復刻版浮世絵とは何か②ー復刻版浮世絵の歴史について

(※この記事は研究誌に投稿し不採択となった原稿を加筆修正したものになります。検証的不備を前提にお読み下さい。)

「復刻版浮世絵の歴史について」

・はじめに

趣味で始めて以来この一五年近く、筆者は制作を中心に復刻版浮世絵(以下、復刻版)と関わって来た。その過程で復刻版は一般的に誤解や偏見をもって理解されているケースが非常に多いと見受けられた。例えば、復刻版にはオリジナル作品と同じような植物や鉱物由来の天然性色材が使われているといった考えや、復刻版は江戸時代当時の摺り上がったばかりのオリジナル作品の再現(復元性)を目標・焦点に作られているといった考え、乃至、熟練の彫師・摺師が作れば、復元性が高い復刻版が出来るといった考え等。

こういった考えは復刻版というものを検証的に見れば、つまり、作品の比較観察や文献資料上に残された復刻版に関する言及、乃至、彫師・摺師からの見聞(例えば、優れた復刻版とはどういったものを指すのかといったことや、制作の際にどういったことに注意が払われているのかといったことなどについて)、といったことからは合理的・客観的・事実的ではない。

版元・彫師・摺師による浮世絵制作は現在も行われてはいても、その中で用いられる技術・材料・道具、乃至制作認識といったものは江戸時代から変遷がある。特に明治期から大正期にかけてその変化は大きく、現代と江戸時代のそれとは異なっていることが少なくないと思われる。又、彼ら云うところの腕や技術とは、或いは復刻版の概念とは、江戸時代当時のオリジナル作品といかに同質の作品を再現するかということ(復元性)を目標・焦点としたものではなく、そういったことは彼らが復刻版制作において矜持としているところではない。

こういった根本的な認識が抜け落ちたような形で、江戸時代の浮世絵に対しても又現代の復刻版に対しても欺瞞的な情報、或いは江戸時代の浮世絵研究の成果に対して冒涜的な情報が、美術館や研究者と協力関係にあるような伝統木版画の組織や団体から、時に積極的に発せられていることは筆者には長年不可解であった。

そして筆者はそういった行為の理由を、復刻版が基本的には版元の商品であるという性格からの商業的便宜に由来するのだろうという解釈に帰して来た。

しかしながら更に他の要因を考えてみると、復刻版に対する調査研究がこれまでほとんど成されて来なかったことも大きいのではないかと思われる。

復刻版は明治期から数えてみても一五〇年近い歴史があるが、これまで先行するいくつかの研究はあっても、その対象は明治期や大正期における一時代的・限定的なものを中心としており、復刻版についての体系的調査、及び復刻版とは何かということに対する客観的・整合的な説明は、これまでほとんど成されて来なかったと見られる。

そこで本稿では明治期から現在にかけて制作された復刻版と関連する文献資料を中心に、近現代の復刻版の歴史について調査と考察を行った。調査対象作品は版本類ではなく一枚絵として制作されものを中心とし、又、その歴史的変遷を捉える上で各時代の制作方針に着目した。

尚、文献資料上、「復刻」には「再版」「複製」など様々な同義的名称が見られるが、本稿では現行使用における一般性の点から「復刻」の表記を用いている。そしてその定義はその基本的実相に基づき、「オリジナル作品の出版以降に、新たに製版された版木一式を使って紙に摺られた模造的な浮世絵版画」とする。

・明治から大正期

復刻版は既に江戸時代から作られていたと見られるが、明治期からの生産の本格化と発展は、国外からの浮世絵人気の高まりとそれに伴う品不足を背景にしていたと考えられる(註1)。

その最初期の復刻版について。基本的にその当時の出版には届け出が義務付けられており、明治期の浮世絵版画を見ればわかるように作品上には原則的に出版印があるものである。そしてその届け出が確認できるという意味で事業化されていたことが確認出来る最も早い時期の復刻版を調査したところ、東京国立博物館に所蔵される小川多計が明治一八年(一八八五)に出版した復刻版三点を確認した。その図版を以下に挙げる。原画となったオリジナル作品は不詳だが、題名は「葛飾北斎画の写し」(北斎為一卍筆)とそのホームページ上ではされる(註2)。

