見出し画像

美術の地層を巡って——「すべて未知の世界へ:GUTAI 分化と統合」展感想

(約4,000字)

この記事は自由に価格を付けられます。https://paypal.me/ukiyojingu/1000JPY

夕陽にあたる中之島ダイビル(著者撮影)

 先日にスペースで都市についての話をしてから、意識するように都会の景色を眺めるようになった。近代建築が数多く残されている大阪のビルを観察すると、一方で昔ながらの景観を保ちながら、他方で昔ながらの外装の上からまるで生えてきたかのように巨大な摩天楼が建築されていることが分かってとても面白い。中之島美術館に向かう連絡橋にかかる「中之島ダイビル」も、モダン建築のような低層の上に、まるで増築されたかのようにガラス張りの建築が生えている。日本有数の土地面積の狭さを誇る大阪は、海沿いに埋立地を拡大していくことで土地を広げ、ついには土地面積で香川県を抜き、最下位から脱却した都道府県だ。天へと増築されるように伸びる摩天楼は、無理矢理にでも拡大しつつ大きくなった大阪という都市を、まるで象徴しているようにも見れるだろう。

国立国際美術館(奥、展示空間は地下)と新設された大阪中之島美術館(手前、著者撮影)

そんな中之島のビル群に反し、国立国際美術館は地下で作品を展示し続けた。2004年に吹田市の万博記念公園からここ中之島の地下2階と3階に展示空間を設置し、まさに根を張った国立国際美術館は、展示を続けてからもう18年となる。もうじき20周年ともなる2022年のこの時期において、国立国際美術館の隣に出現した大阪中之島美術館という場所は、まるで中之島の根に張った美術館が20年ほどの年月をかけ、地上に芽を出したかのようにも見える。今回開催された「すべて未知の世界へ——GUTAI 分化と統合」という展示は、具体美術協会ゆかりの地たる中之島であるから開催価値があるだけでなく、2館が共同で展示を行うことによって、国立と公立の垣根を超えた「中之島」という文化芸術拠点の新たな局面を世間に示す機会ともなっているだろう。

国立国際美術館の展示風景(著者撮影)

1955年に登場した具体美術協会とその活動はいわば、戦後の日本美術におけるその最も起点として紹介されることも少なくない。千葉成夫は『日本美術逸脱史』において、欧米の支配下に置かれた日本が初めてそこから逸脱したものとして、吉原治良と彼が設立した具体美術協会を評価する。他方、具体美術協会を起点にして展開された多くの試みは「歴史の逸脱」を形成するための端緒であったというより、何かしようとすればその悉くが「歴史から(の)逸脱」せざるを得なくなっていたという椹木野衣の主張もある。両者の意見は方向性こそ異なるが、いずれにしても1950年代に発生したこの美術活動をある意味で、戦後日本における美術活動の起点としているのは明らかだ。

椹木の主張は千葉の議論の影響を受けたものではあるが、具体美術協会の作品に関する評論には「逸脱」が一つのキーワードとなっていることが、二者の評論からも見えてくる。それは具体美術協会を設立した吉原の「人の真似をするな」という言葉でも表現されている。2館で開催された美術展においても、キャプションや作家インタビューなどを通しこの言葉は何度も反復された。展示は「分化と統合」をそれぞれ、大阪中之島美術館が「分化」を、国立国際美術館が「統合」を担当している。それによって、具体美術というものを分析的視点で、あるいは俯瞰的視点で語るような構成になっている。前者は「空間性、物質性、コンセプト性、場所性」であり、そして後者は「握手の仕方、からっぽの中身、絵画とは限らない」というタイトルであった。これらの展示は隣接した会場で行われ、かつ共同企画とはなっているものの、図録などはそれぞれの展示会場ごとで区分けがされて紹介されており、実質的にはそれぞれの会場、それぞれのキュレータが別の視点から「具体」に迫るようなものになっていると考えるべきだと思える。だが、それは換言すると、各展示が別の側面から鑑賞者に問いかけることで、具体美術がどういう点で価値があったかをより多角的に示しているということでもあるだろう。それぞれが異なる視点を向けながらも、そこで重複している視点こそが具体美術協会の本質であると言えるのかもしれない。では、それはどのようなものだろうか。

吉原治良《作品》(1965年、https://nakka-art.jp/exhibition-post/gutai-2022/ より)

