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丁寧に粛々と与えられた人生を生きている人ほど肩身が狭く息苦しい世界

今朝何気なく目にしたふたつのニュースにもやもやした気持ちを抑えることが出来ず、書きながら自分の中に渦巻いたものを探り出したいと思って書いています。

もともと「男性に搾取されている恥ずべき職業」であった彼女たちが、セルフブランディングによって今や男性のみならず、むしろ女性に憧れられるインフルエンサー化をしており、性を売るというネガティブなイメージを払拭することに成功しているかっこいい存在になったんだよ、という話です。

確かにセクシー女優という言い方は、一昔前にアダルトビデオ女優と言われていた人たちの社会的なイメージをソフトに変えることに成功した巧みなマーケティングだとは思います。「セックス」を「セクシー」と言い換えたら社会的に「あり」となった。本当に「言葉の力」って大事です。

ここでしっかり誤解を受けないようお伝えしたいのは、私がもやもやした理由は、2人の娘を持つ母として、娘が憧れたらどうしようなどと言う教育論でもなければ、「そもそもセクシー女優などに憧れるなんてありえん、けしからん」などと言う時代錯誤な道徳観ではありません。ここは彼女たちが女性であるとか、セクシー女優とか、職業のことを言いたいのでもありません。YoutuberやInstagramerやTikTokerに憧れるこどもたちが世界中にいる世の中です。仕事柄、インフルエンサーという人たちがどんなに日々の努力を重ねているかも知っています。それを否定する気持ちはありません。どんな業界でもそうですが「トップ」と呼ばれる一握りの人たちは、尋常でない努力を重ねて「頑張っている」ものです。

そして、もうひとつもやもやしたニュースはこちら。

賛否両論が巻き起こっているというCMですが、当然このCMを企画したチームの方は、そんなことも狙って時代の空気を読み取って打ち出したわけです。

「がんばるのはあたりまえ」という価値観の社会だったら、今回のCMはもっと強く批判されていたと思いますし、逆に「がんばらなくてもいいよね」という価値観が浸透しきった後なら、反対意見もほとんど出ないですよね。社会の変化を読み取りつつ、その変化をリードしていくために積極的なメッセージを出す以上、ある程度のご意見をいただくことは当然と考えています。

私が子供の頃、「24時間戦えますか」というCMが流れていた時からとんでもなく時代が変わったのはもちろん、たった7年前まで自分たちの言えない鬱憤の代弁者として共感と支持を得ていた半沢直樹が、シーズン2になったら「なんでこの人会社にしがみついてるの(笑)」という冷めた距離感も生まれたというくらい急速に変化したのが今の日本です。

とはいえ時代の急速な変化についてこれない社会の仕組みもあって、その狭間にいる人たちが「エッセンシャルワーカー」の方々でもあり、その方たちが不快に思うのではないか... という否定的な意見も納得できます。

もちろん、みんなが「無理せず」「楽しんで好きなことを仕事に」と言う生き方を選ぶ人が増えることは個人的に悪いこととは思いません。「セクシー女優」のみなさんに憧れが集まるのもこの流れですよね。そして自分の好きなことを、わくわくと楽しく邁進していると「人生の成功」が訪れるというのもよく目にする自己啓発本の常套句です。

でも「がんばらなくていい」という言葉が、ライフシフトのきっかけになる人はそんなにいないのではないでしょうか。がんばり続けて張り裂けそうな人に「そんながんばんなくても...」と言えば戸惑いこそすれ、気休めにもならず、その言葉で本当に救われるのか疑問です。むしろ「よく頑張ってるよね」と言われてほろりと涙をこぼす人の方が多い気がします。

いったい「頑張る(がんばる)」ってどんな意味なのでしょうか

「がんばる」は江戸時代から見られる言葉で、当て字だそうで、語源は、二通りの説があるそうです。

 ひとつは「眼張る(がんはる)」が転じて「頑張る」になったとする説で、「目をつける」や「見張る」といった意味から「一定の場所から動かない」という意味に転じ、さらに転じて現在の意味になったとする説。もうひとつは自分の考えを押し通して「我を張る」から来たという説。東北の方言では「けっぱる=気張る」、「じょっぱり=情張り」と言う。

いずれにせよ、本来の「がんばる」とは精一杯その場に踏ん張って自分の持てる力を発揮して、自分の考えを曲げずにものごとを成し遂げるというような意味です。

だからそんな風に本当の意味でがんばっている人というのは、ぎりぎりの状態で踏ん張っているので「がんばらないで良いんだよ」と言っても拍子抜けですし、他人の一言で自分の信念を曲げるとは思えません。

