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日本の出生数初の70万人割れと反出生主義

前年同期比6.3%減の32万9998人

先日Yahooニュースで「出生数、初の70万人割れの公算 今年上半期、6%減の33万人」という見出しが興味を引いた。
私が大分前から個人的にこの人の言うこと当たってるなーとおもう、
荒川和久氏もコメントをしているが、
概数値ということでまだ確定ではないが、ほぼ確実に2024年は70万人割れとなるようだ。

日本の出生率について色々対策を始めてからしばらく経つが、効果のほどはいまひとつ感じられない。時すでに遅しという意見も散見される。

別に日本だけではない

だが出生率の現象は別に日本だけではないのも知っている人も多いのではないか。
お隣韓国は出生率0.72と最低記録更新、そのほかの先進国も出生率は減少傾向である。

少し前までフランスの出生率は他に比べて高い、
それは政府の支援策が良いからだーみたいな意見もあったが、
移民による効果の押し上げ分がかなりあるという指摘もあり、
結局高い国でもせいぜい1.8、
人口維持が必要とされる出生率が2.06以上を達成するのは中々に困難とはいえそうだ。

子育て支援の無さと経済困窮が原因なのか?

出生率の問題を解決しようとする場合、色々論じられるが大きく2つの観点が目立つように見える。
一つは子供がいる世帯への対策だ。
学校や保育の無償化、出産手当、児童手当、育児手当などなど。
割と初期のころに論じられ、欧米などを参考に日本にも導入が進んでいるようには見える。
ただこれらはすでに子持ち世帯の話であって、まだ未婚や子供を持っていない世帯へ対策しないと意味がないという意見が出始めている。

そして「未婚や子供を持っていない世帯」へ対策をしないと、
「子供がほしいのにあきらめてしまう」
ので、
手取りを上げたり、経済支援をしないといけない!というのが昨今多い言論だ。これが2つめ。
でも個人的には本当にそれだけなの?と思っている。

Dinksを選んだ私

ここまでは事実の話。ここからは私の見解だ。
私は結婚しているが子供はいない。すでに妻も含め40代に入ってきたので、
いよいよ子供を作る道は狭くなっている。
だた今のところこのままDinks(共働き非子持ち夫婦)で行く予定だ。
「経済的に困窮しているから?」と聞かれればNoだ。
失礼な話だが妻はそれなりの名だたる企業に勤めており、私は個人事業主で不安定ではあるものの、おそらく周りの平均収入をかなり上回る額を稼いではいる。
もし今の私たちの収入で困窮して子供が生めないなんていったら怒られそうだ。
私たちは、いや少なくとも私は色々考えた結果「子供を産まない」選択をしたのだ。
もちろん子供いらないや!なんて簡単な選択ができたわけではない。
どちらかといえばくよくよ悩みながら結局産まない選択し続けている気がする。

反出生主義に対する抑止力の低下

なぜ子供を産まない選択を悩んだかといえば、私の感覚が周りと違うと疎外感を感じてしまったからだ。
普通結婚したら子供を産む、事実周りは自然な感じでそうしている。(実情は知らないが)
先日も知人の40代夫婦が第一子を授かった知らせを受けてなおの事、
疎外感を感じたものだ。

そんな中なぜ自分はこんな考えなのか?をネット検索したところ、
反出生主義(アンチナタリズム)という言葉を初めてしった。

興味ある方は調べてほしいが、
簡単に言えば産まれてこないほうが良い、産まないほうが良いという考え方だ。
まさかこんな話を哲学者達が真面目に論じてきたと当初は信じられなかったが、読んでみるとかなり自分の意見に近いものがあり心を打たれた。
結構昔から存在していた主義のようだが、
私は昨今この反出生主義が拡大し、その抑止力が低下しているから出生率減少につながっているのでは?という点で考察していきたい。