各セクションのタイトルがより具体的に示されている、大阪中之島美術館のセクションに沿って紹介してみたい。展示室に入室後、最初に訪れるのは「空間」のセクションだ。具体美術は従来の持ち運び可能な絵画と比較し、より大胆な表現な可能なフィールドを要求してくる。作品がどんどん大きくかつ抽象的になりつつある現代アートの文脈ではもはや普通であるのかもしれないが、吉原治良による作品はその大きさによって、当時の鑑賞者を圧倒した。鑑賞のためにより大きな空間を要求するだけでなく、田中敦子《ベル》(1955)のような従来の壁面に絵画を飾るタイプではないインスタレーション作品の登場によって、美術作品を展示する空間性を脱構築するような試みが展開された。

今井祝雄《白のセレモニー HOLE#5》(1966年、著者撮影)

そうした試みは《ベル》という作品にあるように、あるときには作品を構成する「物質」にさえ従来の文法を脱却するような試みを要求する。「人の真似をするな=新しいことをせよ」というモットーのもとで動いた具体の活動は、従来のキャンバスの上に絵具を塗って完成させる平面的なものとしての絵画という枠組みを脱却し、従来の絵画には使用されなかった材質をも積極的に絵具とともに使用することによって、もはや絵画の枠組みすら脱却しようとしているような作品を数多く作り出した。ある時は意図した突起によって美術館のスポットライトが移す光と影を作品内に取り込み、またある時は美術館の壁面に展示された絵画上にある絵具の塊が時間経過に伴って剥離していくプロセスをも作品に取り込んでもいる。

「インターナショナル・スカイ・フェスティバル」展示風景
(https://nakka-art.jp/event-post/gutai-skyfes より)

このような作品表現からも理解できるように、具体美術作品はその性質の一つとして「新しいものを作る」という「コンセプト」が存在している。展示では向井修二をはじめとした現存する具体美術協会の元メンバーに対するインタビュー映像が放映されていたが、そこでも積極的に語られたのは「人の真似をするな」と「見たことのないものを作れ」という吉原に由来する具体美術協会の標語だ。それと同時に、映像内では「何事も意味を求めてはいけない」とも語られていた。見たこともないもの、新しいものはそもそもそれ自体が意味から脱却していなければいけない——新しいものはそもそも、その新しさゆえに孤独であるのだから、新しいものが意味に縛られないという彼の言葉は非常に深い意味を有しているようにも思える。そうした具体の思想は、その果てには美術館という枠組みさえも脱却し、作品を都市という「」の中に展示する試みさえ、可能にした。美術作品が展示されるホワイトキューブ、あるいは美術館という空間は、観客は美術館に美術作品を見に行くのだから、それ自体が美術の場という空気によって充満した部屋であるのはいうまでもない。よってそこには意味がおのずと生じるのだが、これから逃避する方法として、屋外という場所が選択されることになる。本展の関連イベントとして再現されることとなっている「インターナショナル・スカイ・フェスティバル」は、1960年になんば高島屋の屋上でなされた展覧会であり、そこでは具体美術協会会員の作品をアドバルーンに釣り上げて空中に展示するという試みもなされている。美術的空間からの脱却の一つとして、屋外へと作品は展開されていったのだ。

村上三郎《あらゆる風景》(1956、著者撮影)

 具体美術協会の作品はどこまでも自由であることを求めていき、そしてその自由さ、新しさはその性質故に孤独であることも理解していた。一方、そうした意味からの脱却によって歴史性を失い、その果てに到来する記号的なやり取りによってのみ到来する文化空間を椹木は「閉ざされた円環」と称した。意味を脱却し、ある意味で孤独であるだろう世界を冒険するのは重要だろう。一方で、その無意味的世界を歴史化し、芸術家が踏み出した孤独な世界の足跡を舗装していく作業も、美術における「円環」を打破するには必要かもしれない。インターネットを通じていろいろな情報や画像にアクセスできる私たちは、今やネットワークを通した記号的なやり取りが日常になってしまい、円環の中に入っていることにさえ気づいていないのかもしれない。だからこそ、そのルーツたる1950年代の美的実践に目が向けられる必要がある。それはまさに、高く上ったダイビルの下にまるで地層のように残る、昔ながらの建築の様相に目を向けるようなことかもしれない。地下で作品展示を行い続けた国立国際美術館から約20年、長い年月をかけてようやく地上に出現した大阪中之島美術館は、具体を通して私たちに「地層」への再注目を促すと同時に、分化されて説明された中之島美術館の展示から再度、国立国際美術館のような地下の空間へと、目を向けるべきであることを示している。そこには、「統合」をテーマにキュレーションされた具体美術の作品たちであると同時に、円環を打破するための鍵であるかもしれないのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?