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”愛しながらの戦い”の火蓋は、6年の歳月を経た今ようやく、切って落とされるかどうかのところまで来た

第一章:病室

「マー君、人間ってのはなぁ、確率論とちゃうんやで」

ある親戚が、重々に言い聞かせるかのごとく、若干間を置き、バイブス効かして言い放ったこのセリフは、僕の脳裏にこびりついた。

時には自らその真似をして、姉貴に披露した。

「マー君、人間ってのはなぁ、、、、、確率論と、ちゃうんやで」

真似をするほど練度は上がり、記憶の定着も確かになった。そして、このセリフで呼び出される、何とも言えない微妙なイメージは、未だに彼との関係に一定の暗い影を落としている。意味もなく。

僕は彼を「そういう人」の座に据え、あるいは祭り上げ、何なら磔(はりつけ)にして、その人を見たらば忘れずに思い出しては、ギクッとするという無意味な調和の中にいる。

そのセリフに多分僕は傷ついて、心のどこかでまだ恨み続けている、みたいな話な気がするが、一旦それは別の話。

※注記 以下は実話であるが、僕にとって都合のよい記憶の改ざんが多分に含まれている前提で読んで頂きたい。謂わば、事実を基にしたフィクションのような扱いが妥当だと思う。

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この確率論うんたらのセリフは、6年ほど前、親父の病院選びの議論で飛び出した。命には関わらないだろうとは聞いてはいたが、脳腫瘍の摘出手術、という大ごと感のある外科手術を受けるに、病院選びの意見は割れた。

人間ドックを経て確定診断に至った経緯から、その流れで紹介を受けた病院で手術をするのが筋である的な彼の意見に、僕は反対した。はっきり反対したというより、ちょっと何を言ってるかわからないです、に近かった。

技術レベルが高く、過去に同様の手術経験の多い医師(が存在する病院)にかかるべきだと思います。(てかそれ以外に何かある?)

紹介?経緯?関係ある?ないよね。外科医は腕が全てじゃない?たまたまの流れで紹介されたオッサンに命あずける必要ある?ないよね。流れ?付き合い?どうでもいいよね。素直に紹介に従ったら、執刀医の腕が急によくなったりする?しないよね(このくだりは全部カッコ)

えーっと、医療も言っちゃえばビジネスなので、基本的に患者が選べる、選ぶべきサービスで、、紹介先ももちろん一提案として選択肢に含めた上で、自分達にあったところを選べばよいかと。

が、どうも話が伝わっている気がしない。もしかして、何か違う目的があるのだろうか。

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親父に、最もいい医療を受けさせてあげたい。共通(であるハズ)の目的に遡って議論する。

いい医療とは何か。

これは治療方針が定まり、特定の手術をする以上、その成功率になるかと思います。次に、何がその成功率を支えるか。それは技術の高さになるのではないでしょうか。

では、技術の高さをどう担保するのか。

それは、定性的な業界内(医師側)の評価や、客観的な実績(症例数)などで推し測ることができそう。今僕たちに出来ることは、手に入る情報から、この成功率を上げる選択をすることだけだと思ったので、本やらネットやらで調べて、この過去症例数の多い病院をリストにして持ってきました。

それによると、紹介先は、少なくともこの近畿圏でのトップ20だか30には含まれていないようなので、ちょっと心配なんですよね。。。

・・・

雲行きが怪しい。もっと卑近な例で行こうか。

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饗 くろ喜 「塩そば」

メシ食う時に、ラーメン屋は調べますか?これは友人の医者が言ってたんですが、人ってラーメンなら、例えばわざわざ遠いところ乗り継いだり店先で待ったりしてでも、一生懸命うまいラーメン屋を調べて行くのに、病院は全然調べないんですって。基本的にそのまま紹介先にかかっちゃうけど、ラーメンの味が店によって違うのと同じで、医者によって出来ることも腕も全然違うらしいので、きちんと調べて選んだ方がいいんですって。

「だから口コミを参考にするのと同じように、少なくとも症例数のデータを参考にして、過去の実績ある病院を選ぶべきではないですか?」

多分このあたりで、上のセリフが来る。人間ってのは確率論じゃない、と。

マー君もなぁ、付き合いってあるやろ。ここは友達に合わせとこかとかあるやろ。人っちゅうのはなぁ、人生っていうのは、そういうもんとちゃうか。

まるでお話が通じない。信じている神が違うのだ。

ちなみに僕は親族の間では、マー君と呼ばれている。幼少期からの呼び名である。姉貴はいつからか、僕のことを「マー君さん」と呼ぶ。謎である。呼応するように僕は姉を「マミたろぶーぶーさん」と呼んでいる。響きを重視しているだけで他意はない。他愛ない話である。話が逸れた。

