愛のボキャブラリー
よくしらないとヒプノセラピーもその一員だと誤解されがちなニューエイジの世界では「愛」という言葉が万能ネギのように便利に使われます。人間の行動はすべて愛か不安かに帰結するとか。
思いを巡らす哲学的テーマとしてそれは面白いですが、わたし個人としては、むしろソクラテス的(「無知の知」の)慎みをもって、そのテーマに臨みたいと考えています。
わたしが「愛」について深く深く深く深く考えを巡らせたのは、はじめて人を好きになった10代の半ばからはたち頃にかけてのことでした。ザ・思春期。
せっかくいい大学に入ったくせに、自分という器を最大限に使ってそのことばかり考えていて、文字どおり学業を疎かにして、あやうく3年生への進学をしくじるところでした。
のちにGoogleに入社する際に、国内の面接を全部通った後に成績表提出を求められたのですが、本郷はともかく駒場の成績が想定外にひどくて、リクルーターにウッと息をのまれたのは、今だから言える笑い話。
ハイアリング・コミッティーを通過するには学業以外に忙しくしていたことのラショネイルが必要だと言われ、あわてて当時の課外活動をかきあつめて提出しました。本当のところは、当時の私の成績が悪かったのは愛を哲学することに没頭していたせいなのですが「愛に迷っていました」って言っても絶対採用してもらえなかったと思うんだよね。そういう意味でも、ほらね、愛って万能ではないわけよ。
当時、長い先の見えないトンネルのなかで、もー、この愛ってやつ、痛いし重いし疲れたわ、トンネルごと爆破したらどうなるかな、やってみよう、えーい!と、なりかけていたところ、「ちょっと待ったー」と、すんでのところで首根っこをつかまえてそこから引っ張りだしてくれた人が、今の旦那だったりします。
よくケンカもしたし別れたこともあるけれど、山越え谷越え、時間をかけて、結婚して、ヨーヨーとあーちゃんに恵まれました。一度はブン投げ捨てかけていた「愛」を肯定的に再定義できたのは、まったくもって彼のおかげ。旦那、ありがとう。
だからわたしは...「愛」は便利なだけではなく、時に、劇薬のように痛い、決して美しいばかりではないものだと思っています。油断すると執着なんぞに変容して人を壊すこともあるし。当時好きだった「ベティ・ブルー」も、映画としてみるのはいいけど、ベティちゃんみたいに生きるのは痛いよ。痛くて死んじゃうよ。
だからわたしは...青ネギみたいに愛を差し出されると一歩ひいてしまうのです。あるかないかで大ちがいなのはそうだけど、せめてパセリかバジルかパクチーかくらいのボキャブラリーはほしいなあって...て、最初に設定したたとえを間違えた気がしてきたから、今日はこの辺で、おわりにしよう。
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