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続・少年少女は前を向いたのか――蛇を打ち倒す物語と、分析心理学的発達段階論について(仮)

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はじめに

 この記事を公開してから最初の夏、8月15日を迎えた。司書資格を取得するために先月から司書講習を受けつつ、大学図書館で働きながら夏を過ごしている私なのだが、実は司書講習の受講先である大学も勤務先の大学図書館も8月15日はどっちも休みだ。ここ最近、平日は9時から18時ごろまで毎日司書講習のために片道2時間ほどの距離を電車に乗って通学し、土日は大学図書館で働く日々を暮らしてきたが、この生活はかなり身体に来るようで、最近は変に寝付けないどころか、とうとう意味不明な夢まで見始めたくらいだ。そんな自分にとって今日は滅多にない休日なのでせいぜい謳歌したいのだが、せっかくの休日くらい、好きなことをしたい。なんせ、今日はカゲプロの日(もとい終戦記念日)だ。そうだ、カゲプロのことについて書こう。隠して、私は午前10時半からこのnoteを書き始め、12時半にヒビヤがトラックに突っ込まれる時間にまで書き上げることを目標に記事を書き始めるのであった。

 カゲロウプロジェクトについて書いた上記の拙論にて、私は少年少女の物語が父親との対決という物語という側面だけでなく、登場人物それぞれが内面で抱える葛藤を解消し、ある意味で救われていく物語であると書いていた。そして、そうした少年少女に限定されないあらゆる人々を助け、前を向かせる姿勢——「少年少女前を向け」という声に対し、2020年代以降の「うっせぇわ」に代表されるある種の救いのないような姿勢を対置させると同時に、そうした時代的風潮へ対抗しうるものとして、2021年の夏に「チルドレンレコード」が新たな装いで公開されていることを指摘した。あれから1年が経過し、いまだ新たな変化は見せないものの、私はこの先に何があるのを楽しみにすると同時に、一度簡潔させられた物語を再度始めてしまうことへの、ある種の抵抗感さえも覚えている。行ってしまえばただのノスタルジーというか、自分が過去に経験してきた歴史をあたかも改ざんされていくような感覚さえ覚えてしまうからだと言えばそうなのかもしれない。それをただのノスタルジーとして片づけてしまうのは容易なことかもしれない。だが、それで片づけてしまうには勿体ないような、その意味を本稿では考えてみたい。

 さて、私が今まで書いてきたものを見られた方はご存じかもしれないが、私はカール・グスタフ・ユングの分析心理学という学問を大学から大学院まで専攻しながら、勉強をしてきた。かの有名な小説『空の境界』では、分析心理学の中でも重要概念である「集合的無意識」というものが蒼崎橙子の口から語られる。あるいは、『バキ』にて徳川のじっちゃんは死刑囚5人が時を全く同じにして脱獄し東京に向かっていることを「シンクロニシティ」と称したが、これも晩年のユングが出した概念だ。このように、当時はオカルト的とまで評された彼の思想はそのオカルトさゆえか、サブカルチャーの中で実はよく出没している。しかしながら、彼の思想の中でも最も重要視されたのはある種の精神の統合であり、個性化といわれる自己実現の過程である。これはいわば人生の最後の段階において実現すべき人間のあり方であり、人間の生涯に関係する点では発達心理学における発達段階論(今日だとエリク・エリクソンの発達段階論が著名だが、これはユングと同じく精神分析を起点にした性的発達段階論をベースにしている)に関係する。人間がどのようにして自分を確立させ、影(分析心理学の専門用語で、個人の無意識上に出現するもう半分の自身)との対話を通して自分らしさを手に入れるかという過程そのものは、まさに葛藤を抱えながらも生きていたカゲロウプロジェクトの少年少女たちにも何かしら、重なるものがあるだろう。

