この曲は9月に作ったが、気づいたらもう3か月も経過してしまっていた。今日も私は京都の6畳間から音楽を作り、写真を撮影し、それを電波に流している。今日は今年の冬になって初めて雪が降っているのを目にし、季節が変わっていることを身に染みて実感した。寒暖差の激しい盆地にあるこの都市では、数年に一度大雪で数十センチほどの積雪さえ起きている。私は自室から見えるそんな京都の都市を、数週間前に買ったミラーレス一眼で撮影し、そして毎日、Twitter上で更新している。写真とは動態的都市の断片的な切り抜きであり、それゆえにそれはまるで死体のように出現するという話を本で読んだ。都市写真は常に、行き交う人々の動的な動きのすべてを静止画として留めることで、その動きを奪ってきている。微動だにしない生命体はもはや、死んでいると称するに値するだろう。だから、それは喪に服するように、鮮やかさを失わねばならない。
『思考実装』と称された一連の作品群は常に、言語を媒介して接続され、緩く形成されている私たちという集合体へと関心の対象があった。実装#8で展開されたのは、私たちというインターネット上に出現する匿名の集合体への回帰願望だった。それはあるときはインターネット上に出来上がる匿名の集合体であり、そしてあるときは匿名の集合体たちが構成することによって形成される、私たちの生きる都市そのものである。それらは常に名前を持った個体であると同時に、それらは匿名の巨大な集合体の一構成員である。匿名の集合体。無色透明な私たち。それらは私にとって目指されるものとして存在してきたのだった。
しかしながら、いつの時代においても私たちは完全に名前を喪失することはできなかった。インターネットの登場したこの時代において、私たちはネットワークによって世界と繋がり、それが巨大な集合体の出現を可能にしたが、それは一方で私たち自身が巨大なネットワークによって管理されていくことであるからだ。ここに添付された動画だって、リンクとたどっていけば元の動画へ確実にたどり着くことができるし、元の動画にたどり着けるということはつまり、そこに匿名性はないのだ。ネットワークに匿名性はない。IPアドレスで繋がる私たちという次元に目を向ければ、そんなことは自明なことである。それは結局のところ、限界を持っているのだ。しかしながら、そんな矛盾を抱えながらも、私たちはそれでも集合してきた。現実社会の都市はかつての城壁を失うことで物理的輪郭を喪失してもなお輪郭を持っていたし、インターネットプロトコルによって協力に個人を措定されてもなお、集合体は幻想を見てきた。集合しているが、離散している。地に足がつかない電波の理想でなく、地に足を付けた曖昧な主体と集合体の関係性。私たちに措定された形で私を思考すること。それが実装#9だった。実装#10は、そんな前曲と同じタイミングで作られた。
曖昧なもの、名前を消失させるような集合体への可能性は、自分を消失させるためには消失させるための「自分」が必要である点で矛盾がある。だからこそ、私たちは「半透明な曖昧さ」を残された選択肢として受け入れていく必要がある。私たちは集合体から個別具体化された一員、ネットワークのいちデータでありこの都市のいち構成員であると同時に、巨大な匿名な集合体から由来している。そして、私たちはネットワークからも現実の都市からも逃げられることもなく、そして完全な同一化も不可能だ。私たちは集合体から生まれながらも、集合体に回収されないような個別性もあるいは有している。その個別性がまた、集合体のあり方を変えていく。そうした特殊な個別性、わずかな差異、わずかな違いによって、私は私を決定できる。そんな差異に基づいた私の連続した決定が、私たちという集合的なものを作り上げていき、そして集合体が再度、私を再構築することになる。
だからこそ、その差異を求めるため、生活は反復されていく必要がある。私が日々撮影している自室の風景は毎日がほぼ同じ時間に撮影されていたとしても、撮影した日の天気やカメラを抱える右手の感覚、或いは部屋の電気などの光具合によって、全てがわずかに異なっている。そんなわずかな違いには、私たちとは何者であるか、そして私とは何者であるかを判断するための大きな示唆が含まれているのではないだろうか。そんな差異を求めて写真は撮影され、音楽は作り上げられていく。そして、その差異に意味があるのかを決めるのは、他の誰でもない「あなた」である。私は自分自身で自分が何者かを示すことはできない。自分自身は、客観視された集合体、その構成員である他者としての「あなた」がいることによって、はじめて完成する。だからこそ、この文章を読んでいる、あるいは私の作った映像を見る、ディスプレイの向こう側の存在がこの上なく必要なのだ。それは私を構成すると同時に、私たちの共進化を促してくれるからだ。
この文章に限定されず、あらゆる創作に込められた意味は受け手の解釈があって初めて意味のあるものとなるのであり、受け手がいなければすべてが空しい。だから、この文章も音楽も、受け手がいて初めて意味のあるものとなる。電波を通して偶然にも出会い、そして偶然にも出会ってしまったこの文章だとしても、見られることによってわずかながらにも新しいものが生み出されるのなら、それは何よりも光栄なことなのだろうと思う。理論的に書くことを心掛けてきた「思考実装」も、結局のところ終着点はこんなところだ。我ながら、まるで正気じゃないと思う。というより、ここ最近の創作の全てが、いったん冷静になってみるとまるで正気とは思えなく感じるときもある。だが、常に繰り返してきたように、私たちにはこんな正気とは思えないものが必要だと思う。少なくとも、私には必要だ。だからこそ、これからも続けようと思うのだ。