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mama said

心理の世界では、幼少時の親の影響というものは強く語られる。確かに紆余曲折ある物語の始点としてそこは確かに大きな影響力を持つものの、その後の持って生まれた資質、本人の学びや機会、選択次第で、数十年も経つと人はどうにでも変わる、千差万別に予測し得ない場所に行くという意味で、人間はやはり本質的に自由で孤独なものだと思う。

先日、屋久島で最高のトレッキングをした日、下山してから携帯を見たら実母から「何時何分何グラムで生まれました」というような感傷的なLINEがはいっていた。

しばし、誰が出産したのか?弟が知らない間に結婚してて姪が増えたのか?と悩んでしまったが、よく考えたら、その日は自分の誕生日だった。

私のことか!と返信したついでに、単独屋久島ナウとばかりに、とりたての素敵な写真を何枚か送った。

そしたら「涙が出る。寂しくないんかね?」という返事が来て仰天した。子供らが成人するまで、旅一つ行かなかった彼女にしてみれば、旦那や子供と離れて一人の誕生日=寂しいのか、と気づいたが、あまりに感覚がずれてて。

世代の違いもあるかも知れないが、これは出産後初めての(出張ではない)一人旅、しかも自分の好きな島、天気にも恵まれた最高の山行で、私としては、それを許してくれる家族も含めてこんなに世界から愛されている感のある日もめったになかったのだ。

「子供のため」が口癖の母が、ある年齢以上になると鬱陶しく(誰もそれを望んでないのに、パッシブアグレッシブになるくらいなら自己犠牲やめろやと。)、子を産むとこうも自分が無くなるかと思うと恐ろしく、わたしは、長らく子供いなくてもいいかもと思っていた。

しかし、子供を持ったところで、相変わらず私は山に行きたくて、子供が余計に欲しがっても自分のイチゴはさっと食べちゃうし、自分の我がままな精神は健在だった。もちろんいろんな制約はかかるが、恐れていたようにはならなかった。

できるだけ遠くに離れたかったんだが、何から逃げていたのかも忘れるくらい、もう十分遠くに来たなって思った。

BGM: mama said by Lenny Kravitz

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