片道290円の恋
昨今のキャッシュレス経済の恩恵で、手持ちがないことが増えた。
たいていのお店で何かしらの決済手段が使えるし、仮に無理でも、誰かしら持ってる人がまとめて支払い、後でなんとかPayで精算するみたいな流れも自然になった。
自然と言えば、ここは奥飛騨、大自然。まだまだ現金が幅を利かせる片田舎。おわしまするは我一人。そんな奥飛騨の夏に揺れる、可能性の花一輪。
そんなお話。
路線バス 片道 290円
統計によれば、僕は夏に恋に落ちる。
これはお気に入りのフレーズなので、ここぞとばかり繰り返しておきたい。2020年、夏到来。恋の導線。着火、On fire。
今日は決めていたのだ。もう一度、かの地へ行くべし、あの子に会うべしと。
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12時を回って、時刻表によれば次のバスまであと15分ぐらい。もう出やなあかんな。最寄りのバス停までは片道10分弱、逃せば次は1時間後。それじゃ遅いもんな。行こ行こ。
戸締まり確認、OK。おっと、洗い物もしとくか。OKだん。はよ行こ。本は入れたか。入れたな。財布は。中にお札は、ないか。コインケースは。中身は。これで全部か。ひー、ふー、290円しかないやないか。なんでや。まあ言うても仕方ない出よう、時間ないわ。
家を出て走り出す。いつも走らないと間に合わなくて、いつも走ったら間に合うから、結局いつも走ることになる。
また間に合った。だいたい5分ぐらい遅れてくる田舎の路線バスは僕の味方である。ターミナルまでの金額は憶えている、たしか300円だったハズ。
コインケースを覗き込めば、家でも数えた通り290円。惜しい。惜しいからどうとかではないけども・・・あられ。料金版の表示が160円じゃないの。今日の運ちゃんは、駅を通過するごとに切り替えるべきメーター的なものを忘れているのではあるまいや。これはついてる。
耐えろ耐えろと祈っていたが、そこはベテランの技。到着直前に帳尻合わせの追いメーターが繰り出され、見慣れた300円がどうもどうもと現れた。
駅到着、いざお勘定。
降りるお客さんを先に流して、最後尾で降車する。
さて、どうしよう。脳裏を小芝居のセリフが踊る。
これをいつ繰り出そう、どうしよう、と逡巡しながらも、体はゆるりと動き続ける。もう一度、頭上の料金版を確認し、整理券の紙と一緒にじゃらららと流し込んだ290円分のコインは、もはや誰の目にも300円だった。
「ありがとうございましたぁ」
気の抜けたトーンで運ちゃんにお礼を言いつつ降車する。とぼけた善人の仮面芝居。この借りは必ず返しましょう!
これで手持ちはピッタリ0円。素寒貧になった。
上高地ゆきバス 往復 2,090円
一応尋ねてみたが、やはりATMはないらしい。知ってました。
でも大丈夫。このターミナルではクレジットカードが使える。信用力のある人間でよかった。ないか。これからか。これからです。
上高地ゆき往復チケットを無事購入。後知恵ながら、クレジットで高い距離を買って、払い戻して現金を作ればよかったか。否、それは信義にもとる。非紳士的プレーは禁止しとこう。
気つけのラーメン 880円
都市には多すぎるぐらいあるけど、田舎になれば存在感が薄れるもの、それがラーメン。そんな気がする。この町にあるラーメン屋も、もう少し複合的な業態「ラーメン居酒屋」を名乗っていた。
バスまではまだ時間がある。
昼飯はラーメンで気合いを入れよう。入り口のドアには、色んな支払いできまっせシールみたいなのが貼ってあり、安心して入店する。
店員さんにオススメを伺えば、この土地ならでは、みたいなものではなく、「もし辛いのが平気なようでしたら、私は台湾ラーメンが一番美味しいと思います」とのことだった。
ではそれを是非、と注文したまではよかったが、想像してたよりも辛かったし、よく見たらにんにくとニラがたっぷりであった。
しまった。これから会うのに想定外。
