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全く異なる思考をするあなたへ――「思考実装#10」にあたって

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2022年の初秋。
あれから1年経ち、今年も到来したはずの気怠い暑さも、いつの間にか収まっていた。
秋の気候を肌で感じながら、私はいつの日かと同じく、京都の8階にある自室から外に出かけようとする。
京都は観光客が来なくなってからだいぶ落ち着いた印象があるが、それでも自転車で街を漕ぐと、あちこちでスクラップ&ビルドが実行されている。
この1年強の期間だけでも、都市は確実に変わっていることが分かる。

私は、この1年間で何が変わっただろう。
いろいろなことが変わったと思う。
とはいえ、これっぽっちも思い出せないのも事実だ。
私は一体、何をしてきたんだろう。
思い返そうとして、前回のアルバムの付録として配布した文章を読み直してみる。
どうやら、1年ほど昔の私は新しいものが欲しかったそうだ。
それは何者によってもジャンル分けできない、自分自身の唯一無二の「血液」についての話だ。
それを求めて、いろいろなことをやってきた。
あるときは日記をそのまま音楽にして、あるときは呼吸を入れて、あるときは音楽でなくなって。
だが、どんな試みをしようとも、私の音楽は誰かによって解体され、曖昧な形になりながら他者に伝達される。
そのとき、私の唯一性はきっと、あなたの唯一性に変身しているのだろう。
私の唯一性は、画面の向こうにいるあなたの唯一性とどうしても溶け合ってしまう。
私たちは、どこまでも融解し、解体されていく。

だからこそ、私はあなたが必要なのだ。
私は私一人で、私の輪郭をなぞることができない。
それができるのは私でなく、まぎれもなくこの言葉を聞くあなただ。
私自身の血液を探すことも、それらを混ぜ合わせて一緒に向かうにも、いずれにしてもあなたが必要だ。
私たちは一人では駄目なのだ。
あなたは、意味もなく電波を伝って私の合成音声音楽に到達したのかもしれない。
だが、そこに関係が生まれている。
だから、このたった数十センチしかない画面の向こうの誰かへ送信するのだ。
今も、聞こえているんだろう?

私たちは個別具体な血液を探求することも、一つになることもできない。
血液は曖昧なかたちでしか認識されず、それは本質的に孤独だ。
集合し、名前を失い、何者でも無くなる行為の背景には、消去される「何者」がそこにいなければいけない。
ならば、私たちは一緒にどこにもいけないのだろうか。
どちらにしても、私は自分自身から理由もなく切り離されて、私と全く異なる思考をして、そして私と全く偶然に出会ったあなたがいなければいけないことだけは間違いない事実だ。
だからこそ、私は切り離された関係を考えなければならない。
私と全く異なった考えで、私と全く異なった感情を返送してくるあなたによって、私はきっと私を理解できると同時に、融解したその足で先に踏み出せるからだ。

全てを終えて、京都の夜を眺めながら文章を書いている。
正直な話、自分が何をやっているのか全く分からなかった。
それどころか、まるで正気じゃないようにも感じる。
文章を書きながら、指も震えている。
本当にこれでいいのだろうか。
書き残したことはないだろうか。
多分あるだろう。
この文章はどこまでも不完全だ。
だが、あなたがきっと補完してくれる。
そんなあなたとの関係性を信じて、この音楽を終わりにしたく思う。

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「思考実装」と称したシリーズを始めたのは昨年の初夏だったが、あれから1年以上経った。
1年前の3月に発表した「言語交錯」のシリーズより継承した本シリーズは、いったい何だったのだろうか。「新しいもの」を求めると称した前作から振り返ると、内容はどんどん抽象的になり、それゆえの孤独に、足さえ奪われてしまいそうだった。新しいものとは、結局なんだったのろう。

美術に限定されることなく、全ての創作はすべからくして過去の作品の影響を(潜在的にだとしても)受けている。そのことを踏まえると、新しさは孤独であり、私たちはそこに至れない。一方、孤独の対極に位置づけられるような、全員が個性を放棄するような透明な集合体はどうだろう。それは強力なユートピアとして私の前には立ち現れたが、実現不可能な理想郷だった。現実社会だろうと、インターネットだろうと、私たちはいつだって集合して共同体をつくりながらも、主体のすべてを集合に捧げることはしなかった。おおよそ「近代」と言われる枠組みで生活を続ける私たちは、均質化された世界で均質化された生活を送りながらも、常に均質化された様式から逸脱したなにかを持っている。その逸脱の蓄積こそ、空間における独自性を形成しているのだと思う。情報空間を現実空間のアナロジーとみることには限界があるが、こうした蓄積が独自の文化空間を形成してきたという点は、共通しているのではないかと思う。

だからこそ、現実に目を向けてきた。共同体に目を向けるため、映像は常に実写の都市にした。メタバースや永病に伴って、これだけ情報空間が注目された時代もなかったと思う。そんな時代で、私たちの現実がこれほど希薄になった時代もないだろう。だからこそ、関係性を考えなければならない。

電波の中の私たちはコードに従わなければ、作品を電波に流すことすらできない。それはディストピアとも表裏一体だ。その一方で。近代化され、均質化された都市で暮らす私たちは、そもそも法や倫理というコードのうえに生きている。ならば、私はせめて均質化された空間のなかで、自分の独自の差異を探そうと思う。そして、それはこの画面を見る「あなた」がいて初めて可能になる。