(※図版は使用料の関係でこのブログ記事では割愛します。)

明治二〇年代前半から半ばには様々な出版者による事業化の例が多く確認され、この頃から近現代の復刻版の歴史は本格的に始まるように見られる。出版者として、大倉孫金衛、児玉又七、関口政治郎、松井栄吉、村瀬婦左、吉田金兵衛らが確認された。

尚、先行研究上、最初の事業化は吉田金兵衛による歌麿の『女職蚕手業草』に始まるとされる向きもある(註3)。この説は同氏の甥である竹田泰次郎の証言を元にしていると見られるが、永田生慈が指摘しているように、同氏の証言するその開始年ついては証言資料により「明治一八年頃」と「明治二一年頃」の場合とに分かれ、そこには曖昧さがある。またその歌麿の復刻版は出版届けなどが出されていたものではなく、制作年の証拠となるものは確認されていないとも見られる(註4)。

小川多計の例からも、最初の事業化を吉田金兵衛とするのは合理性・客観性に欠くと思われる。

又、事業化という点では不明だが、文献上の証言や言及から明治期に復刻版の制作を最初に始めたとされる人物を辿った場合、「明治期に復刻版制作を始めたのは、関口政吉の雲母摺りの写楽が最初である。」という証言や、「明治一八年頃から吉田金兵衛が復刻版に着手するが、写楽の複製を作った人に関口政右衛門という人が同時代にあった。」という言及が確認され(註5)、又それらに加え、「明治一三年(一八八〇)に落合某という人物が写楽の復刻版を作った。」といった証言が確認される(註6)。そのため文献上の調査からは、最初の復刻版制作は関口氏との関わりが思われる写楽作品であろうと思われる。

(尚、調査の過程で、ホームページ上の表記では明治四年(一八七一)出版とされる北斎の復刻版が、東京都立図書館に所蔵されているのを確認した(註7)。しかし実見にて確認したところ、彫摺の技術並び紙等の素材の点からその時代のものとは見難く、同じ作品が大正初期に古吾妻錦絵保存会によって刊行されており、その可能性が高いと思われた。)

さて、明治期の復刻版の作品例として、オンラインデータベースを中心に約一四〇点の作品を確認した(註8)。

それら作品からの全体的な印象として、オリジナル作品からの改変・改作的なものが多いと見受けられ、オリジナル作品に対する再現性がそれほど重視されていたとは思われ難い。

明治期の復刻版の主要な出版者の一人として松井栄吉が挙げられるが、同氏による歌麿らの復刻版(註9)、明治二八~九年(一八九五~六)にかけ刊行した美術雑誌『美術宝庫』収録の復刻版(註⒑)、明治二九年(一八九六)に出した広告、広重の『銀世界東十二景』の復刻版(註⒒)、といった諸資料からは、原画の忠実な再現ではなく、新たな美術表現を復刻において志向していたことが伺える。

極精細な木版技術で知られる美術雑誌『国華』が明治二二年(一八八九)に創刊されるが、その頃は伝統木版の衰退に抗するように、木版の新たな美術的表現が盛んに志向され発展した時期と見られる(註⒓)。そしてそのことは復刻版の制作方針にも影響を及ぼしていたものと思われる。

同時代人による当時の復刻版への評価に関した言及について、高見澤遠治による復刻版の刊行にあたり発足した浮世絵保存刊行会、その賛助院の一人であった永井荷風が大正九年(一九二〇)に同会に寄せた趣意書から関連箇所を引用する(註⒔)。

