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You in me, me in you

若い頃、「人間の男と女よりも、人間の男とチンパンジーのオス(あるいは人間の女とチンパンジーのメス)のほうが脳の構造(DNA組成だったかも?)で共有しているものが多い」というネタをどこかで仕入れて、それは男女間のあらゆるコミュニケーションの問題をあっさり諦めるにはなかなかいい言い訳だと思って、重宝していたことがある。

好きな異性と分かりあうことができなくても、思いが届かなくても「だってチンパンジーと話せる?できないよね!それより遠いもの、仕方ない。」と考えることで、傷つくことを回避できる。

今、わたしにとって一番身近で信頼関係のある異性はもちろん旦那なのだが、最初につきあいはじめてすでに20年近く経ち、結婚して10年になるにもかかわらず、いまだに「えっ、あなたってそういう人だったんですか」という発見に驚くことが年に何回かはある。どっちが悪いとか隠してたとか変わったとかいうレベルではなく、潜在的にずっとそうだったんだろうけれどそうは解釈してなかったよ、みたいな。お互いに。

最近、それの特大版といえる案件があったのだが、付き合って2〜3年とかならお別れになるような衝撃でも、いったん吞み込み、被害者意識も罪悪感も手放して複眼で検討して、まあ、自分で最初に見積もったよりも短期間で乗り越えることができた。

最初のチンパンジーのネタはどちらかというと諦めの論法であるが、結婚については、オスカー・ワイルドも「The proper basis for marriage is mutual misunderstanding」(結婚の適切な基礎は相互の誤解)と言っている。それはネガティブな意味とは限らず、ポジティブなばかりでもなく、あくまでニュートラルな真実だと思う。

異性間に限らず、すべての人間関係において「相手はこういう人」と思うのは、どこまでいっても、正誤ないまぜ自分の中の相手のイメージなのだ。

また、こちらも大分前から気に入っているネタとして、割れた陶器を漆で繋いで金で飾る日本の伝統技術「金継ぎ(きんつぎ)」においては、その作業を修復ではなく修繕(しゅうぜん)と呼ぶ、というのがある。傷をなかったかのように元に戻すのではなく、それを生かして、より善い芸術とするのだ。

一見、絶望的と思える亀裂でも、時間をかけ複眼で具に検討すれば橋はわたせるし、それがなかったときよりも善い状態にできることもある。その衝撃が走った瞬間に関係を崩落させないために必要なボンドは「意思」だと思うが、あるいは世間はそれを「愛」と呼ぶのかもしれない。

「誰かとずっと一緒に生きるということ」について思うのは、それもきっと人それぞれのあり方だとは思うが(一度も喧嘩をしたことのないという仲良し夫婦もいるだろうし、夫が妻を守り妻が常に夫に従うのが幸せな夫婦もいるだろうけれど)、わたし...というか、われわれのようなタイプの夫婦のレジリエンスというのは、誤解の上に成り立つ相互理解のいろんなネタバレのフェーズにおいて、互いに自分個人のアイデンティティを放棄することなく、相手を、自分から見て欠点だと思うところも不可解なところも含め、まるっと受容して再解釈し、つまり、金継ぎしていくことなのかもしれない。

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