見出し画像

わたしはコーダ

最近「コーダあいのうた」という映画が話題ということで、あまり言葉にしたことがなかったけど、書き進めてみる。

CODA:Children of Deaf Adults / ろう者の親を持つ、聴者のこと。
わたしがこの言葉を知ったのは、短大生になってから。わたし自身はどこにでもいる普通の人に見えるかもしれないけど、一歩家に足を踏み入れれば手話で会話をする。家と外の世界が少し違っていて、この違和感は何だろう?と思いながら過ごしていた。

物心ついた時から母と話すときは手話を使っていた。何の違和感も無い。それが当たり前だと思っていた。でも、ふと保育園で友達の様子を見ると手を動かさずに会話をしていることに気付く。
「あれ?手を動かさなくてもお母さんと話せるのかな?」と思い、母に話しかけてみると「手話を使わないと分からないよ」と言われてしまう。次は後ろから「おかあさーーーーん」と呼んでみる。振り向いてくれない。ここで、自分の母は周りとは違うということに気付いた。

それから、色々なことが腑におちた。

母はわたしを必ず買い物に連れていく。「このお肉を〇〇g下さい」「〇〇はどこにありますか?」とか、通訳をする為だ。

母の代わりに電話をすることもあった。当時は今ほどネットが普及していない。スマホも無い。携帯にカメラも付いてない。代わりに電話をするといっても、内容が全く理解出来ないまま知らない単語を相手に伝え、相手が言う難しい言葉を母親に伝えなければいけない。「他に電話代われる人居ないの?」と言われたりして、辛かった。

小学校に上がると「道徳」や「総合」という授業があった。そこに両親が呼ばれ、聴覚障がいについて話すことがあった。自分の両親が教材にされることは「あなたの親は周りとは違うんですよ」と言われているようだった。

中学校に入学したとき、担任に呼ばれ「連絡網はFAXじゃないとダメなのかな?君が電話に出て、次の人に伝えることも出来るよね?」と言われたこともあった。(それわたしに聞く???)

高校に入学するとき、反抗期も相まって「必要最低限、両親のことは言いたくない」と決めた。なので、制服採寸もひとりで行った。好奇の目で見られるのも、母親への通訳で時間が倍掛かるのも耐えられなかった。

とにかく辛かったな、あの頃。「普通」に見られたくて必死で「普通の子」に見られたくて、周りの子に溶け込みたくて。だから両親が離婚して、父と一緒に暮らすことになったとき「やっと解放された」と思った。母は通訳をする・聴者との繋がりとなるわたしを手放すまいとするかのように、自分の思い通りになるようにレールを敷き、誘導していたから。窮屈だった。

と、ここまで書くと大変だった、辛かった、ばかりだけど。

20歳で社会に出て気付いたことは「わたしにとって最大のコンプレックスであったCODAは、最大の強みである」ということ。これ以上の言葉が見つからなくて悔しい!!!!!!!CODAで良かった、と思うことは正直あまり無いけど「この経験をしてきて良かった。手話が出来て良かった」と心から思う。ありがとう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?