私ですら、私のものではない 〜”私”のコモン論〜
片づけをする日々は、「所有」という概念と向き合うことです。
「私はこれを持っている」
そのモノが自分の所有物だと思ってしまうと、執着心が生まれ、苦しみの原因となっていきます。
「これは一時的にここに在る」
片づけでは、その場その場で、自分にとって大切なモノを選び取っていきます。私たちとモノの関係は、常に一期一会。そんな「かりそめの出会い」を大切にするからこそ、モノによって、私たちの人生はいきいきと芽吹いていきます。
「これはいつかは去っていく」
片づけで得る感覚というのは、「本当は自分はなにも持ってはいない。ただ循環の中に在るだけなのだ。」ということです。
そうやってモノとの対話を進めていくと、「では私の時間は、才能は、身体は、そしていのちは、果たして私のものなのだろうか?」そんな疑問が湧いてきます。最終的に私の出した答えというのは、「私すら、私のものではない」というところ。それを「“私”のコモン論」と名付けました。
天からの賜り物
「ついつい話したくなる」
思えば、親子ほど歳の離れた方からも、子育てについて相談されたり、LGBTQの方から「はじめてカミングアウトした」と言われたり、いつも誰かの相談に乗っていました。いままでに何度も、カウンセラーになったら?占い師になったら?と半分本気で進められてきました。
どんな人にも必ずなにかの才能があるように、私には「人の話を受け止める」という才能があるのだと、まだ片づけの仕事を始める前、まわりの方々に気づかせていただきました。
全く無意識的に、自然とそうなっていくもの。本当の才能とは、そういうことなのかもしれません。
だからといって、「自分はこんな才能がある」と優越感を抱いたことはありません。どちらかと言えば「たまたま私の身体に宿ってくれた、天からの賜り物。だから、惜しみなく差し出しなさい。」と、お天道様から言われているような感覚です。
“私”すら手放してみる
天からの賜り物は、つまりコモン(共有財産)です。
そう考えると、私も、私の時間も、そして才能も、すべてコモンなのだ。少なくとも私個人はそう思っています。そうして「真理のための集まり」をテーマに、「私自身をコモンと捉え、シェアする場所」として、小さき家の活動を始めました。
私ですら、私のものではない。
「私」すらも手放してみると、いのちの働きは、もっと自由で、軽やかで、どこまでも運ばれていく。そんなことを、お片づけや小さき家の活動から、体感しているところです。
最後までお読みいただきありがとうございます!いただいたサポートは、片づけの普及活動に大切に使わせていただきます。