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「無私」の美学

暮らしの中で、気がつくと
「あ、いま私、“透明”になっていたなぁ」
と思うことがあります。


掃除をしているとき
料理をしているとき

手仕事をしたり
本を読んでいるとき

こうやって
文章を書いているときにも…

なにかに没頭する時間

私が私でないような

世界の一部として
ただ、在るような

そんな感覚のときに
“透明”を感じます。


✳︎


先日、
政治哲学者・中島岳志さんと
批評家・若松英輔さんの共著
『いのちの政治学』を拝読しました。

そこに書かれていた
“無私”の精神に共鳴し
“透明”感覚との共通を感じています。

本によると「無私」とは

×私を無くす(no myself)
◯私を超えていく(beyond myself)

であると書かれています。

人は、自分と深く深く繋がったとき
自分をも超えていくのでしょう。

自分を超えた状態=「無私」
それが、私の感じる「透明」という感覚なのだと
深く腑に落ちたのでした。


✳︎


坐禅を行う「僧堂」には
坐蒲ざふ(座布団のようなもの)以外
なにも置いてありません。

「いま・ここ」に心を落ち着かせるためには
その場所すらも、なるべく“透明”であったほうがいい。

住環境もまったく同じで
視覚的なノイズが多いと
「目の前にある、本当大切なこと」を
感じる余白がなくなってしまいます。

実際、私の“透明”状態が
日常的になり得ているのは
おうちが片づいているからに他なりません。

住環境がいかに大切か
「透明」や「無私」という言葉に出会い
より一層深く心得たのでした。

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