基本的に人生は不幸が多いという潜在意識

反出生主義の中で特に目を引いたのが快苦の非対称性と決定理論的テーブルの話。
まあ平たくいえば、産まないほうが合理的であると感じてしまうものと私は理解した。
私の考えの根本にあるものは、人は基本的に不幸であるという考えだ。
確かに人生において幸福な時間や出来事は存在するだろう。だがそれ以上に不幸な出来事や時間が多いと私は感じてしまっている。
一説には生物学上、長く生き残るために脳みそが不幸(リスク)を長期に記憶しやすい構造にあるらしい。そのほうが記憶から死につながる行動を回避しやすいからだ。
だから不幸が多いように感じてしまうのは自然なことではあるのだろう。
結果、心の反出生主義を増大させてしまう。

ただ最近はさらに無意識下でこの不幸が多い刷り込みが多い環境にあり、
その刷り込みを消す出来事も減っていることが、反出生主義への抑止力を奪い、じわじわと出生率に響いてきていると考える。
この根拠について3点述べていく。ちなみにこれらの事象が悪いと言ってはいない。時代の流れだとおもっている。
またこのほかにも色々あるが、今回は割愛する。

① SNSの発達による過度な不幸摂取

最近はXやYoutube、Instagramなど色々なSNSを介して情報をすぐに摂取できる。
昔はテレビか近しい周りの情報しかなかったが、今は色々な出来事や考察が溢れるようになった。
そのなかで、世界中の出来事をすぐに細かく知れるようになったし、
世の中や政府の現状、将来の見解、自分たちの置かれている情報なども多岐にわたる観点で得られるようになった。
個々の発信者に悪気はないとは思うがこの情報摂取の手軽さが、
自分はいかに不幸であるかということ、これからのリスクの多さを過剰に感じさせてしまっている気がしてならない。

  • 世界中の不幸な出来事をすぐに目にするようになった。

  • 世の中や政府の悪い現状や将来性の無さを良く目にするようになった。

  • 自世代や自分がいかに不利な立場にあるかがよく目につくようになった。

親子の悲惨な事件、日本の将来性の無さ、いかに自分たちは困窮しているなどなど、とにかくリスクや不幸への事象や意見を色々なひとが発信している。
そうなれば、いやでもリスクへの恐れが大きくなり備えようとする。
自分は大丈夫か?と不安になる。
他者と比較して自分への自身の無さにもつながる。
自分の人生の幸福度が低下していく。
ふと産まれてこないほうが良かったのか?と頭をよぎる。その機会が増える。

テレビか新聞、近しい周りの情報しかなかったときは、これほどまでに情報が溢れていなかったし、結局いつも似たような意見しか出てこないだろうから、過度な不幸摂取にはなっていなかっただろう。
他人との比較もどこか遠い存在のように感じていたこともあったろう。
だがSNSが発達したことで、より不幸とリスクを感じやすくなり、より他人と比較できるようになった。
こうして産まれて生きていくことは多難であることが自分の心に蓄積されていく。感受性が高い人ほどこの傾向は強いのでは?と推測する。

人生が多難だと思えば、生きるのが辛くなり生まれて来ないほうが良かったと思う。またもし産んだらその子は多難な人生が待っているかもしれないと悲観的になってしまう。また自分に子育てできるのかと自信も失っていく。

②より一人に。より孤独になる社会

SNSで色々な人と繋がれるようになった一方、リアルなつながりはどんどん減ってきているのではないだろうか?
例えば親戚のつながりだ。昔は法事などで良くも悪くも強制的に集まる機会も多かったし、親戚は同じ地域に集まって住んでいることも多かった。
だが最近はどうだろうか?
どんどん生まれ育った地域から出て行っているのではないだろうか?
親戚付き合いも減って行っているのではないだろうか?

どんどん人が流入していきている東京だとその感覚は顕著だ。
昔から地元が東京である人は別だが、上京してきた人ならリアルで会うのが主軸世代の親戚は近所にはいなくなる。
まして昔ながらの近所づきあいも東京を中心にどんどん減っていっている。
マンションであいさつはするけど、長話するほど仲良くもない。
出産すれば強制的に他の人と交わるイベントは増えるけど、独身者・子無し世帯にとっては別にリアルで話す必要などない。

独身者・子無し世帯がリアルに会う機会があるとすれば職場があるだろう。
だがその職場も最近は変わってきたのではないだろうか。
パワハラ・セクハラ・モラハラなどハラスメントへの意識も強くなり、
同僚のプライベートな話はツッコミ難くなったのではないだろうか。
昔は平然と「彼氏・彼女は?」「結婚は?」「子供はまだなの?」と言われたそうだ。
プライベートな話を詮索できなくなり、障りのない会話だけするようになった。

親戚付き合いもご近所付き合いも、そして職場のコミュニティも変化していき、人はどんどんプライベートな領域に踏み入れられなくなった。
唯一のこるのは友人関係くらいだろう。だがそこでもプライベートに踏み込む機会は減っているのではないだろうか?