分析心理学的発達段階論について

 では、分析心理学が提示した発達段階論とはどのようなものなのだろうか。ユング自身が第二世代と評した分析心理学者エーリッヒ・ノイマンの『意識の起源史』は、無意識上で混沌としている自我から自己受精を経て、最終的に自我が形成されていく過程を描いた分析心理学的発達段階論を提示している。以下ではこれについて若干ながら見ていきたく思う。なお、以下の文章は修士論文からパクったものである。

 『意識の起源史』は、人間の意識の発達過程を数多くの神話やイメージなどから検討する著作である。本著作の内包する長大な思想の全貌を取り上げることは本論ではできないが、特に主体の成長という点を念頭に据えながら、本書の整理に取り掛かりたい。本書が展開する人間意識の発達過程には、意識の未形成段階である「ウロボロス」、そしてそこから生じた「原両親=原母、原父」の形成、最後に自我意識を完成させる「英雄」など、専門概念がいくつも登場してくる。

ウロボロス

真鍮の楯に描かれたウロボロス(『意識の起源史』p.35より)

 その最も初めに登場するのが「ウロボロス」だ。自らの尾を加え一つの円を形作る竜(あるいは蛇)のイメージであるウロボロスは、人間の意識発生の最も始原の形として認識される。『意識の起源史』ではウロボロスの「未規定」性が強調され、それが人類の歴史上に多様な形で偏在してきたと主張する。

始原に位置するものは完全性と全体性である。この資源の原-完全性を説明しようとしても、つねに周りを回っているにすぎず、その本質上、神話的に描写する以外に道がない。それというのも、描く側の自我も、自我の目の前にある描かれる対象である始原も、その大きさを測りようのないことが判明するからである。それは自我が意識内容として対象を概念的に把握するときのようなわけにはいかないのである。
 このため、始原はいつもある一つのシンボル〔=ウロボロス〕が置かれるが、このシンボルは恐ろしくも多様な意味を持ち、規定されず、規定しえないものであることが最大の特徴である。

(Neumann 1949=2006: 34)

ここで重要なのは、彼がウロボロスを「恐ろしくも多様な意味を持ち、規定されず、規定しえないものである」とした点だ。彼のウロボロスに対する「人間の意識発達の根本に存在しているイメージ」という解釈はあくまでも表象の一つの「可能性」にすぎず、仮定的なものとされている。こうしたイメージに対し、ノイマンは「未知な」存在に意識的に接し論じることを「意識化」と呼び、結果生じる理論こそ、分析心理学において重要だと考える。

 未規定性、未知性に包まれていることを前提としてもなお、彼は「可能性」という前提と据えながらウロボロス表象についての考察を進める。ノイマンはウロボロスが「円」であることに注目すると同時に、「子宮」及び「両親」の二つの解釈を提示する。 

原初の完全性を表わすシンボルの一つが円である。この同類が球、卵、および《円環》・錬金術の円・である。(…)円。球・丸いもの・であるそれは、自己完結的なものであり、はじまりも終わりも持たない。(…)なぜなら、円という性質は以前も以後もなく——時がなく——、上も下もない——空間がない——からである。

(Neumann 1949=2006: 37-38)

最初の戦いであり始原への問いでもある「どこから」という原-疑問には、一つの答えと、この答えに対する二つの解釈によってのみ答えることができる。一つの答えとは円であり、二つの解釈とは子宮と両親である。

陰陽を表す二つ巴を手に持った中国神話の創造神である盤古(『意識の起源史』p. 39より)

 ウロボロスの中の竜(あるいは蛇)が自らの尾を噛むことによって生じる円は、分析心理学上において対立物の統合という意味合いを持つ。ノイマンが『意識の起源史』で紹介する中国神話における創造神である「盤古」が両手で抱えている「二つ巴」——すなわち陰陽が一つに混ざり合うイメージ——と、それが「円」の形に描かれていることは、ウロボロスのイメージの一つの例でもある[1]。では、「子宮」と「両親」の解釈とは何か。「子宮」という解釈はそれが人間意識の発生の始原であることを意味する。 

