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我が、精神安定剤を一粒どうぞ

「ユダヤ人の最後の問い」によれば、彼ら彼女らは、今際のその瞬間に「お前はお前であったか」と自らに問いかける、てなことを聞いた。

人生の意味や目的などは、最早よくわからないし、あんまり深く考え出すとよくないジャンルだとは思うけど、その深淵に引きずり込まれない程度に、浅瀬をわーっと走り抜けて考えるに「誰の人生を生きたか」という問いには「確かに」と言わざるを得ない。

そして大変エモがお好きな皆様には、お聞き苦しいかと存じますが、僕は情緒が割と安定している。不安定さや揺れといったエモの素(もと)も枯れる情緒安定のエモ砂漠である。

根の真面目さ、適度なおふざけ、必要十分な自己愛などの「楽でいいね的な成分」にまみれていることが大きいが、その実は、驚異のバランス感覚で、自分の人生の手綱を小指一本で握っているようなところもあるのだ。多分。そうであって欲しい。願ってやまない。

なお、このバランス感覚は「ただの鋼のメンタル頼み」などでは一切なく、極めてタクティカルに、僕は僕自身のメンタルのチューニングを取る方法をいくつも持っている、というに過ぎない。つまり「方法」としてお伝え出来るのだ。

というわけで長くなりましたが、要するに、頼まれてもないアナタの情緒を安定させてあげたい。要らないかもしれないが毒にもなるまい。

名付けて「我が、精神安定剤を一粒どうぞ」です。では。

ちまちま確実に進捗することをやる

努力や才能の世界に身を置けば、悲しいかな、勝負の世界ゆえの厳しさにも揉まれることがあるでしょうか。どこまでいっても力不足。ワシかてそう。何しても暇がかかるし骨も折れる。本当はどこに向かいたいのかも時々わからなくなる。背伸び背伸びでやってますと。

さてそんな時、癒やしとして提案したいのは、仕事でなくても全然よくて「少しでも前に進んでいる感」を感じられるものをやることだと思う。

ここまでは、ままある話。定石である。

さらに、この作業をシステマティックに、意志の強さに依存しないように仕組み化する作戦も知られていて、そこでは、あくまで過去の自分だけを相手にして「ひとつ」何かを積む。

このステップサイズを小さく小さくめちゃくちゃ簡単にして、習慣にする。すると少しづつでも積み重なるのが当然になり、その継続性や連続性が癖になる。慣性の法則が働き、自然とテンションも上向いてくる。素晴らしい。

勿論基本方針はそれでいいんだけど、こないだ発見したのは、それよりもっともっと小さなベイビーステップ。それが今回お伝えしたいアイデア。

それがこれ。

湯船にお湯を張る

ポイントは、少しづつ張ること。熱いお湯を少しづつ足して、放冷スピードと相殺しながら湯を張るなどもいいと思う。重要なことは、物事がゆっくりと蓄積されていくのを眺めること、である。

これが抜群に癒やしてくれる。ああ、また3cmぐらい増えたか。よかった。さらに時間をおいて見に行く。また増えている。ああ不思議だ。減らない。増え続ける預金残高を眺めているかのような多幸感に包まれる時もある。

同じようなことでいうと、

豆苗を育てる

これもある。ああ、また伸びたな。いつ食べようかな。まだ伸びるから待っておこう。水を少しやってみるか。また伸びた。ああ不思議だ。枯れない。秒速何ミクロンか知らないが、少しづつ成長する。よしよし。

ここで両者のポイントでもあるのだが、スグにみるみる成長するのものは、見ていても心が休まらない。なんとなく監督やコーチにでもなった気分で、代わり映えしない風景を眺めて、腕組みもして、やってるやってる、とフンフン頷くぐらいがよい加減である。

なお個人的には、豆苗よりお風呂の方が、張り合わなくて済むのでオススメしたい。豆苗ですら少しづつ成長しているのに、お前はどうなのか、などとよからぬ方向に思考が進みそうになったら、迷わず豆苗は捨てて構わない。何を人より伸びとんねんと。

元気が出たら、もう少し何かやる

上記二つのいいところは、「自分はほぼきっかけのみ」で、あとは何もせずとも半自動的に物事が進捗することである。それでも癒やしの効果はある。アナタは「生みの親」みたいな顔をして眺めていればよい。

それは間違いなくそのとおりで、自らで初めた行いがそのまま少しづつ蓄積してカタチを為しているのだ。誇っていい。アナタの周辺の世界を少しだけ前に進めたのだ。ほんの少し。

こんな感じで、ちょっぴり精神が安定して立つよすがを得たら、次は「きっかけ」よりもう少し大胆になって、自分の力で押してやることをやる。僕で言うと、このnoteを書くことなどがそれにあたるが、もっとこの間には、無数のバラエティがあると思うので、基本的には自分が楽しんで出来ることを選ぶのがよいと思う。ちょっとだけ大変やけど好きっちゃ好き、みたいなレベルでいい。

ここでは、半自動的には進捗しない分、少しづつ積み重なってゆけば、その喜びもよりグッとくるところがある。ただし、必ずしもわかりやすい「蓄積感」を感じられないものや、それまでに時間がかかるものは、前述の「半自動型」とも合わせてバランスを取るのがいいと思う。

文章を書く以外で言えば、農作業や料理なども素晴らしいと思う。最終的なカタチが現れたらそれは、目に見える幸せである。

現世利益をしみじみと感じる

言い忘れていたが、お風呂も最後には「溜まったら入る」というフィナーレとそれに伴う快感があるので、是非ゆっくり温もって欲しい。

少なくとも何かがゆっくりでも確実に進捗し、それを眺めた。そしてそれがついにカタチになった瞬間には、それをしげしげと眺めて喜び、最終的な利益をしみじみと享受する。これである。最後の気持ちいいところまで味わうことをおろそかにしないで頂きたい。仕事終わりのビールである。

さて、これでアナタの情緒もいくばくか、安定する機会となることを願ってやまないわけであるが、しかし、やはり少しぐらい不安定なぐらいの方が、感情の移動距離が大きくて、ドラマチックな人生に感じられると思うので、それもいいんじゃないかとも思う。

僕はついバランスをとってしまいがちなので、そちら側を眺めては「なんか面白そうやなー」と思うばかりです。

(以上)

写真:上高地 2020年10月

よくぞここに辿り着き、最後までお読み下さいました。 またどこかでお目にかかれますように。