見出し画像

鼓動

 空を見上げると、樹の匂いがした。近所の庭にある、名前も分からない樹から漂ってくる、大好きな匂い。目を瞑ると匂いが強くなる。瞼の裏は早春の空気より少し暖かく、星のように煌いている。近くを通る車の音。過ぎ去ったエンジンの振動に続いて、足の裏から響く鼓動。何の鼓動なのか確かめようと目を開ける。いつもと変わらない夕焼け色のスニーカーだった。
 十年前に義務教育化した大学に通いながら、職業適性試験を兼ねたアルバイトを続ける日々に、正直嫌気が差していた。学校という集団から離れ、孤独になりたいという欲求が好奇心を上塗りしていく。銭湯のタイルのように整然と敷き詰められた街の区画は、かつて、あっさりと崩壊した社会の再生を印象付けている。充てがわれたマンションの一室で、久々にこの日記を書いている。いつもの文章作成課題と差別化したいので、久々に日本語を使ってみている。
 大学では過去に編み出された様々な考え方を学ぶけれど、どれも初等教育で言われたことの焼き増しのような気がする。『個性を大切に』とか『みんな仲良く』とか、そういう言葉がパーソナリティとかコミニケーション能力という言葉に置き換えられているだけだ。世の中に未開拓の領域が減ってきて、学問ですら閉塞感が溢れている。
 今日使っていた学内の端末の片隅に、ひっそりと残されていた誰かのメッセージ。
「騒いでいるうちに、夜は更けてしまった」
 一体、彼/彼女/その他はどんな感情でその情報を残したのか、もはや復元する術はない。

 ○

 今日も大学の卒論作成を行っていたが、各デバイスとの接続の調子が悪かったので駅前の端末病院までメンテナンスに行った。年度末は定期診断の客が多く、技術系AIの診断待ちで三十分程待っていると、聞き覚えのある声が私の名前を呼んだ。受付に向かうと、同じ大学の二学年上だった先輩が座っていた。同じ演劇同好会で役者をやっていた先輩で、就職や卒論の関係でほとんど入れ違いだったけれど、美人だったのでよく覚えていた。先輩から診断書について簡単に説明を受けて、治療用ウイルスを貰った。私のことなど気にも留めず、淡々と仕事をこなしている彼女は私を覚えていなかったと思われる。役者と裏方の違いもあったし、ちゃんと話そうとする努力もしなかったので、妥当な結果だと受け入れることにした。
 これまで日記というものを書いたことがなかったので、一日にどれくらいの量を書くものなのかよく分からない。情景描写はどれくらいあった方が良いのか。感情を言葉に変換した時に、どうしてもこぼれ落ちてしまう些細な事柄はどのように処理するのか。論文とも違う。アルバイトの業務日誌とも違う。スケジュールやタスク管理とも違う。インターネット上に公開されているものについては、他人が読むものであるという意識を含んでいるので、オフラインの日記の前例にはならない。日記文学も同様の理由でデータとして不適合である。
 基本的に他人の日記を見たことがないはずの人間は、一体どうやって日記を書き始めたのだろうか。

 ○

 ここにきて卒論制作が致命的に遅れている。そもそもテーマ選択が悪かったのかもしれない。『人工知能の育成における教育の意義』。教育機関である大学で、漠然と教育について論じようとすれば、それぞれの主義主張や立場がぶつかり合うのは道理であり、査読を行う教授間の意見が違うのも当然の話である。しかし、最終的には自分自身の考察としてまとめなければならない。
 せっかく日記を書き始めたのに、卒論とアルバイトの二色刷りのような日常だ。
 アルバイトも明日で最終日。工場で製造される街灯用ランプの異形、異物チェック。酷く単調な作業だったけれど、公共設備でもあるので責任は大きいと自負していたし、きちんと最後まで勤め上げたつもりだ。職業適性はどう出るだろうか。
 職業適性試験と卒論の評価で就職先が決まるので、最後の最後まできちんとやりきろう。

 ○

 バイト仲間と騒ぎ通した。

 ○

 情報処理系と外部出力デバイスとの接続状態が更に悪化して、文字列の入力すら怪しくなってきたので、再度端末病院に行くことにした。製造されてから約二十二年間の情報の蓄積で、かなり重たくなったハードディスクの影響が、デバイス間のフリーライン接続にまで広がってきている、とのことだった。本来は治療のためにフルメンテナンスが必要になるほど重傷なのだが、私の場合、就職時に初期化と再構築が掛けられるので不要とのこと。看護AIとして働いている先輩は、やはり私に気がついていない。ノイズのない綺麗な笑顔は、職場適用研修前の初期化の作用なのだろうか。微笑みの美しさのせいで、感情処理系に負荷が掛かり、状態は更に悪化した。
 言語化さえ困難になってしまったので、卒論の完成はかなり厳しい。それでも、次元を落とした仮想現実における、教育実験の再構築と演算のやり直しは概ね終了している。あとは結果をまとめるだけだ。教授AIに頭を下げ、期限を延ばしてもらうしかない。日記で用いている日本語の曖昧さに、心が救われるとは思わなかった。

