに、だいぶ治りかけてきた。

 ゴールデンウィーク中はありがたいことに講義が無いので、一回分のネタを仕込む時間が取れそうでよかった。

 長距離移動、喉の酷使、(講義準備の)自転車操業というあるあるネタ?を体感しつつある……。

 研究会の原稿はとにかくひどい出来であったが、とにかく書いていかないことには先に進まないので、ここが正念場という感じがする。

 研究会後の懇親会で、どういう講義をしているのかや、どういう教科書を使っているのかなど、情報交換ができるのが地味にありがたい。直接活かせるは別問題として……。

 非常勤先に向かう電車で、中坊公平『中坊公平・私の事件簿』に目を通した。電車内で読めるような本しか読めない。香川・豊島に行くことがたまにあり、やはり豊島の事件では中坊公平の存在感が大きいことは割と自明だと思う(多分)。意外にどういう人か知らないので読んでみた。

 中坊は弁護士として豊島以外にも森永ヒ素ミルク中毒事件や、豊田商事事件、住専の不良債権処理問題にも関わってきた。同書では、先述の事件だけでなく、中坊が弁護士生活を送るなかで経験してきた大小様々な事件エピソードが綴られている。

 消費者運動、生活者のための運動、市民運動など、なんという言葉で表現すればいいかわからないが、節目節目で重要なリーダー的役割を担ってきたことがよくわかる。(もちろん、これは中坊自身からの述懐だから、いろいろ割り引いて考えなければいけないことはある。)

 弁護士として駆け出し時代の鉄工所債権処理案件で「現場主義」が培われたと書かれてあった。「現場主義」は生涯一貫して彼のポリシーであった(豊島の場合然り)。

 ちなみに、森永ヒ素ミルク事件については、1955年に起こったものであるけれど、被害者の後遺症に関する追跡調査が発表されたのは1969年、民事訴訟に至るのは1973年。中坊のもとには1973年、同じく被害者側の弁護士である伊多波重義から依頼がくる。伊多波も中坊も、青年法律家協会のメンバーであったが、当時中坊は青法協に入っていたのはあくまで「お付き合い」であり、弁護団に参加することにも当初ためらいがあったようだ(中坊 2000: 53)。しかし、ここで父親に説得され弁護団に参加するくだり、そして、裁判の第一回冒頭陳述のくだりは心を打たれる述懐である。とはいえ、裁判の過程は険しく、被害者側の団体と弁護団の亀裂等、ひとつの運動を進めていく難しさを感じさせる。

 それから、「ケース・4 一九七〇年 タクシー運転手ドライアイス窒息死事件」に書かれていた彼の自己評価がおもしろかった。

 とにかく、私は男女の間とか親族の間とかの事件はだめ。この手の事件は引き受けないようにしています。「平成の鬼平」中坊は仕事はできるし有能な弁護士だと言われていますが、所詮は「お坊ちゃん」なんです。結局、人の心の襞や情念を読むことができない。(中坊 2000: 48)

 中坊は自分は「ぼんぼん」だとする自己評価を繰り返し述べている(なお、中坊の父親も中坊忠治という弁護士である)。「ぼんぼん」の「現場主義」を可能たらしめたものはいったいなんだったのだろうか?「ぼんぼん」であったからこそ前衛として動き回ることができたのだろうか?

 また、依頼者側にも時に厳しい判断や決断を迫るが故に、「鬼」としてみられる側面も彼は併せ持っている。中坊の自己評価を言葉どおりに受け取り、彼は「人の心の襞」を読むことができないのだと考えるのであれば、だからこそ彼は鬼になれたのではないか、という気もする。

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