この一つの結果として、

  • 結婚や出産に対する対外圧力

  • 結婚の斡旋(紹介、お見合い)

  • 子供を持つことの楽しさの共有

  • 子供を育てることの自信・楽観さ

が減少してきていると思う。
これらは反出生主義への抑止力になっていたとおもうが、その機会が減っているのだから反出生主義の暴走は止められない。
むしろ最近はSNSで子育ての難しさや、子育ての人に迷惑に感じている人の意見も散見してしまうから、より子育て難易度が高そうに感じる。

ちなみに妻の実家はかなりの田舎なのだが、そこではまだ親戚づきあいも多いように思える。親戚夫婦は子供を2人以上授かり、いわゆる普通の家庭を設けている人がほとんどだ。

だが彼らが我々に子供は?と聞いてくることは、ない。
これも時代の変化かもしれない。

男女の関係も変わってきたのではないだろうか。
巷では交際率低下、キス・セックス未経験の増加などが調査で浮き彫りになっている。

私はもう学生時代が久しいので最近の実情はわからないが、どうもアプローチするとSNSで晒されたりするなど、面倒になるケースも多いようだ。

男性からの観点になるが、確かに気持ちはわかる。
アプローチがダメだとセクハラやキモイ呼ばわりされそうで、
そんな思いするなら別に一人でいいやと自己防衛してしまう気がする。
最近では自慰に必要なものは簡単に集まる時代だから、性処理もなんとかなるだろう。

きっと女性側も今は自立できる時代だし、めんどうな男性の要求を聞くのにウンザリするくらいなら、一人でいいやと思ってしまうかもしれない。

結局最近の社会構造が人をより一人に、より孤独になるような流れになっているのである。
孤独になれば何事も自分で何とかするしかないという思考になる。
そうなれば自分自身で精いっぱいになり、結婚とか出産どころではない。
昔は良くも悪くも親戚やご近所支援もあったようだが、今はそれも期待できないのだから。
(求めれば得られる縁でも、そもそもそのステップを踏むための心が面倒を感じてしまっている)
だが孤独で幸せを感じられる人はどれだけいるのであろうか。

③可処分時間が足らない現代。子育ての魅力減

シンプルに時間が足らないのである。
可処分所得は良く聞かれるが、可処分時間も最近見かけるようになった。
生きてくことに必要不可欠な時間を除いた自由時間のことを示すが、
それが足らないことも要因だと思う。
仕事のし過ぎで足らない?
いやそれは違うだろう。昔の人のほうが労働時間は長かったが、それでも出産は多かった。
そうではなくて自由な時間に行う活動の選択肢が増えすぎたのだ。

例えば娯楽は顕著だ。
ゲームは沢山あるし、あらゆる映画や本もオンラインで見つけることができる。無料で遊ぶ方法も豊富になった。
国内も海外旅行も昔よりもより手軽に、アウトドアもインドアの遊びの情報も簡単に集められすぐに始められる。
ショッピングでは今や個人で海外からも簡単に買い物できる。
とにかくあらゆる遊びを始めるしきい値が下がっている。

飲食も昔よりもはるかに外食は豊富だ。料理レシピも手軽に手に入る
おひとり様で入りやすい店も増えた。

経済では圧倒的に株などを筆頭に始めるのが簡単に、そして身近になった。
お金の勉強をうたうセミナーもすぐにでもみつかる。自己投資の場もすぐにみつかる。ほかにも自分自身を磨くレッスンも無数にある。
自己表現の場も豊富だ。YoutubeにX、TiktokにInstagram、そのほかも沢山。
別に芸能人でなくても、有名になることもできる