多くの未開民族は、性交が子供の誕生につながることを知らない。未開人のように子供の年代で性交を始める場合、それが決して子供の出産に結びつかないため、子供の誕生は成功における男性の授精とは無関係とみなされてしまうのである。
 しかし、「どこから」という問いは、つねに変わらず「子宮から」と答えられるにちがいないし、また答えられていくことだろう。新生児がみな子宮から生まれるというのは、人間の原体験だからである。神話の「丸いもの」もまた子宮と呼ばれるが、この起源の場所は具体的な場所と受け取られてはならない。すべての神話が繰り返し述べているのはまさに、この子宮がイメージであり、女性の子宮は人間がどこから来たのかを示す原シンボルの中の一つにすぎないということである。この原シンボルは、同時に多くの事柄を示すシンボルであって、一つの内容を表すものでも、ましては体の一部を表す者でもなく、多元的なものであり、世界ないしは世界の一領域であって、その中にはたくさんの内容が隠されており、またたくさんの内容が生きているのである。「母たち」とは一人の母ではない。

(Neumann 1949=2006: 44-45)

 引用では、ノイマンの円の解釈としての「子宮」について展開される。しかし、「子宮」という解釈の背景には、円を「卵」と解釈するユングの影響も隠れている。ユングが1944年に発表した『心理学と錬金術』における、「円」象徴を「賢者の石」と表現している箇所に注目しよう(Jung 1944)。

錬金術における「卵」の表象 (『心理学と錬金術Ⅰ』p. 51より)

著作に登場する図5はミューリウスの『改革された哲学』より参照され、ユングは上図とともに当時の錬金術思想における目標を「愚昧な人間たちが考えているような普通の黄金 (「卑賎なる金 aurum vulgi」)ではなく哲学者の黄金であると言っている」ことをいう(Jung 1944=2016: 31)。当時の錬金術師たちによって秘匿されてきた「哲学者の黄金」は錬金術における「賢者の石」であり、それは「水銀」=「メルクリウス」だ[2]。両性具有として語られるメルクリウスは「アニマ」と「アニムス」という対立物が統合された状態であり、対立物の統合=「個性化」された存在である。そうした存在が丸い「球体」の上に立っているのが図5だ。統合の象徴たるメルクリウスが立つ球体こそ、丸い混沌、すなわちあらゆるものの発生の起源と解釈される。以上のように、図5は錬金術の基本思想を象徴する図であり、ノイマンの「子宮」の解釈は以上のようなユングの考えを継承している。

 「子宮」や「卵」が両親の性交に大きく関わることから転じ、さらにウロボロスは「両親」の解釈をも持つ。ノイマンはこれを「原両親」と表現する。 

大いなる円、ウロボロスは、子宮であるばかりでなく、「原両親」である。原父は原母と結合してウロボロス的一者をなしており、両者を互いに引き離すことはできない。ここではなお始原の法則が支配しており、その中では上と下・父と母・天と地・神と宇宙・が互いに相手を映し、決して相手から分離されえない。諸対立の相互結合という始原的存在の状態は、神話の中では、互いに結合した原両親というシンボルにおいて他に現われようがあろうか!
 こうして、「どこから」という問いに答えを与える始原の原両親は、全宇宙であり、永遠の生命の原シンボルである。原両親は完全なるものであり、そこからすべてが生成する。また永遠の存在であり、それは自らに授精し・自ら身ごもり、自らを産み・殺し・再び生を与える。

(Neumann 1949=2006: 49)

 原両親は「結合してウロボロス的一者をなしており、両者を互いに引き離すこと」はできず、それゆえ「それは自らに授精し・自ら身ごもり、自らを産み・殺し・再び生を与える」。ウロボロスが「混沌」な存在であることは先に確認したが、意識発達における重要なイメージの原両親はそうした混沌ゆえに、未発達なままである。そうした未分化的性質はすなわち、父親と母親が雌雄一体の状態であることを意味する。『意識の起源史』ではこうした雌雄一体的ウロボロスゆえに可能な自己受精、未分化な両親間での受精によって父親と母親が分離し、最も初期段階の自我が形成されることになる。 