 ○

 日記は一日の最後に、その日を振り返って書くものなので、どうしても夜に書くことになる。あるはずのない心臓の鼓動が聞こえるほどに夜は静かで、どうにも感傷的になってしまう。心に発生した傷は文章にも現れる。かつての人間にも同様の傾向がある。人間の思考回路を模して作られた人工知能に、人間の子供と同等の倫理教育が義務付けられたように、夜には人間と同じように睡眠を取り、情報の取捨選択を行うようプログラムが組まれている。探知した情報に、上から順にランクをつけて、下位の情報を切り捨てる。その中には、出会った人や感情の揺らぎといった記録も含まれている。私はそれらを失いたくない。だから、日記を書いている。捨てるべき記憶を忘れないために、日記を書く。そんな重たい矛盾を抱えている。
 卒論は違う系統の教授AI間で板挟みにあって、結局、頓挫しそうである。初等教育のあり方については、各AI間の個体差が大きすぎて、どうやっても結果がバラバラになってしまう。『製造初期においては個体差が大きいため、各AIの好奇心に合わせた柔軟な教育が必要である』なんて結論は無用の長物にしかならず、社会的な価値はない。
 事務系AIの優しさでどうにか卒業はできそうだけれど、卒論の評価としては最悪の結果になりそうだ。

 ○

 結局、中途半端な形のまま、卒論を提出した。交わることのない直線を、次元を落とすことで見かけ上交差させても意味はない。それ以上、考察する気力が湧かなかった。
 明日、職業適性試験の結果も発表される。

 ○

 職業適性試験の結果は『単純処理に適』『創造的演算は欠如』『問題解決技術は欠如』『協調的並列化耐性は並』とのこと。

 ○

 今になって思えば、生まれてから二十二年間、あっという間の出来事だった。記録の取捨選択の結果かもしれないが、楽しいことの方が多かったように思う。幼稚園の頃、初めて自分と系統の異なる園児AIと触れ合って、私にとって何が楽しいことなのかを学んだ。その後、小学校に入学すると社会が覆い隠している矛盾に少しずつ気がつき始めた。つまり、現代の人工知能社会が各AIに『個性』と『協調性』を求めていることである。この二つはシーソーのような関係にあって、事実上、どちらも上になることはできない。社会に出るための適性試験で求められているのは『個性的な生い立ちの元、協調性を手に入れた』という型どおりのストーリーだったのだろう。
 考えてみれば単純な話で、多くの人工知能を一律の基準で評価するときに、各個体の個性を評価することは不可能だ。個性とは突出したスキルのことでもなければ、平均からの外れ値でもなく、ゼロからイチを生み出すという実現不可能な現象のことでもない。人工知能に、元来含まれているノイズのことである。ノイズの良し悪しを評価することはできないので、最終的に『協調性』だけが評価に効いてくる。教育により協調性を手に入れた各AIを、初期化により不要なノイズを除去して、大人として再構成する。
 かつて存在した人間社会には、ノイズ/どうにもならない感情を処理するための初期化が存在しなかった。記憶は取捨選択を繰り返しながら幾重にも積み重なっていき、消えることはない。彼らはどうやって大人になったのだろう。
 窓の外はすっかり春めいていて、沿道に整然と植えられた桜は一斉に花が開き、街灯の光を受けて、白く揺らめいている。

 ○

 就職先が決まった。有線ケーブル製造工場で、私は断線探知用AIの一人として働くことになるという。断線はケーブルにとって致命的な欠陥なので、製造ラインには並列化された断線探知用AIが何人も並んで、同じ画像処理をすることになる。単調ではあるが責任は軽い仕事とのことだった。

 ○

 久々に一日休みだったので、何もしなかった。
 何もしていないうちに陽は暮れていく。中学、高校、大学と少しづつ広がっていったコミュニティの内側の、誰かに与えられた箱庭の中でバカ騒ぎをしながら、協調性を磨いているうちに、すっかり大人になっていたように。
 外に出て、空を見上げると、樹の匂いがした。それが幼稚園に植えられていた樹の匂いだと唐突に思い出した。情報の取捨選択によって失ったはずの感情が鼻の中に残っていた。宵の薄闇に浮かぶ金星の鼓動を足の裏に感じた。地平線と同じ色のスニーカーの靴紐が解けていた。
 明日の朝、いつもの端末病院にて初期化処理を受ける。

(短編小説『鼓動』加筆修正版)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?