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自由と人権について〜ただシンプルな願いが叶う世であって欲しいの〜

こんにちは、浮々舟子です。

初めてのnote投稿なので、最近考え事をしていたら、必ず行き着く「自由と人権」について、思いを述べてみたいと思います。

「自由と人権」ってなんだかカタクルシクてむずかしそう? たしかに。公民や道徳で習った実態のよく分からない言葉かも。憲法や法律にはよく出てくるけど。

でもそんな身構えたものとして私は使っていません。

わたしの思う「自由と人権」は、ひとりひとりが自分の望む生き方を選択していけること、そして不本意な選択を強いられることのないこと。自分の選択に責任を持って生きていけること。主体性を奪われないこと。

こんなに社会は発展して昔より格段に豊かになったのに、人々の人権意識はまだ怪しい気がします。

よくネットでは「フェミニズム」や「男女差別or格差」についての議論が暴走していますよね。その話に触れると、過激な攻撃をし合ったり、聞く耳を持たずに自己完結したり、なにかと取り乱してしまいます。わたしは、世間によって女性の人生がよりハードになることは絶対に変わるべきと思っていますが、「男VS女」という対立関係になりたくはありません。

フェミニズムは「政治制度、文化習慣、社会動向などおのもとに生じる性別による格差を明るみにし、性差別に影響されず万人が平等な権利を行使できる社会の実現を目的とする思想・運動である」(Wikipediaより)とされていますが、フェミニズムは女性解放思想、女性拡張主義、男女同権主義など訳されるように、どうしても”女性”側の主張という印象が強いのです。

女性を抑圧する制度や、当たり前と黙認されている文化や習慣は変わるべきですが、それは”女性”だから、ではなく”人間”として、人権侵害だからやめるべき、と訴えいきたいのです。だから自らをフェミニストである、とは言えないかな、と思います。

誰かが抑圧されている社会は、必ず自分も不自由さを味わうことになります。女性だから男性だから、ではなく、一人ひとりが人間として尊重され、自由と人権が守れられる、そんな世の中を渇望しています。

LGBTというワードが広く知れ渡ったり、同性愛の作品が老若男女に愛されたり、ジェンダーフリーのキャラクターが支持されたり、ジェンダーというものの見方が少しづつ豊かになっています。この人間界に存在しているのは”男と女”だけじゃないということが、ようやく共通認識になってきました。

もはや、女性が男性中心社会から自由を勝ち取るのではなく、人類が既存の社会から新たな次元の自由を勝ち取る、それこそが目指されるべきものだと思います。

生まれてきた性別や立場によって、生き方が決められてしまうような世の中は貧しい世の中です。望むのは、むずかしいことではなく、ただシンプルに人間として尊重されたい、自由を奪われたくない、好きな生き方を選択したい、そういう当たり前のことです。同性愛の結婚の裁判や、育休の問題、性犯罪の刑罰の軽さ、様々なニュースを見聞きするたびに、なぜ尊重されて然るべきである人権が、認められないのだろう、という感想に行き着きます。社会は彼らを人間である前に、女であり、男であり、子供であり、あるいは学生であり、なんらかの職業人や役職であり、権力者であり、ときに弱者である、と見ているように感じます。みんな、まず最初に人間なのに。

こんなことが浮々舟子の、思想の根本です。まだ抽象的で分かりにくいかと思います。これから、いろんなニュースや書評などを取り上げながら、もっと掘り下げて言葉にのせていきたいと思います。

「みんなちがって、みんないい」

誰もが知る詩なのに、それが叶わない社会。個性が大事と教えられたのに、それはキレイごとだった。金子みすゞさんの時代から約1世紀経ちますが、そんな豊かな社会は実現されていない。でも、渇望します。抑圧が当たり前だった私達の祖先のためにも、未来を生きる私達の子孫のためにも。

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