原両親の分離と英雄神話 

 混沌状態とともに原両親は分離し、「原母」と「原父」の二つが現れる。それによって、自己における無意識と意識の最も基盤的な存在が形成される。「母」と「父」という対照的な存在が始原的な意識状態で形成されていくわけなのだが、さらに各々が肯定的側面と否定的側面という、両義的要素を抱えている点が特徴だ。こうした対立物の複雑な関係性は、ユングが示したようなある種の両義的姿勢をも強く継承している点でもある。

「原母」は「豊かに送り与える世界であり、生に至福を与える幸福の授け手、自然の豊饒な大地、生み出す子宮」という肯定的側面、および「死・ペスト・飢饉・洪水・本能の猛威・奈落へと引きずり込む甘美さ・などを司る残酷な女主人」という否定的側面の二つが内在されている[3]。このことは、『意識の起源史』でも述べられる (Neumann 1949=2006: 74)。

一方、ノイマンの議論においてはとりわけ「原父」が、意識発達において重要な役割を占めることになる。それは無意識的世界へ自我を誘導する母親と異なり、自らを律するものと語られる。 

自我の解放、すなわち「息子」が自らを自我として確立し、両親を分離することは、さまざまな次元で実行される。
 この段階の叙述が複雑をきわめているのは、意識が発達したばかりの段階ではまだすべてがからみ合いもつれ合っているためであり、またこの「現両親の分離」のような元型的な変容を経験すると行為・作用・効力のありとあらゆる次元が展開し分化しているさまが突然見えてくるためである。(…)身体と対立している状態が自我の本来の状態である。自我がウロボロスの中に包み込まれ、ウロボロスに圧倒されている状態は、身体との関わりで考えるならば、初期の自我と意識が身体界に発する本能・衝動・感覚・反応の世界によって終始圧倒されている状態である。(…)しかし自我が強くなるにつれて、身体界から、すなわちここでは自らの身体界からますます際立ってくる。この際立った状態は、最後には周知のように自我意識の組織化という状態に至る。この状態においては身体の部位はどこもみな無意識的であり、意識体系は無意識的な過程を代表する身体から切り離されている。

(Neumann 1949=2006: 158-159)

 原両親の分離は、一体化されていたものから二項対立が発見されることではじまり、その最も初歩な気づきは「身体」と「自我」という二項対立の形成である。自我発達が未完全であり、ウロボロスの混沌の中から二項対立を形成できない未発達な自我は「身体界に発する本能・衝動・感覚・反応の世界によって終始圧倒されている状態」にさらされる。だが、自我の発達——ウロボロス的な混沌からの脱却——が成功すると、自我は自らの身体を操作できることに気づき、自我は自らの思い通りに身体を操作する。この過程によって、自我と身体の間に「能動」と「受動」の二項対立という、自我形成において最初期の二項対立が形成される。このように二項対立の形成を促進し、自我を形成するのが「原父」だ[5]。これは原母による誘惑、その否定的側面から距離を取り、こうした自我形成と原母からの独立を助長する面が、原父の肯定的側面にある。 

世界両親を分離する段階は、対立原理が生まれる中で自我と意識の独立が始まるという内容を含んでいるが、この段階は同時に男性性が強化される段階でもある。(…)この意識の強化は、タブーの設定においてすなわち善悪の区別の設定において顕になる。この設定は無意識的・本能的行動の代わりに自覚的行為を置くことによって、意識を無意識に対して区切るのである。

(Neumann 1949=2006: 175)