とは言え、目の前の店員さんが何となく心配げに見てた気がしたので、頃合いを見計らい、スープを吸って「思ったより辛いですね。おいしいです」と告げて、セルフ協議する。
(もし彼女が視認してくれて、あっ、こないだの、みたいな。ひとことふたこと、対話の距離になりそうな瞬間に、、、)
よし、これで行こう。とリハ終了。
ポジティブに捉えれば、彼女がラーメン好きの可能性もあるし、台湾好きの可能性もある。これは会話の広がるよいラーメンを食べたものだ。
完食。辛かった。あとは、彼女のいるバスの発着駅まで、てくてく歩いてゆくだけのこと。
友人からのアドバイス 0円
「絶対にそれはやめ。気持ち悪いで。まずは3回、自然な流れで行き。次は会釈とか、ほとんど話さんぐらい。それで3回目ぐらいで、どうも的な流れから、やっとちょっと仲良くなったり連絡先交換みたいな感じちゃう」
もう、ぶっちゃけ会いにきました、じゃあかんもん?と聞いた僕を、友人は上記のごとくたしなめた。
危ないところであった。丁寧に、丁寧に。てなわけで事前購入したチケット握りしめ向かう。On the way to the bus stop。
今回の段取りとしては、2週間前に来た前回は、友人ファミリーと一緒でとっても良かったけど、小さい子ども達もいた分、雄大な上高地を回りきれなかったので、今日はもっかい一人で来ました。えへへ。えへへは言わない。
ほいで、この2回目で上高地に惚れて、ハマっちゃいましての3回目に繋がる流れ。どうですか。完璧でしょう。
バス発着駅の併設トイレ 0円
近づくバスの発着駅。
遠目にチラッと眺むれば、担当者が二人になってるじゃないの。前回は一人やったのに。お客さんもパラパラ来てる。これでは前回のような「オススメ上高地散策コース」などの悠長な会話は期待出来ないなと直感する。これがハイシーズンか。もとい同じ話は出来ないが。
さて、まずここは一旦さらっと一瞥程度、前を通り過ぎ、隣のトイレに向かいましょう。身だしなみを整えましょう。ってか、台湾ラーメンで痛めた腹をなだめよう。うう、なんでこんなことに。辛すぎたか。
はい、すっきり。落ち着いた。担当が二人いたのは予想外だったとは言え、今回の目標は会釈プラスアルファ。どの程度弾むかは即興の世界、出たとこ勝負で繋ぐカルマ。どうなりますことやら。
ここで告白すべきことがひとつある。実はあんまり顔を覚えていないのだ。このご時世、初対面はマスクだったから目元ぐらいしか見えてない。ざっくりとした背格好に目元の雰囲気、喋った感じのおぼろげな記憶が頼み綱。
いざゆかん。
一人目、違う。惜しくもない。そういう感じじゃないんよね。あの子はマスクにデザイン性だとか、遊び心を持ち込むタイプじゃないのよ。おぼろげな記憶と印象で人の性格を決めつけて、候補を絞る。
二人目、、、ん、、、えっと、そうやんね。
「チケットは中でのご購入となりますー」
違うよね。言葉まで貰えたらさすがにわかるわ。感じ違うもん。
「あ、チケットは既に往復買ってきたやつがあります」
彼女はちょっと待って下さいと、片道分の検札済のハンコを押してくれた。では、乘って下さい。もうすぐ出発です。
僕はバスに乗り、上高地へと出発した。
バスの窓から、二人の担当者に目をやる。彼女らは丁寧にお辞儀をした後、手を振って送り出してくれる。僕もせっかくなので手を振り返す。
前回はただ、目元だけで笑みを交わした気がしたぐらい。
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なんだかんだで上高地は変わらず雄大で美しく、ひとり楽しく散策をして、最終のバスで戻ったターミナルから自宅までは、路線バスもなく、あったところで身銭もなく、50分ほど歩いて帰った。
空振りもある、それはわかる。構わない。ただ、ちょっと今後の確率は気になるところ。自然の流れで3回よ、3回。何遍、上高地行ったらええのんや。
神よ降りよと、神降地。
(以上)
この話の続き(完結まで)
よくぞここに辿り着き、最後までお読み下さいました。 またどこかでお目にかかれますように。