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最終的に、議論は平行線だったこと、プラス、響きほど難しい手術ではなく命には関わらない(らしい)とのことから、サービスを受ける親父の判断でいいんじゃない?と着地した。

そして手術は無事に終わった。わけのわからん病院で。

親父的には、あまりクリアに考えられる状態ではなかったと言っていたが、入院時のサポートをしてくれる件(くだん)の親戚側への配慮などもあり、まぁ大丈夫やろと、物理的にも近かった紹介先の病院に決定したものと想像する。

なぜ、想像なのかと言うと、僕はその最終決着をよく知らないからである。手術の結果もLINEで聞いた。以前から予定していたブラジルW杯の現地観戦を優先したのだ。

そしてこの行為は、ご想像の通り、ちょっとした批判を浴びた。

何かあったらどうするん? 心配じゃないん?

・・・

どうやら彼らにとっては、僕が日本にいて傍で手術を見守ることの方が、実績が多く腕のよい医者にかかることより重要らしかった。

彼らにとって大事なのは、「手術の成功率」より「人を気にかけている感」なのだろうか?意味がわからん。僕はドライな現実主義者であるという誹りを頂戴しつつ、しょうもないなと思った。

どうやら、価値観が違うようだ。

当時の僕にとって”相手を気にかける”とは「影響の一番デカいとこで、期待値(確率)の高い勝負をすること」だけだった。縁だか何だか知らないが、実力の証拠も不十分な医師の腕に頼り、手術の成功を祈って、麻酔で眠る親父の手を握ることでは決してなかった。そんなものは糞の役にも立たないと思っていた。

僕がそばにいることで、執刀医の腕が急によくなり、手術の成功率が1%でも上がりますか?関係ないよね。ほなブラジル行ってきます、と思っていた。

第二章:実家

この7月中旬、ちょっと短期的に、2月以来離れていた東京に戻ることにすると言ったら、親父は反対した。想像の通り。

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免許更新 無事終了

「今東京に行くのは、危ない」

なぜわざわざリスクの高い地域に行く必要があるのかと、反対してくれる。ありがたい話だった。あなたはそういう人よね。

僕は気にせず出た。僕はそういう人である。例えば、感染者数に対する死者数の割合などは計算が出来る。死者の年齢別分布もわかるので、その偏りを考慮して「自分」が感染時にどの程度の確率で死ぬか想定できる。

次に、自分「以外」への影響は、基本の予防的なプロトコルを踏襲する。もともと広くもない顔で、不必要に他人と絡むこともない。老人は忌避する。年齢やスタンス含めて、自分とあった人とだけ会う。それだけ。

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自分のリスクは大丈夫大丈夫言う割に、人のリスクには危ない危ない言う親父だが、数年ぐらい前から、どうやら計画的にいくらかの生前整理的なことを始めている。仕事上付き合いのある税理士に電話をし、その相談理由を聞かれたのか、カラッとした調子でこう言う。

「死ぬ準備してまんねん」

他にも、加入した生命保険の受け取りを僕たち三姉弟妹(きょうだい)に設定し、保険会社から届いた封筒に、赤いボールペンで要点を書いて渡す。

「パパ死亡時に◯◯万円」

これらの動作は、僕をギクリとさせる。

それは、将来確実に発生するイベントだからだ。次の10年か、20年イケるかはわからないが、ほぼ100%の確率で発生する。

それと比較すれば、

東京に行くこと、
(気をつけて過ごしていても)そこで感染すること、
(さらに若年層ながら運悪く)それが重篤化すること、
(適切な医療機会を受けても)儚くも死んでしまうこと

乗算してみて、ほぼ0%だ。

8/1時点での数値例:
(A) 感染する確率 : 不明(仮に10%)
(B) 30代の感染者に占める死亡率:4/5,384 ≒ 0.075%

∴ 感染して死ぬ確率 ≒ (A) * (B) = 0.0075% = 1万3333人に1人
Source:東洋経済online 年齢別の陽性者数

ほぼ100% vs. ほぼ0%

僕にはそう見えるから、前者にギクリとして、後者にまぁ大丈夫じゃない?と思う。

何にしたかてリスクは伴う。よくわからないリスクはわかる範囲で計算してみる。リスクとリターンはセットだから、合わせて一緒に飲むかを決める。お酒だって、タバコだって、仕事だって、恋愛だって、何だって。