 意識の強化を行う原父の持つ心的な作用をノイマンは「業であり、戦いであり、創造」とも表現する(Neumann 1949=2006: 163)。意識と無意識が明確になり、ウロボロス的混沌から自我が分離すると、自我意識は分離した原両親に内在する否定的側面の克服を行うために立ち向かう。その過程で、分離した原両親における否定的側面、無意識の果てしない混沌の世界を「竜(あるいは蛇)」と、これに立ち向かう自我を「英雄」と置くことで、自我形成における否定的側面を打ち倒し自我を形成させる過程、自我発達における次段階である「英雄神話」が始まっていく[5]

 ところで、原父の否定的側面は何だろうか。それは次のように語られている。

自我の英雄的な活動によって、すなわち自我が世界を創造し、対立項を残しつつウロボロス魔圏から外に出ることによって、自我は孤独で引き裂かれたと感じるような状態に陥る。

(Neumann 1949=2006: 163)

自我や意識の成立と共に生じるのは孤独ばかりではない。苦悩・労働・苦難・悪・病気・死もまた、自我によって知覚されるが故に姿を現す。孤独を感じている自我は、自己-存在に気づくと同時にマイナスなものにも気づき、自らと関連付ける。つまり両方の事実〔=自我とマイナスなもの〕を関連づけ、自我の成立そのものを罪と、また苦悩・病気・死を罪とみなそうとする。

(Neumann 1949=2006: 164)

一つ目の引用では、自我が竜を討伐できる英雄となったとき、無意識と分離してしまうことによってそれとの一体感を喪失し、その結果に孤独感が生じることが言われる。二つ目では、孤独感を感じた自我は同時に「苦悩・労働・苦難・悪・病気・死」などのイメージをも抱えることになることが言われる。英雄の誕生はこうした否定的側面をも同時に生じさせるが、これを乗り越え、一つの「自己」に到達するのが、分析心理学の大きな目標である「個性化」とも関係する。

 整理しよう。ウロボロス的な混沌とした状況下から自己受精を経て生じた自我意識は、発達過程で「原両親」が分離し、それぞれ「原母」と「原父」になる。分離した両親イメージはそれぞれに両義性を有し、原母の場合は生産や幸福の象徴である側面と、自我を集合的無意識の深層世界へと引きずり込む側面の二つを有する。対し、二項対立を設定することによって自らの意識をより明確化する存在として、原父がある。原父は二項対立の設定により「無意識的・本能的行動」と対立する意識を独立させたものとして形成するが、一方で自我を孤独状態に追いやってしまう否定的側面も有する。以上のような、原母のみならず原父さえも有している否定的側面=「竜」に対し、自立した自我が「英雄」となりこれを討伐する「英雄神話」を経ることで、自我は確立される。

両親を乗り越えて確立される自我の物語

 蛇が自身の尻尾を噛む円環から自己受精し、分裂の果てに生じた両親の否定的側面と戦いながら、最終的にはそれを打ち払うことで自我を獲得し、主体は成長していく。カゲロウロジェクトにおいて重要なモチーフとなる「蛇」は、ウロボロスのイメージ、すなわち混沌の形態として人間の最も最初の形態として出現してくるものだ。カゲプロの全体の最も最初の次元として登場するメデューサのアザミは多数の蛇をその身に宿すと同時に、物語の全ては彼女が起点となっている点でも、やはり蛇のイメージはこの物語においても根幹のところに存在しているだろう。そして、少年少女たちはこの混沌の象徴ともいえる蛇を自身の身に宿すことによって、死んでいながらも生きているような状態になりながらも現実世界の中で生き、そして「目が冴える蛇」の策略に立ち向かおうとしている。「目が冴える蛇」の目的がすべての蛇を抜き取ることであり、蛇をもとあった形に戻すことであるのならば、それはまさに集合的無意識の最初期の段階におけるウロボロス的混沌状態への回帰であり、したがって彼は蛇としての仕事を最も忠実にこなしているともいえるだろう。他方、蛇を身に宿した少年少女たちは目が冴える蛇と対峙し、それを乗り越えようとしている。分析心理学において混沌を象徴する蛇を打ち取ろうとしている彼らの様相はまるで、竜を討伐しようとする英雄のイメージにも相当するだろう。蛇を一つにまとめ上げようとし、そこから逃がさないという意味では、目が冴える蛇は母親の否定的側面たる胎内への閉じ込めのような側面をも有する。少年少女たちはこれに立ち向かい、そして打ち倒すことによって、確固たる自我を取り戻すのかもしれない。