「江戸浮世絵は維新の政変以来彫金蒔絵其外の工藝品と共に全く我邦人の擯棄する処となり欧米の鑑賞家之を珍重するのみなりしが近年に及び邦人中亦漸く江戸初般の藝術を追慕するものあるに到れり。然れども事既に遅く浮世絵版画の佳良なるものは大抵海外に流出してたまく国内に残存するものあるも其価莫大にて衆人の鑑賞に適せず浮世絵の複製はこゝに於て我文美の研究上古文書の翻刻と同じく目下の急務たり。されば坊間夙に機を見てこれを業とするものなきに非ざれども本より商売営利の為なれば其製品は粗悪にして啻に原版画の妙趣を留めざるのみにあらず却て之が為に浮世絵の真価を誤らしむる虞あり。」

又、浮世絵雑誌『浮世絵』第二七号(大正六年〈一九一七〉)に収録の小島烏水「浮世繪板畫の複刻品に就て」(註⒕)から関連箇所を要約すると。

「今日でこそ見られるべきものが出版されるようになって来たが、従来復刻版というと、如何なる点からも良い印象は持たれ得なかった。それは版も用紙も色彩も、一言で言うと粗笨で、原画とは似ても似つかぬ代物が多く、たまに原画に忠実なものがあっても、それは原画の欠点、例えば保存状態の悪いところから生じた煤やシミや虫食いの痕まで似せた、贋作を主な目的としたものであり、復刻版とは道徳的に不快なものであった。」

こういった同時代人による言及からは、大正初め頃までの復刻版は改作的なものが多く、同時に一方で、経年加工を施したものも作られていたことが思われる。

明治二〇年(一八八七)頃の吉田金兵衛の復刻版の制作工程についての竹田泰次郎の言及では(註⒖)、煤水を染めに用いて経年加工を施していた事に触れられているが、それが詐欺的目的ではなかったとしても、明治期の復刻版の発展がオリジナル作品の供給を賄う目的を背景にしていたことも思うと、その当時経年加工を施すことは珍しいことではなかっただろうと思われる。

又、明治期の復刻版は版元印などが入っていないものが通常的であったこと、浮世絵研究や鑑定の未発達であったこと、明治期には相当量の復刻版が作られていたとされるが(註⒗)、それに比して現存数が少な過ぎるように見られること、当時の浮世絵版画一般と違い復刻版は出版届印が印刷ではなく手書きであるものが多いことなどを思うと、明治期の復刻版はその当初から真作としての詐欺目的に制作、乃至取引されたものも多かっただろうと思われる。

明治時代の制作方針としては、改作的なものや経年加工が施された上で原画に忠実的なもの、乃至経年加工が施された改作的なものが一般的であったと思われる。

尚、それらには該当しない、復元的(経年加工を避けた上で忠実的なもの)と見られる作品も確認されたが、このことについては後述する。

・大正から昭和期(戦前)

大正四年(一九一五)の「浮世絵大家画集』は、渡邊庄三郎が藤懸静也と共に浮世絵研究会を発足させその最初の事業として出版されたものであるが(註⒘)、そこに収められた復刻版は学問的な裏付けをもとに、原画の色彩と技法の細密な分析に基づき、技術的にも忠実な再現が試行され、従来の復刻版に比べると復元としての性格を持ったものであったと云われている(註⒙)。

他の文献からも、そのような復元的な制作方針は渡邊庄三郎により当時新たに導入されたものと思われるが、しかしその「復元」とは原画の摺り上がった当時の状態ではなく、経年変化を経た上での保存状態の良いものを目標としたものであり、用紙への経年加工や摺る際の退色表現によって、ある程度は経年の古びの表現は重視されていたものと思われる(註⒚)。(以下この制作方針を復元主義と云い、それに対して場合によっては虫食いの穴まで加えるような、強度の経年加工を施すものを現状主義と云う。)

この制作方針はその後同氏により大正五~九年(一九一六~二〇)にかけ順次刊行された『浮世絵版画傑作集』や、『丸清板東海道五十三次』(大正七年〈一九一八〉)、或いは、酒井好古堂によって大正四年(一九一五)から少なくとも大正一一年(一九二二)まで刊行された『浮世絵版画逸品集』や、大正六~七年(一九一七~八)刊行の日本風俗図絵刊行会による『浮世風俗やまと錦絵』(全一二巻)などからは、大正期の復刻においてある程度一般的に普及したものと見られる。