こんなことを考えているときに、この方の言葉を読みました。

頑張るということは、実は自己中心的になるということです。... 自分を押し通す、それが頑張るということです。競争し、自分の利益を優先させることが頑張ることなのです。
私が子どもの頃は「あの人、頑張ってはるなぁ」というのは、軽蔑の意味を込めて言われたものです。「もっとおとなしく温和になればいいのに」という意味でした。それがいつの間にか「頑張る」が美辞になってしまいました。おかしいですね。

ちょっと混乱してきました

がんばっている人は軽蔑されていた?

この方は1936年生まれということですから、第二次世界大戦の前で国防国家建設の名のもとに、急速に軍事化への道をたどった頃の生まれです。

そんな時代であれば自己の利益を追求することは国家にとって当然都合が悪いので、みんなの和を乱さず、大人しく(温和に)従うのが美徳とされたことは想像できます。それでも江戸時代から使われている「がんばる」という言葉への美辞がなくならなかったので、いつの間にか自分を殺して従うこという意味にすり替えられられたのではないでしょうか。

言葉をすり替えるなんてそうそう出来るもんではないと思われる方もいるかもしれませんが、現代でも「セックス」を「セクシー」に変えるだけで印象操作が行われているように、言葉はゆっくりと確実に教育やマスコミで流され続けるうちに社会に都合の良いように思考を変えてしまうのです。ですから語源を辿ったり調べることは本当に大切です。

言葉を取り戻すということ

寝ないで徹夜で求められるままに働くこと、子供のためと自分を殺して夫の浮気に耐えること。自分のやりたいことを我慢して、親が望む出世を叶えること。

これは昭和に生まれた「がんばる」の概念。このようなことが美徳とされて来た社会は音を立てて変わりつつあります。

一方で、江戸時代からつづく「がんばる」という概念も続いています。

例えば福島で震災の被害となった方々のことを思い浮かべます。様々な理由で土地を離れることが出来なかった人、10年近くがたった今、避難解除がされたものの不安を抱えながらも自分の生まれ育った所で生きていこうとする方々は本当の意味でがんばる人たちではないでしょうか。

また地域の中で自分の信念を曲げずに忖度しない人は、和を乱す人とつまはじきにされる社会の中で息を潜めてひっそりと無言で耐えているひとたちもがんばっている人ではないでしょうか。

そして、もうひとつの考えさせられる言葉があります。

「成功する」

という言葉の語源です。

成功とはもともとは公事を勤めて功をなすの意味。平安時代以降、私財を朝廷に献じて造営・大礼などの費用を助けたものが任官、叙位されること。朝廷の行った売官の一種。

ちょっとびっくりですが、ようはお金のちからでインスタントに世間に名が知られる身分になったりすること。お金をかけて本来の自分には見合わない無理をすること、とも言えるかもしれません。

資本主義社会が成熟し、現代の社会に蔓延るインフルエンサーと呼ばれる人たちが体現している「成功」のイメージって正にこのことではないでしょうか。

全てのインフルエンサーがとは言いませんが、自分を偽ること、お金があるように見せること、本来の魅力とかけ離れた整形・虚言・見せかけのラグジュアリー。そんなことの積み重ねで「成功」を目指さしていると本来の幸せとかけ離れていきますし、何より自分も辛くなってきます。

お金は本来ならば、自分の徳や社会に与える価値や成し遂げなければならないことの規模に応じて集まったり、預かったり、自身の信念に沿って使うべきものでその大小はその人の器ですよね。人に見せびらかすために身の丈以上に使ったり、溜め込んだり。今の世界はお金を持っていると、お金がお金に集まるような仕組みになってしまっているので、その人の本当の価値=お金となっていないのが難しい問題です。

もちろんお金は大切です。地方に行くと、清貧の思想が根強く「あの人はお金を儲けている」と思われたくないという恐れが残っていることを感じます。受け取るべきお金も受け取れず、辞退するようなことが美徳とされたりして、本当の意味でがんばっている人ほど搾取されてしまいます。自分の価値に適正な金額をつけるのがとても苦手な方が多いです。これもまた、長年に渡る教育や世論の結果ではないでしょうか。もちろん足るを知ることは大事ですが、「足るを知る」とは、自然界や宇宙から全てすでに与えられて持っていることを知るという意味ですから、毎日の暮らしの中で使う言葉ですが、清貧というのは(まだちゃんと調べられていませんが)世俗を捨てて宗教の道に入るような人たちの言葉なのではないかと思います。

