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星と夜

 母は僕が寝てしまうと窓を閉じ、僕が起きる時間になると窓を開けてくれる。涼しい風がレースのカーテンを膨らませる。優しい声が僕に告げる。

「プルートが帰ってきてるよ」
 プルートとは窓際で眠っている大きなフクロウのことだ。彼は夜行性なので昼間はぬいぐるみの姿になってじっと動かない。夜になると、母が開ける窓から外へ飛び立っていく。僕のまぶたはまだ夜の重さに勝てないから、悔しいけれど、その雄姿を見たことがない。この街の空は大きいから、飛んだらきっと気持ち良いと思う。僕は大きくなったら空を飛びたい。
 プルートという名前は母に相談してつけた名前だ。平たい顔に付いている二つの目が金色のボタンだったので、双子の星みたいだと母に言ったら、プルートのことを教えてくれた。プルートは地球のずっと外側で太陽の周りを回っている星で、大きい星と小さい星とが一緒になっている。僕はその星のことをとても気に入ったので、彼にプルートという名前を与えた。名前を呼んで、抱きしめてみると何だか愛おしくなってくる。大切なものには名前をつけることを教えてくれたのも母だった。
 僕の母は聡明だ。僕によく宇宙のことを教えてくれる。母は昔、大学で宇宙の研究をしていた。よく夜更かしをして、宇宙を覗いていた時の話をしてくれる。宇宙の勉強だなんて、母はとてもスケールが大きい。そんな母に、僕は鳥のことを教えることがある。図書館で調べた美しい色の鳥のこと。庭によく来る小さな鳥のこと。たまに空を飛んでいる大きな鳥のこと。僕はまだ母ほどスケールが大きくないので、まずは地球のことを知りたい。夜、プルートが飛んでいく世界を見てみたいのだ。

 ○

 窓際に置いた椅子にたたずむプルートは他のぬいぐるみとは比べものにならないほど大きい。座った僕とあまり変わらない位なので、もし翼を広げたら、母よりも大きいのではないかと推測できる。立派な翼は焦茶色、お腹のあたりはベージュ色をしていて、縞模様が入っている。金色の目の上に耳が逆立っている。
 プルートと会った日のことを今でも鮮明に思い出すことができる。彼は僕の部屋に突然やってきた。朝起きると、白いレースのカーテンが揺れる奥から僕を見つめていた。僕がもっと小さかった頃に使っていた椅子に静かに立っていた。寝ぼけていたのと、びっくりしたのと、あまりに大きかったのとで、最初は少し怖かった。忍び足で部屋を抜け出して母に何があったのかを聞いてみると、彼は空の彼方から飛んできて、母が開けた窓から僕の部屋へと降りたったのだという。あの日はちょうど僕の誕生日だった。誕生日プレゼントに貰った初めての自分の部屋で、初めて一人で寝ることに緊張して、珍しく寝坊してしまった朝の出来事。もうすぐあれから一年が経つ。僕らはひとつ歳をとる。
 プルートがやってきてからというもの、僕は一人でもすぐに眠れるようになり、その結果、プルートが飛び立つところを見れたことがない。見てみたいのに、見ることができないというのはとても悲しいことだ。お化けみたいに見たくないものは見れないほうが良いけれど、大好きな鳥のことなのに、睡魔にすら勝てない自分がとても情けなく感じる。夜に眠くならないように昼寝をたくさんしても、夜ご飯をたくさん食べて、ソファで本を読んでいるといつの間にか眠っている。母はだらしない僕を持ち上げて洗面台に連れていく。目が開かないまま歯を磨き、母と父とプルートに「おやすみ」を言って、ベットに入る。ああ、今日もプルートの勇姿を見ることができなかった! そんな後悔を噛み締めて、至上の温もりに包まれていると、夜の重たい空気に負けてまぶたが落ちていく。まぶたの裏の暗闇に、煌めきが広がっている。その中を通り過ぎると、気付けば、夢の世界に着いている。
 夢の中のプルートはいつも、たくさんの生き物を助けている。図書館の本や子ども新聞で勉強した動物の事故や病気、孤独から皆を守ってくれる。空を飛びながら、僕の住む街や周りに広がる森や湖の生き物を見守っている。僕はプルートの背に乗って、夜の空を飛んでいく。駅や家、道路や電柱、樹や池や森や雲が、電線のように細く、黒く伸びていく。世界がプルートのくちばしを先頭に引き伸ばされているのだ。世界の線が集中する一点に目を凝らすと、鳥の影が見えてくる。プルートも同じ場所を見つめて、真っ直ぐ飛んでいる。僕もプルートも同じくらい目が良いので、言葉がなくても気持ちは通じ合う。そして、僕たちは孤独な鳥の元へとワープする。
 朝起きて、夢の話を母にしてみると、フクロウは昔から伝わる守り神なのだと教えてくれた。夜行性の鳥の神様が、僕が起きている昼間はぬいぐるみの姿になって休んでいる。僕は彼を労わって、いつも抱きしめる。