この背景として、当時の浮世絵研究の発展に伴う浮世絵の美術・芸術性に対する認識の発展(註⒛)、又、それまで一般的であった浮世絵本来の美術性を誤らせるような改作的なものや、詐欺目的に利用され得た現状主義に対する関係者間での省察、といったことが文献上からは推測される。

その他方で、明治時代からの従来的な制作方針を採る版元もあった。現状主義としては高見澤遠治や、国光社の『国粋浮世絵傑作集』(註21)など、改作的ものとしては大日本木版芸術保存会『浮世風俗江戸乃錦絵』(大正一五年〈一九二六〉)など。(ただし高見澤遠治の作品については、中村暢時の研究や安達豊久の言及からは経年加工は入念で精巧だが、それ以外の点では改作的である作品が多かった可能性が高いと思われる(註22)。又文献資料調査上からは、高見澤遠治の技術の本質は彫師摺師としての木版画の技術ではなく、経年加工の腕にあったと思われるが、このことについては今後の調査を待ちたい。)

意図された制作方針として、復元主義と現状主義の中間的な制作方針(以下、折衷主義)が採られ出すのは、管見の限り、大正一五年(一九二六)の版画会の『浮世絵大家傑作集』や、安達豊久の『浮世絵版画集成』など、大正末から昭和初めにかけてからと見られる(註23)。以後、それまでの制作方針に折衷主義が加えられる。

尚、作品上、松井栄吉の『百物語』や関口政次郎の『諸国瀧廻り』など、明治期の復刻版には復元主義的なものが見られる(註24)。これは当時、保存状態の良い原画が手に入ったため、現状主義であっても結果として復元主義に近い仕上がりになったか、或いは、それはその後大正期に至るまで一般化しなかったというだけで、一時的には復元主義が取られていた可能性も考えられる。

『浮世絵大事典』では、松井栄吉によって明治末までに数百種制作された復刻版は原画に忠実で復元的なものであったとされている(註25)。確かに、国立国会図書館デジタルコレクション上で確認した明治二六年(一八九三)の『百物語』は、復元的なものに該当すると見られたが、これまでの筆者の調査と考察からは復元主義的なものは大正期に入る頃までは一般的なものではなく、松井栄吉のように明治期の復刻版の主要な出版者によって、復元的な復刻版がそれほど量制作されていたとは思われ難い。このことは、同氏による数百種の復元的な復刻版が特殊で例外的なものとなるほど、他の出版者によって大量に現状主義的な復刻版が作られていたという可能性もあるかもしれないが、筆者がこれまで確認した作品量の不足もあるため、今後の更なる調査を待ちたい。

ここまでの制作方針についてまとめておく。一般的に明治期から戦前にかけての復刻版はその経年加工の程度により復元主義•折衷主義•現状主義の三種に大別出来、更にその各々において原画に対し忠実的なものと改作的なものとに分類出来る。

版元ごとにそれら制作方針はある程度固定的に決まっていたが、しかし例えば、現状主義の版元において折衷主義的なものも作られたり、或いは復元主義で忠実的な方針の版元において、改作的なものも作られたり等の変動も見られる。このことは同時期同版元により刊行されたまとまった復刻版作品集(例えば、『浮世絵派画集(再販)』(審美書院、大正三年<一九一四>)や、『浮世風俗やまと錦絵』など)、並びに文献上の調査からは、復刻に使用された原画の保存状態によって、その仕上がりがある程度左右されていたことが、基本的な要因と思われる(註26)。

・戦後から現在

戦後、用紙への経年加工を行わない復元主義、いわばより摺り上がりを志向した制作方針(以下、新復元主義)が見られるようになる。それが先述のように原画の状態によったものではなく、意図的で一貫的な制作方針として採られるのは、昭和三六年(一九六二)の加藤版画研究所『富嶽三十六景』が初出と見られる(註27)。