でもひとつ言える事実は、世界中の宗教家が警告しているように

本当に言葉が現実をつくるのです。            

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。            言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

仕事で日本各地の農家さんやものづくりに生きている方々にお会いするのですが、たまに素晴らしい出会いに恵まれます。そういう方は燃えるような情熱や闘魂を持っていながら、自分自身は何もしてないと謙虚に感謝し、何かを成し遂げようとする強さはあってもエゴがなく、控え目だけど芯があって、丁寧におだやかに生きています。ご高齢の方も多いですが、もちろん年齢や職業は関係なく、そういう方に会うとお話しているだけで、なぜかありがたい気持ちが湧いて来ます。

(もちろん日本人だけでなく外国人にもそのような方はいますし、経済的にも恵まれた大企業の経営者の方や大学の先生などにもこのような方はおられます)

そういう方は日々の中で幸せを見つけ出すのが上手なので、自分のやってきたことに誇りを持っていて大概は生き生きとしてエネルギーに満ちて幸せそうです。

でも社会的な価値観の変化や過疎化などで孤立したり高齢になることで自信喪失に陥ったり、自分のやってきたことの価値を見失ったりしてしまいがちです。それでも誰にも文句を言わずひっそりと暮らしているような忍耐強い人たち。そんな世代を見ていると、その次の世代は益々世間一般の成功を目指すべきだという空気に飲み込まれ、もはやその土地に踏ん張って「がんばる」こともままならなくなってしまいます。

資本主義の世界ではたくさんのインスタントな成功方法があります。IPO、金融商品、広告収益、そして出会い系まで。短い期間で莫大に儲けることが出来ます。それを成功という世の中では、積み重ねていく丁寧な生き方を続け、小さくても経済的に着実に成長に恵まれるという生き方はよっぽど信念がなけば難しい社会です。なぜなら多くの人が即成果が出る、わかりやすく儲かることをやっている人しか理解しない、応援しない世の中になっているからです。

誰に認められなくても先を見据えて自分の生き方に信念を持って生きている人にとって、経済的な成功は結果として起きても目指すものではないのです。それを「青臭い」という言葉や「理想主義」という言葉で封じ込めてしまう。

だから余計に自分のペースで着実に一生をかけてゆっくりと成し遂げたいことのために進んでいる人の声や姿は目に見えずらい世の中になっていっています。そのような人たちの価値はインスタントに成功を目指す人と、収入や売り上げや社会での知名度などの指標で簡単に比較されたり軽んじられるべきではありません。

もちろん毎日本当に幸せで、色々な役に立つ情報や美しい時間をおすそ分けしてくれるようなインフルエンサーだっているでしょう。でも最初はそうでも、もっと自分の影響力を伸ばそうと他人の欲望に応えようと無理を重ねれば幸せな人生どころか、お金はあっても同じように息苦しい世界に突入してしまいます。虚構を生きる、自分自身を生きれないという環境ほど人を孤独に落とし入れて蝕むものはないのではないでしょうか。

そういう怖さを理解して、それでも若い人たちが支持するのであれば良いのです。がんばるのを辞めるのも良いことです。でも世間でよしとされている価値観に飲み込まれて、たくさんの別の価値観や生き方を否定しないでほしい。私のもやもやの根源はそんなことにあったように思います。

「XXの仕事はかっこいい」「お金があればなんでもできる」という、成功者セントリックで華やかな生き方の展示会のようなソーシャルメディアだけではなく、もっと深く子供達に生き方のバリエーションを見せてあげられるような手段(マスメディアではなく)を作り出さないと、これからもずっとトレンドや誰かの意見を追いかけ、目指すべき生き方がわからない若者を大量に生み出してしまいます。

そして息苦しい社会をつくりだしているのは、私たちの使う言葉だということ。その言葉は教育と情報によって植え付けられます。言葉が社会を、現実を、そして未来を作り出します。だからニュースを見てもCMを見ても、溢れる言葉や情報に振り回されず自分の頭で咀嚼できる人間になるにはどうしたら良いのか、「成功」という言葉以外の人生で成し遂げるべきオプションはどんなことなのか。もし共感することがあれば一緒に考えていきませんか。私的な長文を最後まで読んでくださりありがとうございます。










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