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小説家を目指した3年間

「私にとって創作とは、ライフワークである。」

記者の前でそう言ってみたかった。金屏風の前に座って。芥川賞受賞式のコメントを考えるのが学生自体の日課だった。私には夢があった。

小説家になるーそう決心したのは小学6年生の時だ。
「しょうらいのゆめ」という課題作文にそう書くと、友達や先生は
「お前なら行けるよ、頑張れよ」
そう言って私の肩を叩いた。思えばあれが始まりだった気がする。

中学受験して県内一の進学校に入った。高校受験はない。目指すは東大ただ一つ。名だたる文豪は全員と言っていいほど東大卒(中退も多くいたが)だったからだ。

早速つまずいた。私は勉強するのが好きではなかった。とても東大に入るだけの努力をするのは不可能だった。

それではと思い、学生の内に作家デビューすることに決めた。

当時、綿矢りささんが最年少で芥川賞を受賞したことは大きく報道された。
「それなら、俺は中学生で芥川賞取ってやる」
とんだ思い上がり小僧の誕生である。

そこからは毎日原稿用紙と向き合う日々だった。部活もろくにせず、友達も作らず、孤独は創作に必須な要素であると決めつけて、ひたすらに自分の1番面白いと思う小説を描き続けた。

軽いイジメを受けもした、親と揉めたりもした。しかしそれも全部作家になるためには必要なことなのだと、耐え続けた。

3年後、小説は完成した。

300ページの夢の束。私はそれをコピー機で複写し、最寄りの郵便局から送った。局員さんが「締切とかは大丈夫ですか?」と、優しい声をかけてくれたことは今でも覚えている。

1次選考の結果は、文芸誌での発表だった。
私はそれを見るつもりはなかった。なぜなら私の中で芥川賞受賞は確実だったからだ。毎日賞金の使い道、インタビューの受け答えの訓練などをして、楽しく過ごした。

しかし、1ヶ月待っても2ヶ月待っても、出版社からの電話は来ない。耐えかねた私は書店に行き、文芸誌を開いた。震える指でページをめくる。やけに店内が暑かったのを思い出した。そして1次選考通過者の発表ページを見つけた。
穴があくまでそのページを見つめた。

そこに私の名前はなかった。

そこで折れてしまった。

ポキっと、私の【しん】がおれる音が聞こえた。

私は創作を辞めた。

人並みに受験勉強をして、失敗し、浪人し、また受験勉強をして、失敗して、特に入りたくもない大学に入った。

それなりにサークル活動も楽しんで、初めての彼女も出来て、バイトも掛け持ちして、一般的な大学生活を送った。

しかし、就職活動の段になって困ってしまった。

就活ではひたすらに「自分のやりたいことはなにか」を見つめることが求められる。

私にとって、それは紛れもなく創作だった。

いかに才能がなかろうが、努力が続かなかろうが、他人に否定されようが、それは変えられないのだ。

私にとって、物語を書くことは、何よりも楽しく、充実した作業であった。

それに気づいた時、私は再び言葉を書き留め始めた。中学生の時諦めた夢のページを開き、また書き始めた。

ドラマといえるほど刺激的なものでは無いが、私にとって創作とはライフワークである。

世界がどれだけ悲しみに溢れても、奮い立っている時も、私はきっとnoteを書き続けている。

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