まあ何が言いたいかというと、子育てに時間を使う以外の楽しい(楽しそう)な選択肢がはるかに増えたということ。
そしてそれを実行するには可処分時間が圧倒的に足らないのだ。

昔ならそもそも一定の年齢を行けば、そんなにやりたいこともなくなり子育てに時間を使っても良かっただろう。
だが今は自分がやりたいことをやろうとすると子育てに使う時間が無いのでは?と思う。

こんなこというと「子育てはそんなものとは比べ物にならない楽しさがあるよ」とか「子育てしながらでも十分にできることはある」と言われるかもしれない。
確かにそうかもしれないが、子育てが楽しいかどうかは大して重要ではない。なぜなら「今」子育てしていない人の話であり、子育ての楽しさは出産して子育てをしないとわからない不確実性をともなう「仮定」の話だからだ。
だったら「今」ある楽しいこと、楽しそうなこと、やりたいことを優先させたい人がいてもおかしくないのではないだろうか?

それに私自身の両親は私を育てるために、自分のやりたいことをかなり我慢してきたようだ。
私が病弱だったというものあるが、やはり少なからず子供の有無で自身の行動できる幅は変わるはずだ。

子育てにかける時間と、今ある数多くの楽しい選択肢を天秤にかけたとき、そのバランスがどんどん今ある数多くの楽しい選択肢に偏ってきているのが現代なのではないだろうか。

また先ほどにつながるが、一人でも楽しめる選択肢が増えたことが、さらに孤独を加速させている気もする。
こうなるとますます結婚・出産へのプレッシャーは減るし、自身にはより遠いもののように結婚・出産イベントを「置く」ことができる。

本当に経済の問題が少子化の原因?

まとめるが私は昨今、反出生主義の拡大とその抑止力の低下が少子化の原因ではないのかと思っている。
その理由については主な3つあげてみた。
まずそもそも人生は多難であるという刷り込みになりやすい環境になった。
次にそうした刷り込みを抑制するための機会が大幅に減った。
最後に子育て以外に楽しいことが増え、より子育ての魅力が減った。

この一連の流れにより、結婚・出産・子育ての意欲が減っているからでは?と思っている。特に若い世代を中心に。
もちろん100%魅力が無いとは言っていない。
私もそうだが子を持ち家庭を築くことへの憧れが100%無い、というわけではいだろう。
だがそこへ向かう原動力が減っているのである。

これらのことを果たして人の所得が増えたから変わるのだろうか?
確かに金銭が理由で子供をあきらめる人もいるとはおもうが、裕福とは言えなくても子供を出産する人もいるし、金だけで解決できるとは思えない。

上記の3つは社会の流れであり、止めることはかなり難しいと思う。
社会の構造の変化なのだから、出生率の低下は自然の流れではないだろうか。
そもそも人口動態とは多産多死から少産少死に行く流れだと聞いたことがある。
人口が増えなければいけないというのは、結局経済の観点からではないだろうか。
これからAIがさらに進化し、労働人口がいらなくなる時代に、人口が多すぎるのはかえって負担になってしまう。GDPなどそのうち大して役に立たない指標になるだろう。
むしろ先進国がみんな人口増えてしまったら、食糧問題、社会保障、領地問題など沢山の弊害が出てくるかもしれない。

勘違いしないでほしいが子供を産むなといっていない。
子供が好きな人、子供が欲しい人には是非子育てをしてほしいし、
社会や地域ネットワークで子育てを支える支援は重要だと思うし、政府の子育て支援、また所得の向上は賛成である。
が、それで出生率が改善するとは到底思えない。少しは上向いたとしても、
結局人口減少の方向性は変わらないと思う。

であれば、人口減少を前提とした社会システムの設計や地域ネットワークの構築に重点をおいたほうが、結果的に良いのではないか。
(とはいえ私には具体案がないので、無責任な発言ではあるが)

邪推かもしれないが、おそらく普通に子育てまでの人生の流れを泳げる人には反出生主義の感覚はわからないと思う。
そうした人が考える場合、お金の問題とおもうのは自然だ。
でもお金だけではない。そもそも産まれること、産むことへのリスクを強く感じてしまうのが原因なのではないだろうか。



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