 ○

 朝、誰もいない教室は洞窟の中みたいに涼しい。僕は毎日一番早く教室に着く。良く晴れて、うんと寒い冬の日や、陽射しが暖かい春の日には時々寝坊してしまうけれど、寝癖を直すことよりもできるだけ早く教室に行くことを優先している。一人の教室で、机に引っ掛けたランドセルから図書館で借りた海鳥の本を取り出す。教室なのに、教科書以外の本を読んでいるとなんだか特別ことをしているようでゾクゾクする。
「おはよう!」
 とても元気が良い挨拶なので、僕まで元気になってくる。いつも僕の次に教室に来るツルミさんだ。ピンクのランドセルを引っ掛けて、そのまま僕の席へと来て、
「何読んでるの?」
と言うのが、習慣となっている。陽によく焼けていて、動物の子供のように活発に走り回り、人並み外れた知的好奇心に溢れた彼女は毎朝、僕の読む本の内容を知りたがる。自分では決して読もうとはせず、いつも僕の説明を聞き、
「そうかそうか、よく分かったよ」
と大人のように言う。ツルミさんは僕の下手な説明から、一番大切な部分を見抜いて、すぐに自分のものにしてしまう。授業でもその能力は発揮されるので、ツルミさんはクラスで一番成績が良い。ちなみに僕の通知表は極端で、好き嫌いがはっきりと出ている。理科と国語が得意だけれど、算数と音楽がまるで駄目。だから、僕もツルミさんのようになりたいと密かに憧れている。ツルミさんの頭脳で、僕みたいに地球のことを研究したら、きっと世紀の大発見ができる。
「ツルミさんはいいなぁ」
「なんで?」
 心の中で言ったはずなのに、うっかり声に出てしまっていた。僕にはこういうことが時々ある。ツルミさんのように頭が良くなりたいだなんて、負けを認めているようであまり言いたくない。
「名前に鳥の名前が入っているから」
「ツル?」
「うん。すごい羨ましい」
「ツルって雪みたいに真っ白だよ? わたし黒いし、ツルっぽくない」
「でも、すごい大きくて、カッコいいし、似合っていると思うけど」
「すごい大きくて、カッコよくなりたいならいいけどさ」
「なりたくないの?」
「うん」
「そっか」
「うん」
「でも、やっぱりいいなぁ。僕は鳥になりたい」
「どうして?」
 僕はツルミさんにプルートの説明をした。それから、僕らは夢中で議論した。空の高い場所から見たこの街や森や湖がどれほど美しいか。プルートがどうやって孤独を探し出すのか。どうしたら母のように夜更かしをして、真実を確かめられるのか。ツルミさんは言った。
「そうかそうか、よく分かったよ」
 黒い瞳が僕を見た。
「プルートは最初に君を見つけたんだね」
 一時間目のチャイムが鳴った。

 ○

 ツルミさんがプルートを見てみたいというので、放課後、一緒に僕の家に行くことにした。学校から僕の家にはどこまでも続く一本道を進む。道の途中にツルミさんの家がある。一旦ツルミさんの家に寄って、どこに行くのか家の人に伝えていくことを提案したが、ツルミさんは歩きながら首をふるふると振った。
「お父さん、今日帰り遅いから」
「お母さんは?」
「いないんだ、わたし。父子家庭ってやつ」
「父子家庭?」
 知らない言葉だったけど、なんとなく意味は分かる。ツルミさんの言ったとおり、お父さんはいるけど、お母さんはいないということ。
「まぁ、珍しいことでもないんだけどさ」
「そうなんだ。なんだか複雑だね」
 僕が言うと、ツルミさんは歩みを止めた。黒い瞳が僕を見て、ふんわりと少しだけ笑った。
「そうなの。複雑なの」
 それは僕の母の笑顔に似ていた。女の人はふわっとしている気がする。顔もほっぺも声も髪の毛もおしりも、母のように大人になればおっぱいも、どことなくふんわりとしている。女の人が動くたびに、まるでレースのカーテンが風に膨らむような感じがする。それに比べて、僕のおしりはプリッとしている。それが男子と女子の違いなのかもしれない。プルートも抱きしめるとふわふわなので、きっとメスなのだろう。
 それから僕らは、いつものように様々なことを議論をした。テレビのドキュメンタリーで見たサバンナのライオンの親子のこと。お互いの将来の夢のこと。それから、給食の牛乳をいつ飲むかについてなど、話は多岐に渡ったが、ツルミさんはやはり最後にこう言う。
「そうかそうか、よく分かったよ」
「なんで、そんなに何でも分かるの?」
 僕は訊いた。
「これ、お父さんの口癖なの」
「口癖?」
「わたしの話を聞いてる時の、いつもの癖。難しい顔して、頷きながら言うとね、本当は分かっていなくても、分かった気になるの。そうして、分かった気になっていると、本当にその話の大体のことが分かるの」
「やっぱりお父さんも頭が良いんだね」
「どうかなぁ。わたしはわたしのことを分かったつもりでいられても、腹が立ってばかりだよ」
 僕の家に着くと、庭に白と黒の模様の小鳥がいた。小鳥は芝生をしきりに突っついて、種や虫を食べていた。僕の部屋の窓から、プルートが小鳥を見つめていた。
「あれがプルート」
「でかっ!」
 最初はプルートのあまりの大きさに戸惑っていたツルミさんも、次第に慣れて、最後は僕と同じように抱きしめていた。
「ふわふわ」
 ふんわりした声でそう呟いた。

