見出し画像

道徳教育害悪論

久しぶりに書いてみよう。
中々可哀想なブログを読んでしまったから少し文章にしたいと言う意欲が湧いたから。
そのブログを知ったきっかけがこのツイートだ。


下記がそのブログのリンク。


道徳により生じる攻撃性

子供が、真面目な子供が、実際につけられない、つけるべきでない子供が、子供同士の相互監視の被害を蒙り、教師からも監視され、母親からすらも強要された結果(母親はその後理解)、心を病み、体にそれが現れたと言う話だ。

ここでクソみたいな監視や強要を働いている奴等は皆、その女の子を困らせよう、嫌がらせしようと言う目的からそのような言動をとったのではない
コロナ蔓延を防がねばならないと言う実体のない非科学的社会正義の為に人々が自他を束縛した結果、本能的に攻撃に及んでしまったのだ。

そう。この正義、道徳こそ攻撃の動機だ。この動機は最早理論、理性の分野ではなく、反射的な、本能的なものであり、それを始めるには理屈は全く不要だが、終わらせるには理屈の調達か、飽きが必要になる。だがそんな非文化的な反射的な人間に理屈を期待するのは飼い猫に開けた扉を閉めさせるくらい難しい話であり、最早期待するのは無駄な話でしかない。では飽きはどうかと言うと、後述するように改善の可能性を持つ。ヒントは押し付ける側が正義感で充足できる状況があるから可能であるということだ。

道徳により消える防御力

攻撃の正当性を道徳が与える一方、その道徳を眼前にした人々は防御、反撃に窮する。攻撃的な道徳も一応は正義としての建前を持っているからだ。
我々反コロも、高齢者より子供を守れとは唱えるが、攻撃的な道徳者からすれば我々は高齢者を見殺しする不道徳な悪にさせられるし、彼等は数が多いし、話を聞かないし、理解していないから圧倒されてしまい、黙り込んでしまうのだ。
これはしっかりと理屈を詰めて詰めて果たしてコロナ対策が道徳正義たり得るのかを考える人には無縁な話だろうが、一般に、ぼんやりと不信があるが明確に言語化できない人々にとってはかなり難しい話だと言えよう。
そうなれば反論ができない。彼等善良な人々は大きな声を受忍するしかなくなるのだ。そうすることで何かが解決するなんてことはないが、そうせざるを得ないのだ。
そのようにして道徳は人々に自らや社会を真に防御する力を失い、攻撃的道徳により蹂躙される。

法の正義はこの国にはない

既に何度も書いてきたことだし、この文章からも理解可能かとは思うが、攻撃的道徳者は論理とは無縁の感情的な生き物である。そして感情的な生き物は想像力が欠落している。自分に起きたことそのものを他者に投影して他者を思いやることや、他者と自分の価値観が違うことすら理解していない。そんな人間に法律なんて高度な要請は通用しない。
実際に特措法ではマスクしろなんて書いてないし、国民生活や経済への影響を最小限度に抑えろと言う要請(第一条)は無視するし、総理大臣すら特措法による対策本部の廃止義務に違反している(第二十一条)。国会ではそれに関する議論すら行われない。将来的には法治国家として機能できるよう努力を惜しむべきではないが、このコロナ"対策"禍を、終わらせるには余りにも悠長な話だ。そこで、では何が今最も妥当な戦術であるかを考えて終わる。

飽きさせる

そこで出てくるキーワードがこの飽きである。
彼等攻撃的道徳者がその攻撃を緩めない、いや緩めなくてもいい最大の理由は、彼等の「正義の攻撃」が正義故に反論されないと言う信仰心、充足感にあると言えるだろう。
攻撃的道徳者は反撃を想定していない。黙って従うものと信じて疑っていない。彼等は反論しなさそうな奴にだけ言ってくる。そうやって充足感を得ているのだ。勿論反論しない者には各施設の従業員が該当するし、街中の大人しそうな素顔民もその対象となる。
そこで素直に従えば彼等は次の獲物を狙いに行くだろう。
そうさせない為にも、反撃をするのだ。勿論殴ったり議論をふっかけて論破せよなんて話だとではない。
「嫌です」とお断りするだけでいい。そこから先は自らの赴くままに言葉を紡げばいい。彼等の理屈に疑問を呈していけばいい。
彼等自身を自己矛盾にある状態に晒してやればいい。
その経験が彼等を飽きさせる方向に向かわせるだろう。
また素顔の数が増えてきても彼等は攻撃を諦める理由になってくる。

彼等は多数派であるとの信仰により正義を実感しているのだ。彼等には「迎撃」が有効だろう。彼等とは基本的に直接対峙する必要はない。
起きた時にどう対処するか、どう彼等に不快感を与えるか、不快感を与えた時に自分自身が負い目を感じなくて済むか、その辺りを考慮しておけばいい。

今この国の道徳は死んでいる

俺個人としては、ここに書いたような思考を個人の正義、道徳として正しいと確信している。
だがこれはこの国の一般的な道徳論としてはあり得ない論として一蹴されるだろう。
しかしここに書いた通り、また引用ブログにある通り、本来守るべきものを守らず、寧ろ攻撃するようなものをこの国では道徳と称して信者共が布教しているのだ。
我々はこの女児をマモルような道徳、価値観に生きるべきだ。多数派で寄って集って弱者を攻撃するようなものを道徳と呼んではならない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?