クンデラの吐息
『存在の耐えられない軽さ』は、肚のみぞおちあたりに響いた。
作品の内容もさることながら、驚いたのは、作者の姿勢や眼差しが物語の中で(文字通り)息づいて、立ち現れていることだった。いつ書かれたとも知れない臨場感。すぐそこに作者がじっくり何かを眺めて観察しているような気配とともに、ストーリーが展開する。
それは小説という格好をした、ひとつの重要な「問い」へと向かう哲学的な思索の旅であった。
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重さと、軽さとは、どちらが肯定的なのであろうか?
この「問い」に向かって小説は進む。その過程で、またいくつもの小さな「問い」が、交差点のように出てくる。ひとつひとつに向き合いながら、物語は方向を変えつつ進む。そしてその都度、著者のクンデラが出てくる。
多分、アナタが想像する以上に出てくる。映画で言うなら、本の著者は、映画の監督にあたるので、それで例えてみよう。
エンドロールの最後に画面が流れるのをやめて、真っ黒いスクリーンの中、監督の名前だけがしばらく白い文字で佇んでいる、とかでは勿論なく、映画が終わって幕が上がるとパイプ椅子が用意され、黒い服と白髪の監督が舞台挨拶にゆったりと現れるとかでもなくて、映画の途中で普通に出てくる。
どうも監督です、みたいに。
そして、この隣のキャラクターは私が考えました、などと言い出す。そういうの言っていいんやと可笑しかったが(*)、そこにはそれなりの理由がある。彼は、彼自身の人生を下敷きにして、その人生で選ばなかった、選べなかった「他の可能性」の分かれ道の先を知りたかった。一度きりしか生きられず、それゆえに検証もやり直しも効かない人生の「問い」を捉えるため、この物語を考えた。
重きに生きること、軽きに生きること、どちらが良いのだろうか?
己の人生が分岐する世界線の分かれ道、運命の切片から小説のキャラクターを立ち上げ、それぞれに起こる出来事をじっくり眺めることを通して考えたのだ。本人がそう言ってたから間違いない。
まことに、息づかい以上の存在感であった。
クンデラの薫風(吐息)
読み終えた後にも残る、問いや余韻。見えない筆者の眼差しが引き継がれるような「作品」には、グッとくるものがある。その「問い」には、筆者の生き様が色濃く投影されているからだろうか。
このところ、僕もそんな自らの向き合うべき「問い」とは何なのか、なんともなしに考えているところであった。カラーバス効果。人は自分が気になっているものを無意識的に拾い集める。その結果、引き寄せられたかのように集まってきているところもあるのだろう。
さてここまでは、そいつは結構、結構。是非君もよい問いを立てたまえ、という話になるのだけれど。
そこから、はてしかし、となる。
「問い」を立てるとはどういうことかと考えて、「問いの立て方」みたいな方法論に流れそうになる。そして、こらー!と立ち戻る。ここだ。僕が粘るべき運命の切片がここにある。それは便利な方法論でもって、テンプレート式に見つけるものではない。自分にとって意味のある問いは、自分の頭でじっくり考えるしかないのだ。多分。
戒めに名前を付けたい。クンデラスポットと。テトラポットみたいだけど、まぁいいとして。この踊り場に留まり、吐息を浴びつつ考えたい。
自分にとっての、意味のある問いとは、何なのだろうか。
(以上)
補遺
(*) 自分の中に「小説とはこういうもの」という前提があったことに気が付いた。クンデラは、そんな多くの人が思い込みに囚われているところを虚心坦懐に眺め、自らの強みでビシッと射抜いて見せたのかもしれない。
よくぞここに辿り着き、最後までお読み下さいました。 またどこかでお目にかかれますように。