25歳の夜の讃歌
人生50年と信長は詠った。
人生100年と政治家はほざいた。
僕の人生は25年を数えた。
生まれたときから数えて25年という月日において、世界は大きく変わり、それに歩調を合わせるうに人類はなんとなく時代を過ごす。
結論、目立つ勝者は目立たぬ敗者を踏みつけて、燦々とした太陽の日の光を一身に受けて、揺るがぬ巨木となっている。日陰に沈んだ苔の群衆は巨木の目には届かない。
それにしたって、誕生日を祝われるのは好きではない。
SNSの誕生日欄は非表示だ。
かといって、祝ってほしくないのではない。
宙ぶらりんな現状だ。
結局ワガママである。
役に立つモノサシの上でサンバ
観念的な言葉が人の心に与える影響は耳障りのいい他者への誹謗中傷に負ける。
優しさと慈しみの権化はあっという間に淘汰される。
世は資本主義の反乱を見て、求めているのかも止めさせられているのかすらわからない。
僕は株式会社に向いていない。
きっと役にも立たない。
それでいいと思っている。
目の前に立つ全高30センチのウルトラマン…のフィギュア。
役には立たない。しかしそれでいい。
僕は役に立って欲しいとも思っていない。
それは甘えなのだろうか。判断はつかない。
とはいえ僕の中ではもうすでに判断している。
矛盾だ。
少なくとも、役に立つという打算的な目線を持つ時間は仕事の中だけにしておきたい。
そう思えただけで僕は大人になったものだ。
性別を僕はXとしている。
役に立つか立たないかで言えば性別など役に立たない。
しかしそれは必要である。そんなものだろう。本当に大切なものなんて。
柔軟性。悪くいえば言い訳の上達。白黒しか認めなかったが、灰色でもいいのではないかという心の余裕。
その動静。まさしくサンバ。
感情を添えてサラダ
言葉で発することは苦手だ。
文字にすることは得意だ。
堰を切ったように流れる言葉を溜めておくことは不自然だ。
ダムは不自然の象徴だ。
今年から美大に入ったわけだが、「ああ、知りたかったことや表現したかったことを形にできるのは幸せだなあ」と思う日々である。
しかし、目を開ければミサイルが農地を焼き、相変わらず飢餓で苦しむ人がいる。麻薬に溺れる人間がいて、思想で死ぬ若者がいる。
そんな折、僕らとなんの違いもないただの人間の葬式に一億も出しているトンチキ政府。コロナで亡くなった人は初めからいなかったかのように。
それを前に僕が気にしているのは、晩御飯にサラダが少ないなあと言ったようなものだ。
ガソリンの値段も上がっているのにそれほどに心の余裕があるとは、僕はなんて都合のいい国民だこと。
目を瞑っていた方がよっぽど美しい世界が広がっているのだ。
目を開ける必要性など微塵もない。
無味無臭の世界だ。
100年も生きろと言える人間は幸福だろう。
いつまでも死ねないサンタ
人生50年。
そんな時代は通り越して、下手をすれば僕が死ぬ頃には人生150年〜、と詠う未来もこようとしている。
いずれ月や火星で人が誕生したとしたなら、サンタは大忙しだろう。
トナカイにも宇宙服を着せて、真空をかき分けねばならない。
ああ、今の子どもたちはかわいそうだ。後150年もこの世界で生きなきゃならない。
こう思っているのに子どもは欲しいと思う矛盾。
結婚はどうでもいいのだが、子どもは欲しいなあと思う。
それは一体なぜなのか。
自信を必要としてくれる存在が欲しいからだろうか。自分の遺伝子を継ぐものが欲しいからだろうか。生物としての生存本能なのだろうか。
一切のエゴもなく生まれてきた子どもは、この世の中に一人としていない。
みんな何かしらのエゴを背負う。
怒られるかもしれないが、まあ少なからず遠からず事実だろう。
僕も多分にエゴを抱えて、子どもという道の存在を望む。
しかしそもそもエゴとは忌避すべきものなのだろうか。
生きたいと願うことも死にたいと願うことも、どちらも相応にエゴであると言えよう。
エゴを捨て去ればそれはもう神に他ならぬ。
閉じゆく花弁も過ぎゆく夏も、指の一振りか頷き一つで花は咲き、地球は逆回転するだろう。
エゴは僕の一つのテーマだ。
蛍も気づかない小さな夢のサンゴ
適当に見えて無軌道に見えて前後不覚に見えて根性なしに見えて。
それでいて一つの法則と定理に沿って、僕は生きてきた。
四半世紀という日々を僕は天性の運の強さでもって、途轍もない波を超えてきた。おそらく同い年の人々の中でも、どちらかといえば珍しき人生を歩んできただろう。
まあ僕は運がいい。いずれ思い描く未来はやってくるだろう。
朧げな未来の解像度は奇妙に歪みながらも確かな形を成していく。
言葉の背景は何やら滲んで、焦点の合わない景色は僕の脳の中で水槽を成す。そこを泳ぐ金魚の美しさを僕は小説や文章で表すだけである。
その水槽に生える珊瑚は嫌に艶やかで目につくものだ
テンポは寒くなるほどに早まっていく。
誕生日を過ぎるたび、僕は少しづつ死に近づいている。
寒くなるたび死を意識しだす。
再び山河
旅がまた僕の前に姿を表していることの気づいた。
僕の前に再び現れる山河は変わらず美しいものだった。
それでも海には敵わないか。
海を見るたび波を降り重ねた薄い青に心の垢が浚われていき、僕は再び生きてみようかという気になる。
四半世紀の結果はこんな文章という結露だったわけだ。
それもまた僕の破片だ。
まわりまわって、世の中が幸せになる使い方をします。