コンビニが終了するとき
「本店は閉店することにいたしました、長らくのご愛顧誠にありがとうございました」
僕はそのコンビニにほぼ毎日ビールを買いに行っていたものだから、店先に貼られたその掲示を見て本当に面食らってしまった。ここに通い続けてもう10年ほどになる。
とはいえ、ここからきびすを返してあともう1分ほど歩けば、すぐに用事は事足りてしまうだろう。このあたりはいわゆるコンビニ密集地帯で、5分の徒歩圏内に4件ほどが店を構えていた。
僕はそのチープなMS Pゴシックをよくよく眺める。閉店まであと二ヶ月ほど。店内はいつもと変わらず、レジ前のおでんもこっぷりと温められている。
ここの店長はロマンスグレーの似合う優しそうなおじいさんで、僕がビールを買いに行く深夜帯はいつも店番をしている。
3年ほど前はしゃんと真っ直ぐ立っていたものだが、いつの頃からか少し腰が曲がってしまい、商品の品出しをつらそうにやっている。たしかに店を閉めるのも無理はないな、と思う。
いつものように無言でビールを買い、速やかに店を出る。おきまりのコースだ。次の日も、その次の日も僕はここでビールを買い続けた。
そしてある日、棚の商品が補充されなくなり始めたことに気づいた。
いつも24時間365日、棚に商品がぎっしり詰められている状態を「コンビニ」というものだ。だから陳列棚のどこかが少しでも空になっているだけで強烈な違和感を覚える。まるで歯や髪が抜けていくような奇妙な感覚だ。その光景を目の当たりにするにつれ、ああ、本当にこのコンビニは終わってゆくんだな、という実感が確かになっていく。
そんなふうに閉店へ向かう姿を追うことによって、初めてわかったことがある。それは、店内の品ぞろえが寂しく変わってゆくと共に、店の“聴こえ方”も変わってゆく、ということだ。
つまりどういうことかというと、店内を流れる音楽や、床を踏む足音がものすごく反響するようになる。店内を歩くとき、クーラーボックスのドアを閉めるとき、パシーン、パシーンと、ものすごい反射音がする。
商品がなくなるということは、音を吸収するものがなくなるということでもあるのだろう。店から色彩が失われてゆき音響さえも、がらんどうのような響きになる。そんな風に変わっていく光景の中にいながら、店長は何を思っていただろうか。
コンビニ店員と客というのは不思議な間柄だ。何年も通っているにもかかわらず世間話ひとつしない。これが市井の個人商店なら、何度も通ううち一言二言くらいは世間話をするものだ。なのにコンビニでは基本そういうことはない。日本全国どこにあっても同じ風景、同じ接客マニュアル越しに客と接し、個性なんかは必要ない。そういうことを店員も客も認識しているからだろう。
僕は閑散とした冷蔵棚からアサヒスーパードライを取り出しながら、それでもやっぱり最後くらいは挨拶しておかないとな、とそう決意したのだった。
「あの、もうすぐ閉店されるんですね」
意を決してそう話しかけると、レジカウンター越しの店長がはにかんだように眉を下げ、頬を緩ませた。
「はい、そうなんですわ、今まで長い間ありがとうございました」
「もうここに通って10年くらいになります」
「ははは、長いこと来てもらってます、そういえば、よく来てくれていたこんなくらいの坊っちゃんも、気がついたら高校野球のユニフォームを着ててね、こーんなに大きゅうなって……」
店長は右手を大きく上げたり下げたりしながら、店を始めた頃を懐かしんでいるようだった。
「これからは、のんびりと隠居生活ですか」
「はは、そうやとええんですけどねぇ。いや、いままでありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそありがとうございました。……では、お元気で」
10年ほぼ毎日顔を合わせ続けた二人がようやく話した、最初で最後の会話だった。ほんの1分ほどの他愛もない会話だが、ずいぶん経った今でも鮮明に憶えている。
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