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私が作ったものはどう解釈されるのか――「思考実装#7」にあたって

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私たちが解体される。
私たちの意味がデータに変わっていく。
私たちの半身はいつの間にか、知らない誰かに奪われていく。
そうして、何もかもが変わり続けていく。

私はそれを見ている。
この変身する私たちを恐れている。
だが私たちは意味も理由もなく勝手に組み変わる。
そして、非可逆的に全く別のものへと変わってしまう。

私たちは常に変わりゆく有機体である。
降りることも許されずに電波と現実の界面を彷徨う。
そこから徐々に組み代わりが発生している。
だからこそ、変わらぬ血液を探すのだ。

私たちは個別に変身するのだろうか、或いは一緒に変わるのだろうか。
もし後者なら、それは電波が見せる幻想だろうか。
そうだとして、その幻想を信じ切る方法はあるだろうか。

私たちの言葉が解体されていく。
私たちの意味がデータに変わっていく。
私たちの半身はいつの間にか、知らない誰かに奪われていく。
そうして、何もかもが変わり続けていく。

組み替えられていく私の合成音声音楽は、もはや私のものでなくなり、誰かのものになっているだろう。
だが、それさえも愛する方法を探すのだ。
その方法はきっと、どこかにあると信じている。

――――――――
電波上であらゆるものを送信していく私たちは、徐々に自身の身体を情報空間上に投げ出しながら、論理的かつ効率の良い、理想的な社会を構築し始めた。
私たちは意識的に情報空間上に主体を投げ出すと同時に、どうしても意識的な行動とは一致しえない、自身の身体に内在化された何かを忘れることもできない。私たちは自身の身体の中に流れている否定できない私たちの血液を抱きしめて生きていく必要がある。それを忘れてしまうことは、情報空間上で自身を喪失してしまう行為であるともいえるのかもしれない(cf. https://www.nicovideo.jp/watch/sm40364529)。しかし、電波で簡単にあらゆるものを送信することを可能にすることによって、私たちの理想は徐々に形成されてもきた。この両義性に引き裂かれながら、私は意識的に論理的なものを目指そうとすると同時に、徐々に身体が解体される。音楽も構築されたものから自由になり、浮遊するように漂っていなければならないような気がする。だがしかし、電波上で私たちは強制的に組代わり、何でもなくなった私たちは必ず、誰かによって何かにさせられていく。だからこそ、他方で私たちの血液を愛する日々も必要になる(cf. https://www.nicovideo.jp/watch/sm39224978 )

私は、この引き裂かれるような日々を解決しなければならない。だがその度、音楽は/ど/う/し/よ/う/も/な/く/ノ/イ/ズ/が/介/入/さ/れ/て/し/ま/う/よ/う/な/感/覚/さ/え、持/っ/て/し/ま/う。

 夏も後半に差し掛かる中、大学の司書過程で情報資源組織の講義を受講している。朝5時半に目覚ましをセットし、9時から始まる1限の講義を受けるために朝ラッシュの電車に乗り込み、大学に向かった。早めに家を出ているので特に遅刻することなく、いつものように講義が始まったが、講義が開始して40分以上が経過してもなお、講師が講義の本題に入ってくれない。大学が貸してくれたNDCがずっしりと机に鎮座したまま、そろそろ授業の半分が経過しようとしている。私はNDCをペラペラ眺めながら、講義の本題が始まることを待ちつつ、何となく文章を書き始めた。

 図書館に入る本はその奥付や表題紙、あるいは表紙などに記載されている情報をもとに、すべての本の書誌情報を記録し、巨大なデータベースを構築しようとする。そうやって作成される図書館の目録作成は、実際にやってみると表紙に書いてある文字列のどれを「タイトル」として記録するのかなど、細かな問題がいくつも発生してきた。何をもってタイトルとするのか、そして何をもって著者とするのかを機械が認識可能なデータとしてどのように翻訳するのかという問題が授業で話されると同時に、私はそこに翻訳の問題があるからこそ、データベースは完全なものになることは永遠にないのだということを思い知る。作成された書誌情報を参照しながら行われる分類作業(いわゆるジャンル分け作業)も、それらのジャンル分け基準は決して明確なものでもなく、パソコンがどれだけ進化しようとも人間の作成するものの全てをデータベースに登録することはできないんだなと、強く思い返した。データベース化できないとしても、それでもデータベース化を望もうとするのはとても矛盾した行動のように思えるが、そういった矛盾さこそ、人間の一番面白いところなのではないだろうかと思う。

 情報は決して主体の認識を避けられない。そう言った議論は昔からもなされてきた。情報学者バードラム・ブルックスの基本方程式K[S]+△I=K[S+△S](知識構造+情報=新しく修正された知識構造)は、情報が客観的なものとして存在しているのでなく、主体が必要であることをを主張している。こうした見解は情報学者・西垣通の知見によってさらに強化され、何かしらの意味があるものとしての「情報」とは必ず主体の認知が必須なものであることが強調された。西垣は情報を三段階に分類し、主体内でのみ生成される「生命情報」と、主体同士のコミュニケーションを通してあいまいな形で共有される「社会情報」、そしてパソコンやデータベースが認識可能な記号として明確に定義化されたものを「機械情報」と称した。彼の意見を参照すれば、一般的に「情報」と称されているものはパソコンが理解可能な機械情報であるが、しかしそれ以外にも情報は存在しており、そのいずれもが主体の内部でのみ起こる価値生成が大きく関係している。チリの生物学者ヴァレラとマトゥラーナによるオートポイエーシス理論を参照しながら作られた基礎情報学という学問理論は、何かしらの意味を持つものとしての「情報」とは主体が必ず必要であり、それは明確な形で共有はされない――思考や思想が決して他者に完全な形で伝達しえないように――がため、機械情報しか保存しえないデータベースは決して「情報」の全てを保存することはできず、そこに限界がみられる。

 こういうことを振り返ると、主体が生成する意味は決して他者には伝達できず、曖昧な形で伝達されると同時に、ときには別のかたちになって伝達されることだってあるだろう。私が今こうして自由連想のように書き連ねている文章も受け手の内部では私とは別のかたちで意味が生成されていくだろう。そうして、私が電波で流す情報——音楽とともに伝達する私の思想や哲学——はきっと、誰かにとって全く別のかたちの情報として生成される。かくして、私の合成音声音楽はきっと組み替えられていく。私の作ったものはいつの間にか、私のものではなくなってしまうのだ。

 講義が終わり、若干雨が降っている。普段は地下を延々と歩きながら鉄道を乗り換えるのだが、今日は気分転換もかねて地上に出てみた。難波の街はとても賑やかで、雨が降っているにも関わらず傘を差さずに歩くサラリーマンのような服装の人もちらほら見かける。とても賑やかな難波の町並みは、おそらく私がそう思っているだけであって、他の人が見たらそうではないのかもしれない。私が作った音楽だって、誰かの手によって再構築されていくのだろう。そんなことを思いながら、難波の街を見下ろしている。

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