(尚、一部の文献上からは、それ以前の明治や大正期の段階で、原画の摺り上がり当時の鮮やかな色調を想定しそれを復元する、新復元主義的な制作方針が版元によっては既に採られていたとするような説が見られる。先述のように明治期の作品については不詳なところもあるが、少なくとも大正期以降については、そのように見える作品も調査の過程で一部確認はされたが、それは原画の状態の良好さが反映されたものであり、小野忠重『木版は生きている』や井上和雄編『浮世絵師傅』などの文献、又作品調査上の実見からは、程度の差はあれ摺りの表現や用紙の加工による古びの表現を全く無視した制作方針を採る版元は、基本的にはそれまで無かったと考えられる。)

それ以後、現在に至るにつれて新復元主義は一般化して来たと見られる。

現状主義がいつごろまで存続していたのかは不明だが、これまでの調査の限り、少なくとも戦後の早い段階では既に衰退していたものと見られる。折衷主義の最終期は昭和の終わり頃と見られ、管見の限り、毎日新聞社の『六大家浮世絵名作撰』(昭和五九年〈一九八四〉)内の作品が最後と見られる。旧来の復元主義は見聞上から、平成の初めにはまだ版元によっては行われていたものと見られる。

新復元主義においても旧来の復元主義と同じく、摺りの際における退色表現は行われている場合がある。これは特に原画の退色が激しい傾向にある作品の復刻版、例えば鈴木春信、喜多川歌麿、東洲斎写楽などの復刻版で顕著であると見られた。また新復元主義においても改作的なものは確認されたが、全体の歴史的には改作的なものは時代が下るにつれ減少傾向にあると見られた。

現在にかけて新復元主義が普及した背景には、現状主義や折衷主義における経年加工のコスト面の問題なども思われるが、なにより戦後の文化財保護法の発展のもとに、昭和五三年(一九七八)に彫師摺師の伝統木版画技法が文化財保存のための選定保存技術に認定されたことが、大きく影響しているものと思われる(註27)。

又、明治期からその兆候が見られた美術的向上性・改良性への志向は、大正期以降は原画への忠実性がより重視されるかたちにはなるが、彫摺の技術•絵の具や紙の素材•制作認識の点において、より美しい作品を作ろうという向上性・改良性を志向しながら、現在にかけて発達を続けて来たものと見られた。

・おわりに

今回の調査から一般的に復刻版は制作時の経年加工の程度を基準に、四種の制作方針(現状主義・折衷主義・復元主義・新復元主義)に大別出来、更にその各制作方針において原画に対し改作的なものと忠実的なものとに分類出来ると見られた。そしてそれら制作方針は現在にかけて、より経年加工の少ない復元的なものへと全体的に移行して来たと見られた。

その「復元」とは、戦前においては、経年を経た上での保存状態の良い原画を目標としたものであり、用紙への経年加工や摺りの際の退色表現などはある程度は行われていたが、戦後からは用紙への経年加工を行わない方針が普及し始め、この新たな復元的な制作方針が、従来からあった制作方針と併存しながらもやがて現在にかけて一般化して来たと見られた。復元性に対する進展の背景として、明治末からの浮世絵研究の本格化に伴う浮世絵に対する認識の高まり、及び昭和五三年に彫師摺師の伝統木版画技法が文化財保護法の発展のもとに選定保存技術に認定されたことで、文化財保存のための技術としての役割•価値付けが与えられたことなどが、大きく影響したものと思われる。

又同時にそれら制作方針の中で、彫摺の技術や紙・絵の具の素材、或いは制作認識の点において、より美しい作品を作ろうという美術的向上性・改良性への志向が底通したものとして存在し、現在にかけ発達を続けて来たものとも見られた。

このことは、例えば肉筆複製の誕生に見られるように、明治期以降の伝統木版における制作の認識・目的の時代的変化や、又、明治末からの浮世絵研究の本格化に伴う浮世絵に対する認識の発達などが、大きく影響しているものと思われる。