 なお、蛇は打ち倒されるが、決してなくなったわけではないことも重要だろ。『意識の起源史』にて竜は打ち倒されることで自我は確立されるのだが、一方で「無意識的・本能的行動」の象徴である竜は決して主体から完全に消去されるわけでなく、まさに精神分析的構図にのっとり、主体の意識によって抑圧される無意識として水面下に存在することになる。ゆえに無意識的・本能的行動の象徴としての蛇は決して完全に消去されず、むしろ完全に消去されてはならないものとして語られるべきものであるだろう。無意識が主体を崩壊させ混沌に落とす存在であるがゆえに抑圧されて内在する以上、目が冴える蛇という無意識的存在は決して完全に消されてはならず、ヒビヤの内面にいなければならないのだ。そうして、彼は「延々と繰り替えす8月15日」という、逃げることのできない無限ループ(これも「決して外側に逃がさないという点において、母親の胎内から決して逃がさないという否定的側面のアナロジーと捉え得るだろう)から脱し、ある意味で集合的無意識的欲望を持つ蛇という存在を抑圧することで、成長していくのだ。

 こうした過程から、ある種の母親の否定的側面たる胎内への強制的な回帰=蛇の収集と終わらない日々たるカゲロウデイズからの脱却を経ることによって自我を獲得した少年少女たちに、次に要求されるのは何だろう。本稿では母親との決別という点に議論の主軸を置いたが、父親の否定的側面についてはまだ触れられていない。キドとセト、カノの孤児三人組をはじめ、メカクシ団メンバーの多くはそもそも前提として孤独であることが多いが、そんな彼らにとってのよりどころとなっていたのはメカクシ団という居場所だった。病弱ゆえ別クラスで授業を受けるエネとコノハ、そもそも生まれつき隔絶された空間で過ごすマリー、あるいは引きこもりとして社会から隔絶されているシンタローも、ある種の孤独な状況からメカクシ団という居場所に引き入れられることによって、徐々に変化していく様子は物語中で描かれている。しかしながら、彼らの秘密基地は楽曲「サマータイムレコード」を通して、最終的には終わることが告げられている。前節で述べたように、孤独は父親の否定的側面でもあった。孤独な彼らは秘密基地に集結し、集合することによって孤独から癒されていくが、最終的には秘密基地に依存することもなく、各自が確立した状態で「秘密基地の終わり」が宣言される。カゲプロの物語の終わりをこのように解釈できるのならば、この物語は孤独から逃避するためにメカクシ団を作りながらも(しかもメカクシ団を作ったのは、作中「母親」のように語られるアヤノである)、一方でそこに依存することなく、自ら「奈落へと引きずり込む甘美さ」を振り払うことにも成功している。

 かくして、分析心理学的に(雑に)カゲロウプロジェクトを見直すと、この物語が父親の否定的側面=孤独とも、母親の否定的側面=集合的なものへの依存にも陥ることなく、両者の関係の上で自我を確立させる物語として読み取れる余白をここに感じ取ることができると考えられる。言い換えれば、この物語は自我確立の物語であるがゆえに、それ以降の展開はすべて蛇足ともなり得る。だからこそ、ここから先の展開を果たしてどのようにすべきなのかについて、私は慎重に考えるべきではないだろうかと考えている。無論、若干1時間で書き上げた本稿にはいくつもの抜け道は存在しているので(多分、あとで文章は見直すと思うが…)、その抜け道を通り抜けて、まさに目が冴えるような展開が見られればいいなと、私は思うばかりである。

