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よくも”常識”でどついてくれたな

夜分恐れ入ります、まさまさです。

記事更新から1日で、びっくりするぐらい全面的なリライトを施しました。というのも、仲間からのコメントが「読みづらい!」の嵐であったため笑。というわけで、エグみを控えめに、旨みを引き出そう、という試み!Yay!

”常識”という名の猛威

誰かと比べるわけでもないが、僕は、これに多分、人並み以上にぶつかってきているような気がする。僕の言動の何がどうして、それほどにまで彼らの気分を害すのか、烈火の如くキレられる。そんなことがちょいちょいある。

今、パッと思い出せるだけで4つある。
以下、前者(A)が”常識”を語る人で、後者(B)が僕である。

①交通:信号を守れ
A:「赤信号守れよ」
B:「いや、車来てないし」
A:「いや、ルールだから」
B:「アジアには信号ない国もあるけどな。信号を守るっていうルールは、その安全を確保するための手段なわけやから、その安全が保証されてるなら、別にそのルール自体を守る意味はないやん?」
A:「日本のルールが守れないなら日本から出ていけば?」
B:「なんでや」

②時間:遅刻は絶対悪
A:「遅刻すんなよ」
B:「このマイナスはトータルで挽回するわ」
A:「いや、それはあかんわ」
B:「なんでや」
A:「すでに他の人の時間を奪ってるから」
B:「いや、他のミスでも時間を奪うもんもあるやろ。誰かて何らかのミスはするわけで、トータルの貢献でプラスにすればええんとちゃうか」
A:「いや、とにかく遅刻はないわ」
B:「なんでや」
A:「遅刻は本人の心掛け次第で避けられるから」
B:「それが会議やとしよう。僕は遅れました。ある人は間に合いましたが、関係ない話を延々としています。ある人も間に合いましたが、寝ています。全部あかんやろ。他の人の時間を損ねてるんやから。遅刻にだけ厳しない?」
A:「いや、遅刻はなんか違うんだよね」
B:「なんでや」

③保険:保険は誰しもに必要
A:「将来、結婚して子供ができて、病気になったらどうするの?癌になったらどうするの?」
B:「その(あなたが勝手にこしらえた)リスク管理を、何で保険商品を買うことで解決するべきやと思うん?」
A:「じゃあそれ以外に何をするの?」
B:「将来の金銭的なリスクに対する備えというなら、例えば、今の自分に投資するとかでも別によくない?」
A:「私は保険は誰しもに絶対必要だって思ってるんだよね。だからみんなやってる。すごい有名な社長さんもやってるし」
B:「いや、みんなやってるからするべきという理屈は何?」
A:「論破してあげてもいいけど、されたくなさそうだからやめとくわ」
B:「なんでや」

④グループ旅行:参加人数は多い方が良い
A:「MAX6人が1日揃うから、この日帰りで決定で」
B:「いや別日程に、5人が1泊2日いけるタイミングがあるから、その1人は切り捨てるべきやろ」
A:「は?」
B:「どのみちグループ全員(※10人)は来れへんねやし、一番日程タイト(わがまま)な奴に合わせて、ただの日帰りで我慢する必要ないやろ。そいつとはまた別で行きゃええやん?」
A:「はい、黙れ」
B:「なんでや」

***

とまぁこんな具合に、枚挙に暇がない。まあぶつかること、ぶつかること。このガンガンぶつかるものの「正体」は一体何なのか。

不快に過ぎるは、お仕着せよ

この上の4つの例は、残念ながら全く議論になってない。
ざっくり言えば、

A:こうだよね
B:いや、こういうケースではこういう可能性もない?
A:いや、これが常識だから(議論の余地なし)
B:なんでや

この繰り返し。

この僕がよくぶつかっていたものの正体は、常識という名の多数派にとって自然で、都合のよいルールであった。

「常識」は、世に一般まかり通る「共通の」価値観と言えば聞こえがいいけれど、その実は、最大公約数的に「多数派に」居心地よく整備された「ルール」然として振る舞う、暗黙の了解でもある。

それは社会の効率のため。全ての合意形成をイチからせずとも、多数の人に共通の考えを、これは「常識=ルール」としてしまった方が話が早い。

そして、知ってか知らでか(A)は、単純な「数の多さ」を「正しさ」に読み替える。多数決を前提にすれば、少数派は「社会のルールを守れないだらしない人間で、論破してやってもいいけど、ごちゃごちゃ言い出したら、うるさいから黙っとけ」という存在か。

そして、知ってか知らでか(A)は、「そういう視点で見たら、そういう考え方もあるよね」をやってくれない。自分たち側にメリットがないからか。そのやることは、ただ眉根を潜めて「やだやだ」「だめねぇ」「子供ねぇ」「だらしないねぇ」「そういう人なんだ」「気をつけなきゃ」こういう態度に着地する。

そんな”議論”の着地は、それぞれ異なる立場への理解ではなく、多数側から少数側への「失格判定」で終わることも多い。

例えば、こんな風に。

まずあなたが不快を述べる。僕の過失なり行動を咎める。自分の言い分は正しい。なぜなら、それが”常識”だから。それが当たり前だから。

僕は答える。
「なるほど、僕とは違う意見だけれど、そういう意見もあるかもしれない。その意見はありがたく頂戴する」と。

あなたは答える。
「そう思ってるようには聞こえないよ」と。

僕は答える。
「ああそうか。それは理解と同意は違うからだと思う。僕は一旦あなたから見たらそう見えるということを理解した。だから、その意見は尊重するけれど、別に同意したわけではない」

あなたは答える。
「わかってないよ。全然わかってない」

おお、君のわかるは、Complyであった。従うであった。僕がそれに従わないなら、わかってないことになり”こいつは駄目だ”という結論になるようだ。何故なら君は、世の中と同じ基準で動けていて、それが「正しい」から。世の中と同じ基準で動けない僕は「間違っている」から。

ああ、もう出来ることはない。あなたにはそう見えるのだから。
「ありがとう、ご迷惑を掛けました」と。

よくぞ”常識”でどついてくれた

「よくも」という感情は、しばしあって「よくぞ」になる。

こういうことが起こると、僕はその否定に驚き、まごつき、何故そこまで、理解されないのか煩悶することになる。苛立ちもするし、不快にもなる。

ただ少し時間が経って、そんな出来事にも、適切な距離を持って考えられるようなると、それまでややアツくなってバランスを欠いた検討(自己弁護)をしていたのも、ある程度は妥当な範囲に収まってくる。

すると相手が言ってた前提や主張も、じわり沁みてきて、なるほどそうね。あなたがそう感じたのも「自然か」と、その感覚も納得できるようになってくる。

最早「よくも」の恨みは消え失せて「よくぞ」の感慨を感じうる。避けることも出来たけど、ぶつかってくれたのだなと。

そしてそんな時ふと、これが「自分のカタチ」かと思い、知る。

どうもありがとう。君とぶつかって分かりました。自分は何が上手に出来ないか。どこら辺が「普通」とズレるのか。そして、そんな「ズレ」の中で、どれが単なるうっかりミスで、どこはどうしても譲れないものなのか。

ああ、僕にとって、物事をきちんと考えたくなる一番のエンジンは、君の持ち出す”常識”とバチバチぶつかったときの不快な衝戟(しょうげき)であった。

駄目の烙印に戸惑いつつ知る自分のカタチこそが、検討重ねてじわりと残るバランス感覚こそが、今に残る君との思い出の宝物だ。

よくぞ、”常識”でどついてくれた。

(以上)

よくぞここに辿り着き、最後までお読み下さいました。 またどこかでお目にかかれますように。