もし同じリターンで下げられるリスクがあるなら、なるべく採用する。旅が好きでゲストハウスが好きでも、今回はなるべく個室に泊まった。

なお、タバコは吸わない。どうもリターンに対してリスクが合わないように感じるから。

第三章:東京

久しぶりに大学時代の友人と再会した。その夜、彼女が4歳になる娘を寝かしつけた後、ハイボールを飲みながら話したことを紹介したい。

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日中、彼女の娘に対する対応を見て、僕的にはとてもフェアだなと思うことが度々あった。彼女は娘を、小さい大人のように扱っているように見えた。「今のこの人からしたら、こう振る舞ってしまったのは仕方ない」そんな整理をよくしていた。

この良さって何なんやろなー、とボーッと考えてたときに、思い出した友人のセリフがある。

オレにとって、最も「愛」に近いものは「ロジック」やなと。その人の考え方や置かれている環境を前提にしたら、その人の言うことだったり振る舞いにも、なるほどそうかと”合理的に考えて認められる”ことが、一番の「思いやり」やし「愛」に近いと。

 相手の何かが自分とは違って、引っかかる時に、

自分がどう思うとか、それが好きか嫌いかとかを一切排除して、相手の考え方・置かれている環境のみを与条件として考えて、その振る舞いを理解すること。感情論ではなくロジックをベースにしたフェアな評価こそ、もっとも「愛」に近い態度である、的な?

そんな例を引きつつ「それが実践出来てんのすごいなー」と称賛する。そしたら、彼女はこんな返答をした。

ロジックは大事だよね。ただ、私がたまに「うっ」て思うのは、その人から見てロジックが通ってるから、その結果を他の人にも「正しいでしょ」ってなる人。「情報量」と「価値観」と「判断力」のどれかが違えば、その条件の中でロジック(筋)が通った結果の、答えも変わっちゃう。だから、自分から見てロジックが通っているから、他の人にも正しいでしょというのは、ミスリードしちゃうことがあるよね。

なるほど。

理が通っているのは大事で、前提条件。そして、自分の理と、相手の理は、同時に成り立つ。その結果が、違う答えになることもある。

6年前の僕は、自分の「情報量」と「価値観」と「判断力」で、ロジックを通して出した結論を、他の人からも「正しい」ものとして、飲み込ませようとしたが、それに失敗していたんだなと思う。

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僕からの見え方
情報量:過去の症例数、医師による医療行為のレベル差
価値観:親父に最適な医療 ≒ 手術の成功率 ∝ 過去の症例数
判断力:人付き合いなどを排除し、シンプルに数字で評価するのが「筋」

彼からの見え方(想像)
情報量:人間ドックでの異常検知から診断までの流れ、人的付き合い
価値観:親父に最適な医療 ≒ 治療期間を通じた心身のケア、接触機会
判断力:人との縁や支え合いに沿うことが「筋」

そして6年前の僕は、この相手側の異なる結論を、なぜそうなるか理解するだけの想像力も持ち合わせていなかった。全くの意味不明。自分はフェアで正しくて、相手はアホに見えていた。

年月掛かってようやく終えた、この違いを組み解く作業は、ほんのハジマリだと思う。あの日あの時、僕(たち)はまだ議論のスタート地点にも立ってないところで頓挫して、遥かなる合意形成の道を降りたのだ。まるでお話にならないと。

自分と違うものは、基本的に不快であるが、それを認めないとそれ以上にはなれない。違いを肯定することは、付随する不快を受け入れること。違いを認めてからが道のり。よりよいものに変化していく余白、創造の世界。

そんな「愛しながらの戦い」はまだ始まったばかり。その火蓋を切って落とさんがなと思うけれど、遥かなる隔たりを前に、しばし呆然とする。

第4章:奥飛騨

7月下旬。再び、奥飛騨に戻ってきた。梅雨もいよいよ開けて、夏本番。

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西田幾多郎先生曰く、哲学(Philosophy≒知を愛すること)の行き先は、「主客合一」であると説く。ドライに現実を認識する(知)だけではなく、その知に対していのちの火を灯す(愛しみをもつ)ことで、自分と相手の境はなくなると言う。

ふと「相手の立場で考えなさい」という小学校に習ったような言葉を、思い出す。

今それをリフレーズするなら、相手の考えや置かれた環境を整理して、相手が持っている「情報量」や、判断基準となる「価値観」、最終的な意思決定をする上での「判断力」を想定し(知)、その振る舞いに対して、なるほどそうかと納得できるだけの想像力(愛しみ)を持ち給え、ということだったのだと今思う。

小学生には、ちと難しすぎやせんかの。

(以上)

よくぞここに辿り着き、最後までお読み下さいました。 またどこかでお目にかかれますように。