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保阪正康『蒋介石』文春新書(1999)

 蒋介石(1887-1975)というと、戦後中国を代表する軍人・政治家で、日中戦争に勝利後、毛沢東に敗れ台湾に逃げた歴史上の人物という印象だ。しかし、この本を読んで、時代的に私の人生とも重なっていることに改めて驚かされた。実際この本の執筆時点で、張作霖の息子・張学良(1901-2001)がハワイに存命だったことにも驚く。

 先日、2022年に最年少台北市長になった蒋介石の曾孫とされる蒋万安(1978-)が来日したが、彼は蒋経国(1910-88)と正妻ファイナ夫人の孫ではなく、章亜若との孫で2000年代まで「章万安」と名乗っていたという(本当に蒋経国の孫なのか?論争もあるらしい)。しかし本書の書かれていた時点では、

「蒋家による国民党の時代はすでに一時代前に終っているというべきだろう」(蒋介石の次男・蒋緯国の言葉、本書280頁)

と考えられていたわけで、蒋万安が国民党の若きホープとみなされている今、改めて蒋介石の物語は興味深い。

 蒋介石は上海に近い(?)浙江省溪口鎮に生まれた。9歳で父親を失い、母子家庭で苦学して軍人を志す。特筆すべきは多感な20代に、通算4年ほど日本で軍事教育を受けていることである。つまり、日本の事情をよく理解していたのである。
 保阪さんはおりに触れ、戦前の日本政府の対中国政策の無知・誤りを追及しているのだが、蒋介石が日中戦争に関心を示さない英米に対して「世界大戦」化することで、巻き込んでいく外交戦略は実に興味深い

「日米戦争」を演出した蒋介石

 1940年の蒋介石の日記には、こう書かれている。
「<日本に対し、英米がいかなる妥協的な態度もとらぬよう政治工作を進めること>ーーそれをつねに確かめながら、日本が英米と対立する状況での抗日戦争こそが望ましい。そのような時代に入ってきたのである。歴史は私の思う方向に進みつつある」(本書203頁)

「1940年4月から、日本とアメリカは無条約状態を正すとの双方の意思と相互の国益を調整するという目的で、外交交渉を始めることになった。(中略)重慶にあって蒋介石は、この交渉を不安と期待で見守っていた。(中略)
期待とは(中略)可能ならば日米が軍事衝突をすることによって、中国とアメリカの国益が合致するようにとの願いであった。」(本書205頁)

「1941年11月21日、日米交渉は最終段階を迎え、ハル(アメリカ国務長官)は日本に突きつける回答文案(のちのハルノート)を胡適に示した。(中略)この案には、正直なところ中国についてはまったくといっていいほどふれられてなく(中略)蒋介石は言葉を失い、憤怒と苦悩のどん底にいちどに追いやられた。しかし、蒋介石はすぐに反撃にでた。」(本書209頁)

「もっとも大きな役割を果たしたのは、蒋介石がチャーチルに送った長文の電報であった。(中略)蒋介石は『中国を侵略中の日本軍の撤退問題について根本的な解決がなされる前に、アメリカの対日経済封鎖がいささかなりとも緩和されたり変更されるのであれば、中国の抗日戦争は必ず崩壊するであろう」と(中略)断じた」
「この電報にチャーチルはとびつき、(中略)ルーズベルトに緊急に連絡したのである。」
「こうしてハルノートには、『中国からの撤兵』や『汪兆銘政府の否認』といった条項が(中略)盛り込まれた。日本にとっては三国同盟離脱要求とともに受け入れられないとして、戦争への道を歩むことになった条項である。(中略)
蒋介石は、その日の日記(11月28日)に、『アメリカの強硬な対日姿勢への変化は、自分の断固とした態度と決心によりもたらされたものである』と書いた。自らの勝利を自覚したのである。」(本書210頁)

 日本が最後の望みをかけていた日米交渉が、蒋介石に筒抜けだったことも衝撃的だが、ハルノートの中に日本を日米戦争に導く蒋介石のワナ(あえてワナと言わせていただく)が仕掛けられていたとは、いったい、日本の外交はどうなっていたのだろうか。

蒋介石とアメリカの微妙な関係

 しかし、蒋介石の苦難は続いた。対日戦で思うような成果が上げられず、ルーズベルト大統領は、蒋介石に対する不信感をあらわにしたのである。

「ルーズベルトは(1944年)7月7日に突然蒋介石に電報を送り、中国にいるアメリカ軍、紅軍(共産党)を含めて指揮権はすべてスチルウィル(米軍作戦参謀)にゆだねるとの提案を行なった。」(本書222頁)
「9月19日、スチルウィルはルーズベルトの電報を蒋介石に手わたした。それはルーズベルトが自国の軍人にあてたような内容で、『一刻の猶予もなくスチルウィルに全権を与えよ』とあり、(中略)宋子文(蒋介石夫人=宋美齢の兄)は、58歳の中国を代表する指導者が、大声をあげてまるで赤子のように激しく泣くという光景を目撃することになった。」(本書225頁)

蒋介石を助けた「旧日本軍」将校たち

 蒋介石のアメリカに対する不信も、日本降伏後も続いた。1948年、共産党との内戦のさなか、アメリカの支援を得られなかった蒋介石は、連合国占領下の日本に支援を求めたのである。「政治的行動に加わったことのない旧日本軍の優秀な将校」百人余が、中国に渡り、国民党兵の教育・訓練にあたった。

「団長は第23軍参謀長だった中将の富田直亮であったが、富田が白鴻亮を名のったために白団と呼ばれることになった。」(本書250頁)

 しかしもはや国民党軍は、共産党軍の勢いを止められなかった。
「白団の一員であった日本人将校の証言によると、作戦指導にあたっていた部隊が次々に寝返る情勢にあることを蒋介石に報告したとき、蒋介石は
『すぐに台湾に行ってください。あなたたちに護衛をつけますのでそちらでまた会いましょう』と話したという。蒋介石は、こうして1949年12月10日の朝に中国本土を離れ、台北にむかったのである。」(本書255頁)

 その後の台湾統治で「白色テロ時代」(1949-1987)を長く続けた蒋一族への台湾人の評価は分かれる。ただ、20世紀の中国史において、孫文・蒋介石・毛沢東は欠かせない人物といえよう。まだまだ勉強すると面白くなりそうだ。



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