 ○

 今年の誕生日は土曜日だったので、夜更かしをすることに決めた。母に頼んだ今年の誕生日プレゼントは『夜更かし権』だ。本当は選挙権のように大人にならないと得られない権利なのだけれど、一日だけでいいから、僕はその権利が欲しかった。母に強制的に洗面台に連れて行かれては抵抗しようがない。歯を磨いてしまえば、僕は習性として為す術なく寝てしまう。だから、最初から夜更かしする権利を勝ち取って、母に協力を仰ぐしかない。寝そうになったら起こしてもらったり、宇宙について教えてもらったり、星と夜の関係性について議論するのも良い。夜空には何故あんなにもたくさんの星が輝いているのだろう。地球にだってこんなにたくさんの生き物が住んでいるのに、星々を全部合わせたら一体どれだけの命があるのだろう。どうしたら僕とプルートは夜空の星にワープできるのか。宇宙の外れの星に住んでいる鳥の孤独をどうやったら救えるのか。宇宙の研究をしていた母なら分かるかもしれない。プルートの動向を確かめながら、牛乳とお菓子を食べて、夜を明かすのだ。
 十分な昼寝を取ったので、夜ご飯をたくさん食べた後でもあまり眠くない。母は甘口のルーと中辛のルーを混ぜ合わせ、目が覚めるほど辛いカレーを作ってくれた。午後十時を回っても、まだプルートに変化はない。父が日常からの変化は丑三つ時に起こるということを教えてくれた。丑三つ時とは午前二時頃のことだ。その時間は夜が一番暗くて、星が一番輝いているのだと母が教えてくれた。誕生日を迎え、一つ歳をとり、夜更かしをする僕を見て、父と母は僕のことを大人として扱ってくれた。夜はたくさんのことを勉強するチャンスだったのだ。母が甘いミルクティーを淹れてくれた。ぼーっとする頭に、カップの底でどろっとした砂糖の粒の甘さが染み込んでいく。
「プルートみたいに夜に飛べたら、そのまま宇宙にも飛んでいけるのかな」
「残念。私達はまだ宇宙を自由に飛べないの」
「僕にはできなくても、プルートに頼むんだ」
「何を?」
「寂しさに負けそうな人に教えてほしい、って」
「何て?」
「朝になったら寂しくないよ、って」
 もっと母と宇宙の話をしたいのに、言葉を上手に繋ぐことができなくなってきた。こうなったら、黙ってプルートを観察しているしかない。眠らないように座ったまま、僕は金色に光る目を見つめた。
 
 ○

 僕は小さな星にいた。母がよく読んでくれた『星の王子さま』の話に出てくるような、とても小さな星だ。地面は金色の砂で出来ていて、見上げると、図鑑で見るような真っ黒の宇宙空間と幾つもの銀河と広大な星雲のガスの中に、金色の大きな星が浮かんでいる。おそらくは僕が立っているこの星よりも少しだけ大きい双子の星。目を凝らすと向こうの星にはプルートが立っていて、同じようにこちらを見つめている。
 プルートの金色の目が、一人ぼっちの僕をじっと見つめている。言葉は通じなくても、強い気持ちが伝わってくる。あの日、初めて一人で寝ようとして、寂しくて泣いていた僕の元に、プルートは飛んできてくれた。聡明な母が言うんだから、間違いない。
 焦茶色の翼を広げる。母よりももっと大きい。鋭い爪が金色の砂を蹴り上げて、やわらかい羽根が風に流れる。力強い羽ばたきで身体を持ち上げると、ぐんぐんと高度を上げていく。あっという間に小さな星の弱い重力から解き放たれて、プルートは夜空の彼方に飛んでいった。見えなくなったプルートに僕は「ありがとう」と言った。
 夜が明けて、日曜日の朝が来たら、部屋に戻ってきたプルートと一緒にツルミさんに会いに行こう。彼女がうんと頷けば、しばらくプルートを貸してあげようと思う。僕には空を飛べないし、遠くまで見通せる目も持っていない。頭だってそんなに良くない。それでも、空から見たこの街や森や湖の美しさを夢見ることはできる。誰かの寂しさを想像することができる。もっと勉強したら、たくさんの生き物を助けることだってできるかもしれない。
 小さな星に小さな太陽が昇る。朝が来る。涼しい風がレースのカーテンを膨らませる。優しい声が僕に告げる。
「プルートが帰ってきてるよ」

(掌編集『雲間より』より『星と夜』加筆修正版)

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