おわりに

 現在、12時15分。途中で過去書いた文章をコピペしたとはいえ、トラックが小学生を轢き殺す時間までにある程度書き終えられ、安堵した。と同時に、雨が降っていることに気付いて悲しくなる。8月15日は真夏じゃなければいけないという以上に、出先なのにもかかわらず傘を持っていないからだ。家に帰れないじゃん。そう思いながら外を見ると、小学生が赤信号を無視して渡る光景を目にする。まるでカゲロウデイズのようだと思いながらも、それを「まるでカゲロウデイズのようだ」と形容することから脱却しなければいけないなと、ちょっと自分の中で反省する。私の中でカゲロウプロジェクトは終わった物語であると同時に、現時点ではその先にどのような物語を展開しようと、それはどうしても蛇足のようになってしまわないだろうかという心配があるからだ。現に、昨年8月15日に公開された「後日譚」でのテーマは少年の死だった。「少年少女前を向け」というフレーズは、いつまでも価値のある言葉だと思う。だが、私たちはそれを引き受けながらなお、「一切合切凡庸なあなたじゃわからないかもね」という他者否定と無理解が謳歌する状況に対し、再度新しい形で成長を促せるような方法を提示しなければいけないのかもしれないと、この原稿を書きながら思うばかりだ。

 最後の文章を書いていたら、12時半を超えてしまった。とりあえず、文章を投稿しよう。


[1] この陰陽の結合、対立物の結合という現象は意識発達の最も始原に存在する一方で、序論で示したように「対立物の結合」は自己の形成において非常に重要な意味を持っている。『アイオーン』の中ではユングは雌雄同体の重要性とそこから分裂する雌雄という概念に対し重要性を主張し、これを神話や錬金術などから見出している(Jung [1959]1968. )。
[2] ユングはメルクリウスを原初の両性具有的な存在であると示し、メルクリウス=水星の象徴が「水銀」であることから、あらゆる変化の象徴として捉えている。
[3] こうした両義性を分析心理学では「ヌミノース」と表現される。ドイツの神学者ルドルフ・オットー(Otto, Rudolf., 1869-1937)は著作『聖なるもの』の中で、直接的に経験され、いわく言い難い、神秘的でかつ恐ろしい神聖な体験を「ヌミノースNuminosum」と呼称した。ユングが用いる本概念についても、オットーに基づいている。
[4] ユングはこれを「老賢者」と称し、「無意識がどのように『考え』、解決を準備するか」を象徴するものと置いている(Jung [1934]1954. )。ユングが提示した元型についてここでは詳細な記載は省略するが、1934年の「集合的無意識の諸元型について」にはアニマ・アニムス・影・老賢者などのイメージについて簡潔に記載されており、かつ適切に理解が可能である。
[5] なお、ここで言われている「竜」は英雄を無意識の混沌の中に再び引きずり込むという意味においては原母の否定的側面に近く、また竜という象徴が前節の「ウロボロス」でも扱われていたことは関係性があるとノイマンは主張する。

参考文献
Jung, Carl Gustav,Gesammelte Werke von C. G. Jung , Zürich : Rascher Velag. 以下G. W.と略記.
————, [1917, 1926] 1943, “Über die Psychologie des Unbewußten,” G. W. Bd 7: 1-130.(=[1977]2017, 高橋義孝訳『無意識の心理』人文書院.)
————,[1947]1952,“Theoretische Überlegungen zum Wesen des Psychischen.” G. W. Bd 8: 183-261.(=1999,林道義訳「心の本質についての理論的省察」『元型論 補訂改訂版』紀伊国屋書店.)
————, 1944. “Psychologie und Alchemie.”, G. W. Bd 12. (=[1976]2017,池田紘一・鎌田道生訳『心理学と錬金術Ⅰ・Ⅱ』人文書院.)
Neumann, Erich., [1949]1971, Ursprungsgeschichte des bewußtseins., Zürich-Leipzig : Rascher Verlag.(=2006,林道義訳,『意識の起源史』紀伊国屋書店.)

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