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小笠原日記2日目 体感としてわかった、使うぶんだけ、食べるぶんだけ獲るということ。

「シロアリが家を食べるから、家の解体費用がかからないんだよね」

私は今、小笠原のぷーらんという宿に宿泊しています。
なかなか面白い宿で、全てがエコな循環で回っているところ。

ヤモリやアリがそこら中にいるし(たまにゴキも)
夜、階段の途中でトノサマガエルがひょっこり顔を出すし、
朝、昇る太陽と鳥のさえずりで目がさめるし、
トイレは、自分の排泄物に炭と枯葉をまぶして土に還すし、
循環の中にお邪魔しながらひっそりと暮らしているような感覚です。


印象的だったのは、オーナーさんの「シロアリが家を食べるから、家の解体費用がかからないんだよね。普通は解体費用とかかかるけど、シロアリは自然のものだからいいよね」という言葉。


「食べるぶんだけ、使うぶんだけ獲ろうよ」

昨日は、そんなぷーらんのオーナー、りょうさんのシーカヤックツアーにお邪魔しました。
ブルーの海の中を、こいでこいで、ビーチをわたっていく。

りょうさんに「楽園ってどんなところだと思う?」と聞かれた。
「白い砂浜があって、木陰がたくさんあって、人があまりいなくて、海が青くて。」

まさに、そんなビーチで、泳ぎ釣りをする。

「最近は、餌がゲソだけだと魚が撮れないから、岩に張り付いてる貝をとってこようか」
4人で泳ぎ釣りをするのに、集めた貝の総量は6貝ほど。
そこらへんに、たんまりくっついているのに。え、これだけ?もっと獲りたいしもっと釣りたい。

そんな風に思ったら、りょうさんが呟く。
「よくさ、楽しいから魚も他の生き物も、たくさん獲っちゃうんだよね。
食べきれないほど獲って、結局捨てちゃう。命を無駄にしたくないなあって思うよ。
だから、食べるぶんだけ、使うぶんだけ獲ろう。」


餌をつけて、沈船の真横で泳ぎ釣りをする。
糸を垂らしてロクセンスズメダイが引っかかった。
陸までの距離は5分くらい、必死で逃げようとするこいつと一緒に海を泳ぐ。
おちょぼ口の先に釣り糸が刺さり、内出血のように紫に染まっている。

ああ、こいつも必死で生きようとしている、こんなかわいいお魚をこれから頂くんだな。
生き物って尊い、粗末に扱ったらダメだ。

ちょっと可哀想になって、ベジタリアンの気持ちが理解できるなぁなんて思いながら、その命を大切にいただきました。(ちなみに、頂くときもそこらへんの大きな葉っぱがお皿がわりです。)


共生には少しの退化が必要なのではないか

ここへ来てずっと体感しているのは、生き物や人間と「共生」しているということ。

何かに一方的な負担をかけるわけではなく、時には手間暇をかけて、命の循環を守っている。
衝撃的なのはトイレだが、こんな排泄物でも、人間という動物から出てきたものだから、最後は土に還る。


そんなこんなしていると、別に部屋にアリやクモがいてもなんとも思わないし、動物だって植物だって、他の生き物がそこらへんにいることが当たり前になる。

今、他の宿泊客は、寂しいことに78歳のおじいちゃんしかいないが、ここに他の国の人が来たって、別の生き方をしている人がいたって、それが普通に感じられる環境であることは間違いない。

便利になっていく中で、私たちが気づかずに排除して言っているものはなんなのか。
排除することで、自分たちも窮屈になりながら、まだ便利を求めていっているのではないか。

他民族との共生なんかもよくいったりするけど、他民族だけじゃなくて、自然とか動物とか、全部ひっくるめて共生なんじゃなかろうか。

原点回帰まではいかずとも、便利さを循環の中に自然と組み込んでいけるような「程よさ」を考えていきたいと思う。

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