つまり復刻版制作は歴史上、復元性と同時に美術的向上性を志向して来たと言える。そして美術的向上性への志向は発達し続けている一方で、復元性については大正期と戦後昭和期にこれまで二度進展は見られたが、それ以降は特に新たな進展は起こっていないと見られ、復元的な制作方針は、普及はしたが、その質自体は一九六〇年代以降基本的には発展していないものと見られた。

このことは、美術的向上性を志向することは彫師摺師の職人的気質や復刻版の美術商品としての役割、乃至、浮世絵とその制作技法を優れた美術・芸術とみなし社会的認知を拡大する上などで、親和性・相乗性の高いことである一方で、復元性は文化財保護法や文化財保存科学分野での浮世絵研究の発展によった、伝統木版画界の外部からの要請によるところが大きいからではないかと思われる。

そしてそれら外部からの要請による文化財の保存のための技術(選定保存技術)とは、版元彫師摺師に志向されて来た美術的向上性とは本質的な点で相反した性格を持つものであり、今回の調査からは、そういった美術的向上性を志向し培って来た彫師摺師乃至版元に、選定保存技術としての木版画技術を求めることの困難さや、選定保存技術に認定されたことで、伝統木版業界が虚構を築かざる得なくなった歴史的な構造なども又思慮された。

(1)岩切信一郎「伝統木版―浮世絵複製の歴史 下」『日本古書通信』第九四九号、(日本古書通信社、二〇〇八年)。

鈴木重三「浮世絵版画の贋作と複製」『読書春秋』一月号、(春秋会、一九五三)。

(2)CoLBaseホームページ参照。

https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/P-3950?locale=ja

(3)国際浮世絵学会編『浮世絵大事典』(東京堂出版、二〇〇八)、四三三頁。並びに、畑江麻理「大正期「複製浮世絵」における高見澤遠治 : その卓越した精巧さの実見調査と、岸田劉生らに与えた影響の考察」『Lotus : 日本フェノロサ学会機関誌 』三九号、( 日本フェノロサ学会、二〇一九)。

(4)永田生慈『資料による近代浮世絵事情』(三彩社、一九九二)、七二頁。

(5)前掲註4、七三頁。

(6)菊地貞夫「浮世絵の複製版画―春信作品について」『Museum』第三二八号、(東京国立博物館、一九七八)。

(7)TOKYOアーカイブホームページ参照。https://archive.library.metro.tokyo.lg.jp/da/detail?qf=&q=%E5%8C%97%E6%96%8E%E3%80%80%E6%98%8E%E6%B2%BB&start=0&sort=%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%AB_STRING+asc%2C+METADATA_ID+asc&dispStyle=&tilcod=0000000003-00224565&mode=result&category=

(8)データベースは以下に挙げるホームページを参照。

国立国会図書館デジタルコレクションにて松井栄吉が明治二六年(一八九三)に出版した北斎の『百物語』を確認した。又、同作品集には、吉田金兵衛や大倉孫兵衛らが同時代に出版していた復刻版

も多数収録されていた

(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8311010参照)。

同デジタルコレクションにて、好古堂の『写楽名画揃』(明治三六年〈一九〇三〉)に収録の三点

(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2533724参照)、並びに、『歌麿名画揃』(明治三七年〈一九〇四〉)に収録の二〇点を確認した(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2542684参照)。

JAPANSEARCHにて、児玉又七が明治二四(一八九一)に出版した歌川広重『富士三十六景』の内二点を確認した

(https://jpsearch.go.jp/csearch/jps-cross?csid=jps-cross&from=0&keyword=%E5%85%90%E7%8E%89%E5%8F%88%E4%B8%83&keyword=%E5%BA%83%E9%87%8D参照)。

米国議会図書館所蔵浮世絵データベースにて明治期の制作とされる春信、広重、北斎、北渓らの復刻版を確認した。同データベース上では、出版者や出版年に関する具体的な情報は表示されておらず不詳(https://lapis.nichibun.ac.jp/usa/Lis参照)。

他、浮世絵販売店などで数点の作品を実見にて確認した。

(9)前掲注8の内、国立国会図書館デジタルコレクション『百物語』内を参照。

(⒑)『美術宝庫』は国立国会図書館デジタルコレクションにて確認した。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1614727 参照。

