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放課後サバイバーズギルト

「またみんなで一緒に遊ぼう」って約束して別れたあと、ぼくは泣きながら遺書を書いていた。
 泣きながら書くってことは、なんだかんだ言ってやっぱりまだ生きてたいって思ってんじゃん。

"放課後別れたら明日はもう会えないかもしれない"。日常ってそんな張りつめたものだっけ。
 生まれてはじめて死にたいと思ったのは何歳の頃だったか。北陸の景勝地に家族旅行へ行って、自殺の名所だという崖に連れていかれた。心中する気もないのにそんなところに行くのは不誠実な気がしてとても嫌だった。少なからずその時点で死というものを神聖視していたのだろう。両親は泣き叫ぶぼくの手を引くばかりで、ぼくの言うことなんて聞きやしなかった。このエピソードがきっかけかはわからないけれど、どんなに嫌がってもいつか無理矢理死ぬのだから、どうせなら自分の手でそのときを選びたいと考えるようになった。

「絶対二十歳になるまでに自殺する」と言ったとき、クラスメイトには「どうせそんなこと二十歳まで覚えてないよ」と嘲笑われた。結局二十歳の誕生日の前日にだって自分の発言を覚えていたけれど、事情があって(聞いても面白くない色恋沙汰だ)ぼくは三十路を過ぎてものこのこ生きていた。

 この年の瀬に、緊急で医療保護入院。今年は精神科の閉鎖病棟で年を越す。私宅監置なんて言葉があった時代と比べたら、監視カメラつきの部屋とはいえこうしてケータイ小説を書いて公開できる程度には自由だから困ったものだ。
 同時にどこにいようと不自由なのは変わらない。この身体は牢獄だもの。他者を怯えさせ、威圧し、怖がらせる。最初からいなかったならともかく、途中まで生きちゃうと、もう投げ出せないんだって。
 刑期が終わる最後まで脱獄せずに生き抜いて償わなければとも思うが、いったい私は何の罪でこの身体に閉じこめられたのだろう。
 そもそもアバターと違って自分じゃ選べないステータスが多すぎる。名前も性別も特性も能力も選べたらよかった。声変わりなんてすることもなく、細く甘い声でソプラノを歌い続けたかった。もしかしたら誰にも話す必要なんてないのかもしれないけれど、秘密を抱えて誰にも打ち明けられないというだけで苦しくなってくる。歌っている間だけは身体の外に出られる気がしたんだけどな。

「行ってきます」って家を出るとき、「ただいま」と帰宅をする自分を想像するものだろうか。ぼくは玄関という空間が家の中で一番嫌いだ。そこにいる姿はできれば家族からも、外の人からも見られたくない。パーソナルスペースの切り替わる汽水域のようなものかもしれない。淡水と海水のように、内と外の文脈が混ざる。使い分けることに相当なエネルギーを使っているのだろう。
 そもそも帰ってくるとは何だろう。たとえば家を出て学校に行って、学校から塾へ行って、塾から家に帰ってくる。学校に行った時点で家を出る前の自分とは何がしか変化しているし、塾へ行ってさらに変化している。元の自分のままなんてあり得ない。それは同様に家自体も同じだけの時間を経過している。
 元のままで帰るわけでないなら、塾から家に"行って"いる。ぼくたちは自宅の鍵を握ったまま、行きっぱなしで生きている。生きることも行くことも、途中でやめることはできない理不尽なシステムだ。生まれっぱなしで生きっぱなし。

 これまでのがんばりを評価してくれる人と、そうでない人どちらもいる。それさえも私の振る舞いがそうさせてしまっている。

 もう沢山だ。何もかも投げ出して終わりにしたいと自棄になった私を、アライたちが総出で支えてくれたから閉鎖病棟で年を越せる。
「死なないで欲しい」ではなく「生きていて欲しい」って言ってくれる人がいたんだ。
 人一人の命を生かすだけで、こんなにめんどくさいんだぜ。

 殺すなよ。
 死にたい私が殺すなというのは説得力ないけどな。
 でも私と同じように自宅の鍵を大事に大事に握ったまま、行きたいところに行けなくなってる人たちがたくさんいる。
 生かせよ。否定形でなく、武器を置いて。
 何にもハッピーじゃないニューイヤーだ。
 面白げなことや楽しげなことも心置きなく楽しめなくなる。
 この手は助けを求める手を手折るためにあるんじゃない。あたたかく握るためにある。

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