破れたラヴレター

 大学卒業後、就職をきっかけに引っ越すことになった。地元から出てきて四年間過ごしたこのちいさなワンルームとももうさよならだ。初めての一人暮らしで、最初は慣れないことばかりだった。買い物に行かなきゃいけない、ご飯を作らなきゃいけない、ゴミ出しも自分でやらなきゃいけない。大学が始まってしまうと毎日なにかとバタバタしていた。朝ごはんも適当になってしまったり、欠いてしまうこともあった。今ではもう懐かしい思い出のひとつである。
 ある程度のものは段ボールに詰め終わった。最後に手をつけるのは、クローゼットに仕舞っているやや大きな箱。何が入っているのか、大方予想はついている。
「あ、これ懐かしい」
 手に取った写真に思わず言葉を零した。サークルの仲間と一緒にキャンプをしたときのものである。

 あの日は夏のなかでも一番暑かったと言っても過言ではないくらいだった。もう少し気温が低ければ山の上や普通のキャンプ場で出来ただろう。しかし、尋常じゃない暑さに話し合った結果、川辺でやることになったのだった。水底が見えるくらい透き通っている綺麗な川だった。すこし足を入れるだけでも涼しさを得ることが出来る。
「暑いねえ、大丈夫?」
 声をかけてくれたのは、サークル内でも一番仲の良い友人だった。肌がすこし黄金色に焼けた健康的な、グリーンのキャップと夏の日差しが似合う男の子。普段は眼鏡をかけているのだが、今日はかけていない。コンタクトにしているのかも知れない。
「うん、ここ日陰だから平気だよ」
 気を遣って声をかけてくれるところも優しくて、大学内でも人気が高い人である。彼の周りには常に誰かがいた。男女問わず仲が良く、面倒見がいいところも人気のひとつなのだろう。サークルでは中心的な役割を担っていた。
 水の流れる音を聴きながら、ふたり並んで座っていた。なにか話した方がいいのだろうか、なにか話題はないだろうか、と一生懸命に思考を巡らせる。だが、なかなか思いつかず結局沈黙が流れてしまう。でも不思議と心地よかった。会話が無くても喋らなくても、風の音や水の音、時折鳴いている鳥の声など、たくさんの自然に囲まれているだけで十分だった。
 すこし離れたところでは他のみんなが楽しげにはしゃいでいる。タープテントの下で肉や野菜を焼いたり、川遊びをしたり、自由気ままであった。
「なにか食べる?」
「うーん、今は大丈夫かな。ありがとう」
 やさしく微笑んで彼は大きく伸びをした。ぐっと両腕を空に挙げる。日も徐々に傾きはじめ、気温も日中に比べて少しずつではあったが下がってきていた。

 そんなこともあったなぁ、と写真を見つめながら回顧する。彼は今、なにをしているのだろうか。サークルは同じでも学部は違かったため、授業で合うことは少なかった。三年生にもなるとほとんど顔を合わせることもなくなり、四年生になるとお互い卒論で忙しくなりめっきり会わなくなった。時折、彼の名前を耳にすることはあった。けれどそれだけだった。
 箱のなかに入っていた思い出たちを丁寧に段ボールのなかに詰める。途中、はらりと手から封筒らしきものが落ちた。記憶にないそれを拾い上げ裏を見ると、宛名が書いてあった。――彼宛てだった。封をしていない手紙を開け、中身に目を通す。
「これって、」
 ――思い出した。
 渡そうと思って結局渡せずにいたラヴレターだった。連絡先は知っていたし、会おうと思えば会えないことはなかった。そうしなかったのは勇気がなかったからだ。いつか伝えようと思っていたらもう卒業を迎えていた。ただそれだけのこと。本当は伝えるつもりはなかったのかも知れない。今となってはどうすることもできないし、どうしたいとも思わないが。
 いつも手紙を書くとき、緊張して書き間違いをすることが多い。けれど、この手紙を見る限り修正テープの跡や消しゴムで消した跡などはひとつもなかった。何度も何度も書き直したのだろう。自分のこととは言え、彼宛てにラヴレターを書いたことなど全く覚えていなかった。おかしい話だが。封筒には宛先だけが書かれていて、自分の名前は書かれていない。大学生になってまで手紙で告白か、と、ふと苦笑してしまう。「中学生でもあるまいし」ぽつりと零れた言葉はだれもいない部屋に消えた。

「これで最後ですね」
「はい、よろしくお願いします」
 引っ越し業者の人にすべての荷物を渡し終え、長い間過ごした部屋は空っぽになった。段ボールだけ先に送ってもらうことになっていて、自分はあとから向かう予定だ。いろんな思い出が染みついた部屋に別れを告げ、鍵をかける。大家さんに挨拶をして、あらかじめ呼んでおいたタクシーに乗り込んだ。
 荷物を詰めているときに見つけた手紙は今、鞄のなかに入っている。なぜかあれだけは段ボールに入れることが出来なかった。未練がましい自分にすこし嫌になる。彼に対して、あのころに抱いていたような気持ちはもうない。もし会えたとしても戻ってくることはないだろう。みんなから好かれていて優しくて気が利いて、笑顔が似合う彼が、わたしは好きだった。過去形が正しい。好きだったのだ。
 景色がせわしなく移動する。タクシーが丁度、大きな橋を通ろうとしていたとき、わたしは窓を開けた。びゅうっと強い風が髪を揺らす。鞄から取り出した、渡せずに終わったラヴレターをびりびりに破く。「さよなら」そう呟きながら紙片を握る左手を窓の外に伸ばし、ゆっくり開いた。風に流され、ひらひらと舞い飛んでいった。幸いにもこの辺りは車通りも少ない。どうせこの紙切れも、風に吹かれてどこかへ行ってしまうことだろう。

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