(⒒)前掲注4、七六~七八頁。尚、『銀世界東十二景』の内、「神田明神」「隅田川」「外神田」の三点は実見にて確認した。

(⒓)平井華恵「明治二十年代前半における美術関連の定期刊行物に用いられた印刷技術への同時代人への評価―『国華』『美術世界』の多色摺木版への言及を中心にー」『日本研究論集』第十二号、(チェラーロンコーン大学・大阪大学、二〇一五)。

(⒔)永井壯吉『荷風全集第十四巻』(岩波書店、一九九三)、三一八頁。

(⒕)『小島烏水全集』第十三巻、(大修館書店、一九八四〉。

(⒖)前掲注4。

(⒗)前掲注4、七九頁、八一~八九頁。

(⒘)渡辺規編『渡辺庄三郎』(渡辺木版美術画舗、一九七四)、一一六頁。

(⒙)富田智子「現代の浮世絵を目指して」『浮世絵の歴史』(雲野良平編、美術出版社、一九九八)。

(⒚)小野忠重「木版は生きている」『印刷界』三五巻、(日本印刷新聞社、一九五六)。並びに渡邊庄三郎による『浮世絵大家画集』や『浮世絵版画傑作集』等の作品の実見による。

(⒛)前掲注⒙によると、国内での浮世絵研究の本格化は明治末からと云われている。

(21)同集は出版社が刊行途中で変わる。国立国会図書館デジタルコレクションにて確認したところ、大正一三年(一九二四)に国光社から第一集が刊行、大正一五年(一九二六)に二五集まで刊行されるが、少なくとも第二一集~二五集は出版社がグラフィック社となる。その後、第二六~三三集が昭和二年に美術社から刊行される。尚、刊行の始めは高見澤遠治が制作に関わっていたと思われる。前掲注⒚「木版は生きている」も参照。

(22)中村暢時「高見澤版複製浮世絵の歴史」『浮世絵備要』(中村暢時、二〇〇〇)。安達豊久「複製浮世絵の勘どころ」『浮世絵』第二六号、(浮世絵保護研究会編、画文堂、一九六六)。

(23)安達豊久が折衷主義を採ったことは前掲注⒚の「木版は生きている」や、前掲註22の「複製浮世絵の勘どころ」で触れられている。又、作品の実見にて版画会の『浮世絵大家傑作集』並び、安達豊久の『浮世絵版画集成』の内昭和二~五年(一九二七~三〇)の間に刊行された約四〇点を確認した。

(24)前掲注8、国立国会図書館デジタルコレクション『百物語』内参照。

(25)前掲注3。

(26)井上和雄編『浮世絵師傅』(渡辺版画店、一九三一年)、二四六頁。前掲註22の安達豊久「複製浮世絵の勘どころ」。

(27)実見にて確認した。又同集に附く解説書には「変色や時代の味を追わず三〇年、五〇年後の版画の美しき深みを求めて制作した」ことが言及されている。他、同版元によりその四年後に出版された『東海道五十三次保永堂版』(一九六六)も実見にて確認した。その解説書では菊地貞夫により、「同版元のように原本そのままに複製することは、かつてなかった複刻事業態度である」ことに言及されている。その真意に不明瞭さはあるが、同版元の制作方針が当時新しいものであったと思われる節がある。

(28)『文化財保護法五十年史』(文化財保護法五十年史顧問会議編、ぎょうせい、二〇〇一)、三四二~五頁。同書によると、選定保存技術とは文化財保存のために欠くことの出来ない伝統的技術で、文化財の特質を尊重し忠実に行われるべき修理•復元•模造などや、或いはそれに要される材料生産•道具製作のための伝統的技術とされる。それは自己の主張や独自の工夫が加えられた工芸技術とは異なるべきものであり、又、重要無形文化財(所謂、人間国宝)に表されるような、文化的所産で歴史上又は芸術上価値が高いと認められる伝統的な工芸技術とも、認定上の観点•基準は異なるものとされる。

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