私にとっての「誓」: 不可避的な葛藤をいかに処理するか

「誓(うけい)」とは、古事記や日本書紀といった日本神話に現れるモチーフの一つである。ある人が邪心を抱いているかどうか、嘘偽りがあるかどうかなどを確かめるために行われる儀式のようなもので、『もしもAならば、Xが起きる、Aでないならば、Yが起きる』とあらかじめ宣言し、現にそのどちらが起こるかによって、これを判断するという独特な方法が用いられる。
有名なのは、高天原(天上にある神々の国)の支配者である天照大御神(アマテラス)が、弟である須佐之男命(スサノオ)が突如として高天原に昇ってきたことについて、「自分が支配する高天原を奪おうとしているのではないか」という疑念を抱き、須佐之男命にそうした邪心が無いことを確認するために行われた誓である。

この「天照大御神と須佐之男命の誓」では、天照大御神と須佐之男命が互いに身につけている装飾品を交換し、これにより生まれた神の気質でもって須佐之男命に邪心があるか否かを確認した。
すなわち、須佐之男命が身につけていた装飾品を天照大御神が噛み砕くという行為により生まれた神が心優しい女神であったことをもって、須佐之男命に邪心の無いことが確認されたとしている(「我が心清く明し。故れ、我が生める子は、手弱女を得つ。」)。

須佐之男命が突如として高天原に昇ったのは、父である伊弉諾(イザナギ)から国を追放されたことを受けて、姉である天照大御神に最後の別れを告げるためである。須佐之男命は、父から「海の民」を統治せよと命令を受けたのにも関わらずこれを拒んだために、その父から「もうこの国に住んではならない」と宣告されたのである。
これに対して天照大御神は、自分が支配する高天原を弟が奪いにきたのではないかと疑い、鎧と弓矢で武装してこれを迎え、誓を行う。誓の結果、須佐之男命の潔白が証明され、天照大御神は弟を高天原へと受け入れるが、その後、須佐之男命は高天原で乱暴狼藉を働く。天照大御神は最初、弟を庇うが、度を超えた行為についに怒り、天岩戸に隠れてしまう。「八百万の神」が登場する場面として有名な「岩戸隠れ」である。

命令に背いた息子に絶縁を宣告する厳格な父、弟を疑ったものの後に認めた姉、そして、父の命令に違背しながらも、姉に一目会いたいと願い、最後はその恩に背いた身勝手な弟、こうした人間模様が豊かな表現力でもって描かれた古事記の世界は、物語としても非常におもしろいのだが、その合間に現れる「誓」を始めとする抽象化されたモチーフは、読者の想像力を掻き立て、物語に奥行きを与えるものであると言えるだろう。

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人間は、自分の求める生き方をしようとして、その結果として不可避的に人を裏切ったり、傷つけたりしてしまうことがある。自分と自分以外の他者が異なる人格を持っている以上、両者の感情においてそうした相矛盾が生ずることは止むを得ない。
だが、そうした相矛盾それ自体が自分自身にとって苦悩を生み出すものであるときに、その相矛盾を生じさせる欲求とその苦悩の間に葛藤が生まれることもまた避けられない。例えば、自分自身の生き方と、自分自身を大切にしてくれた人や、自分自身が大切に思っていた人が自分に求める何かが相容れないときなどに、こうした葛藤が生ずる。
自由に生きたいという自分自身の欲求と、相手を裏切ったり傷つけたりすることに対する後ろめたさや痛みの間に、どのようにして折り合いをつけたらよいのだろうか。

こうした問題は、日常の些細な出来事から、自分や相手の人生そのものに関わる重大な選択に至るまで、様々な場面において直面し得る。
だが、最近気づいたことがある。

例え自分の欲求の基づく選択に起因する結果について、他者との関係におけるいかなる葛藤があったとしても、それが自分自身の正直な欲求に従った選択の結果として生まれたものなのだとすれば、その選択をした自分自身において、邪な心や嘘偽りは何一つ無いはずである。その事実は、自分にとって身近な他者を、自らの判断で裏切り傷付けることによって生ずる苦悩を抱えた人生における、唯一の救いであるように私には思われた。

邪心や嘘偽りの無い選択、言うなれば打算や妥協が一切無く、自分にとって最大限の思慮を経た判断というものは、そう簡単にできるものではない。例えその判断が他者に影響を与える場面であったとしても、日常生活の一つ一つの選択においてそうした熟慮を経ることは不可能だしその必要も無い。
だが、仮に自分自身の根源的な欲求が、それを貫徹したときに、他者が抱えるこれもまた根源的な欲求と激しく対立し、そのいずれかを満足させればもう片方が満足できないという関係にあって、その相矛盾が自分自身にとって激しい苦悩をもたらすものなのだとすれば、自分と他者が抱える根源的欲求のいずれをもう一方に対して優越させるかという意思決定には、慎重にならざるを得ない。なぜなら、その意思決定に何らかの邪心や嘘偽りが入り込んでいたのだとすると、その事実は自分自身の人生に割り切ることのできない禍根を残しかねないからである。

自分自身がこれまでの人生に為した、そうした類の意思決定の当否を確認するために、私は無意識的に、自分自身のことを人に話し、文章を書くということをしてきたのだと思う。
自分自身を言葉や音楽といった情報として外部化し、人に伝えることを通じて、自分自身の考えを確かめたり、そこから得られた他者からの反応によって、またそれを反芻することができる。
そして、もしも、そうした作業を通じて何らかの居心地の悪さを感じるなら、外部化した自分自身の姿に、何らかの偽りや邪心があるということであるはずだ。

私にとって、言葉を書くことや、音楽を作ることは、そうしたことを確認することである。
したがってそれが、私にとっての「誓」なのである。

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誓 -ukei-

霞みし日々の狭間に、帰らぬ時は揺らめく
愛された思い出も薄れゆくまま、交わす言葉は無く
誓う言葉よ、遥かに煌めく地へ 心裂け、胸が焼き焦がれても

生き、捧ぐ誓いは木霊して
光溢れて、遥かな歴史が呼ぶ その声に帰る日を待ち侘びて
胸が壊れても、己は此処にいる
いつか辿り着く・・・ あの街へ

(詞・曲 中瀬光安)

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