私はあなたに言葉を送信する。その結果、何が起こるかはわからないが、その返答によって、私はきっと均質化された世界の中でも均質化されていない要素を発見でき、そしてあなたとの相互作用によって変化し、やがて混入した「あなた」によって主体を溶解させながら、一緒に新しさを発見できるのだ。

https://nico.ms/sm41367638 より

 この曲は9月に作ったが、気づいたらもう3か月も経過してしまっていた。今日も私は京都の6畳間から音楽を作り、写真を撮影し、それを電波に流している。今日は今年の冬になって初めて雪が降っているのを目にし、季節が変わっていることを身に染みて実感した。寒暖差の激しい盆地にあるこの都市では、数年に一度大雪で数十センチほどの積雪さえ起きている。私は自室から見えるそんな京都の都市を、数週間前に買ったミラーレス一眼で撮影し、そして毎日、Twitter上で更新している。写真とは動態的都市の断片的な切り抜きであり、それゆえにそれはまるで死体のように出現するという話を本で読んだ。都市写真は常に、行き交う人々の動的な動きのすべてを静止画として留めることで、その動きを奪ってきている。微動だにしない生命体はもはや、死んでいると称するに値するだろう。だから、それは喪に服するように、鮮やかさを失わねばならない。

『思考実装』と称された一連の作品群は常に、言語を媒介して接続され、緩く形成されている私たちという集合体へと関心の対象があった。実装#8で展開されたのは、私たちというインターネット上に出現する匿名の集合体への回帰願望だった。それはあるときはインターネット上に出来上がる匿名の集合体であり、そしてあるときは匿名の集合体たちが構成することによって形成される、私たちの生きる都市そのものである。それらは常に名前を持った個体であると同時に、それらは匿名の巨大な集合体の一構成員である。匿名の集合体。無色透明な私たち。それらは私にとって目指されるものとして存在してきたのだった。

 しかしながら、いつの時代においても私たちは完全に名前を喪失することはできなかった。インターネットの登場したこの時代において、私たちはネットワークによって世界と繋がり、それが巨大な集合体の出現を可能にしたが、それは一方で私たち自身が巨大なネットワークによって管理されていくことであるからだ。ここに添付された動画だって、リンクとたどっていけば元の動画へ確実にたどり着くことができるし、元の動画にたどり着けるということはつまり、そこに匿名性はないのだ。ネットワークに匿名性はない。IPアドレスで繋がる私たちという次元に目を向ければ、そんなことは自明なことである。それは結局のところ、限界を持っているのだ。しかしながら、そんな矛盾を抱えながらも、私たちはそれでも集合してきた。現実社会の都市はかつての城壁を失うことで物理的輪郭を喪失してもなお輪郭を持っていたし、インターネットプロトコルによって協力に個人を措定されてもなお、集合体は幻想を見てきた。集合しているが、離散している。地に足がつかない電波の理想でなく、地に足を付けた曖昧な主体と集合体の関係性。私たちに措定された形で私を思考すること。それが実装#9だった。実装#10は、そんな前曲と同じタイミングで作られた。

 曖昧なもの、名前を消失させるような集合体への可能性は、自分を消失させるためには消失させるための「自分」が必要である点で矛盾がある。だからこそ、私たちは「半透明な曖昧さ」を残された選択肢として受け入れていく必要がある。私たちは集合体から個別具体化された一員、ネットワークのいちデータでありこの都市のいち構成員であると同時に、巨大な匿名な集合体から由来している。そして、私たちはネットワークからも現実の都市からも逃げられることもなく、そして完全な同一化も不可能だ。私たちは集合体から生まれながらも、集合体に回収されないような個別性もあるいは有している。その個別性がまた、集合体のあり方を変えていく。そうした特殊な個別性、わずかな差異、わずかな違いによって、私は私を決定できる。そんな差異に基づいた私の連続した決定が、私たちという集合的なものを作り上げていき、そして集合体が再度、私を再構築することになる。

 だからこそ、その差異を求めるため、生活は反復されていく必要がある。私が日々撮影している自室の風景は毎日がほぼ同じ時間に撮影されていたとしても、撮影した日の天気やカメラを抱える右手の感覚、或いは部屋の電気などの光具合によって、全てがわずかに異なっている。そんなわずかな違いには、私たちとは何者であるか、そして私とは何者であるかを判断するための大きな示唆が含まれているのではないだろうか。そんな差異を求めて写真は撮影され、音楽は作り上げられていく。そして、その差異に意味があるのかを決めるのは、他の誰でもない「あなた」である。私は自分自身で自分が何者かを示すことはできない。自分自身は、客観視された集合体、その構成員である他者としての「あなた」がいることによって、はじめて完成する。だからこそ、この文章を読んでいる、あるいは私の作った映像を見る、ディスプレイの向こう側の存在がこの上なく必要なのだ。それは私を構成すると同時に、私たちの共進化を促してくれるからだ。

毎朝撮影される自室からの写真(2022/12/18)

 この文章に限定されず、あらゆる創作に込められた意味は受け手の解釈があって初めて意味のあるものとなるのであり、受け手がいなければすべてが空しい。だから、この文章も音楽も、受け手がいて初めて意味のあるものとなる。電波を通して偶然にも出会い、そして偶然にも出会ってしまったこの文章だとしても、見られることによってわずかながらにも新しいものが生み出されるのなら、それは何よりも光栄なことなのだろうと思う。理論的に書くことを心掛けてきた「思考実装」も、結局のところ終着点はこんなところだ。我ながら、まるで正気じゃないと思う。というより、ここ最近の創作の全てが、いったん冷静になってみるとまるで正気とは思えなく感じるときもある。だが、常に繰り返してきたように、私たちにはこんな正気とは思えないものが必要だと思う。少なくとも、私には必要だ。だからこそ、これからも続けようと思うのだ。

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