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「告発シベリア抑留」を読んで ①

発行:碧天舎(2004年)   著者:松本 宏

2022年2月に、ロシアのウクライナへの特殊作戦が開始されて以来、    主要メディアは、悉く、ロシアに関する捏造報道を繰り返し、           ロシア=極悪非道の情報操作を延々と続けている。           そんな状況のなか、当然ロシア(or ソビエト連邦→以下 ソ連)に関わる 過去の恨み辛みを焚きつけるような情報も益々流布されるようになっていく。          そのような怨嗟のもとになっている出来事のひとつとしてあげられるのが      日本人捕虜(実は、この捕虜という概念が印象操作に利用されていると言えるのだが→続編参照)のシベリア抑留という悲劇である。             歴史は後世の人間が記述し、語り、人々の記憶の中に残されていくが、  そうであれば、意図的に歴史の真相を変えてしまうこともできてしまう。                   そのような情報操作や歴史の書き換えは、遙か昔から行われてきたわけだが、まさに今、世界情勢を鑑みれば、いかに強大な経済力・軍事力を持つ側に都合が良い情報ばかりが喧伝され、いかに真相・真実が覆い隠され、  捻じ曲げられてきた(捻じ曲げられている)かということを痛感する。             今、世の中に溢れかえる情報や歴史認識は信用に足るものといえるのか?    正統派と言われる歴史観・歴史認識に矛盾=つまり誤りはないのか?    真実は?真相は? それを知りたい。                 

そんな思いに駆られて、松本宏氏の「告発 シベリア抑留」を読んだ。


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著者の松本宏氏は、1917年に群馬県に生まれ、京都帝国大学法学部を卒業後 三菱商事に入社し大連支店勤務、1943年に東京本店に転勤となった後、  1944年9月に陸軍相模原電信隊に召集され、北満州孫呉にあった電信第八 連隊に入隊。その後、経理将校を養成する経理学校に所属。終戦を迎える。そして、吉林省の収容所に収容された後、1945年9月中頃、いわゆるシベリア抑留生活が始まった。                          松本氏は、一車両に約1000人の編成で、満州の北端、黒河から西へ向かい、チタ近郊の農村の収容所に収容され、農園の手伝い、道路工事、製材工場や製粉工場の手伝いに従事。その後鉄道工場内の収容所に移り、客車の塗装、倉庫整理、農作業、旋盤工などの労働をした後、11月にはハラショウラボ ート(よく働く労働者)として解放され、帰国の途につき、翌年5月に舞鶴港に帰着。

その松本氏が、帰国後に紆余曲折ののち、シベリア抑留から帰還した人々に対する日本政府の冷たい仕打ちに憤りを感じ「シベリア抑留に関して、国が賠償責任を果たさないのは、国民に対する不法行為であるから、国による 損害賠償を要求する」として、平成11年6月に大阪地方裁判所に控訴するも、平成14年6月に控訴棄却となる。その裁判の経緯や松本氏の主張、国の主張については、是非この本を読んで理解を深めることをお勧めするが、 もう一方で、私はこの本の中に非常に重要な問題点が記述されていることに気がついた。                            そしてその重要事項とは、ソ連が日ソ不可侵条約を突如破棄し、1945年8月8日に、日本に宣戦布告し満州に攻め込んだうえに、終戦直後、日本人捕虜(実は捕虜とは言えない→詳細は後述)約60万人をシベリアへ強制連行し、過酷な労働に従事させた結果、6万人もの死者を出したという歴史認識は全く誤認されているということだ。

松本氏は「シベリア抑留はどうして起こったか、それを知らないまま死ぬのは嫌だ」「シベリアから帰ってみれば、待っていたのは、政府から全く真実を隠され、国から一言の挨拶も無く且つ1円の給付もなく、このまま死んでしまうような状況・・・」に対して沈黙していられずに、80歳を過ぎた高齢にもかかわらず一念発起し、様々な資料を調べ考察し、裁判に挑み、その結果を纏めた2冊の書籍 (告発シベリア抑留・真相シベリア抑留)を著した。   その様々な資料とご自身の体験や考察を読み、松本氏ご自身がお気づきになった事実や推測を踏まえれば、さらにシベリア抑留』の背景にある、ある世界規模の思惑が透けて見えてくる。(これについては、続編参照)


国民に隠された真相

松本氏の心の中にある一番強い思いは、シベリア抑留は日本政府(大本営)の失態(私はこれは失態ではなく故意によるものだと考える)により生じた大悲劇であるのにシベリア抑留者は国から蔑にされ労いもなく、うち捨てられていることへの憤りだ。そう、しばしば教育現場や主要メディア等で、強調されている「ソ連の極悪非道な行い」への憤りではないのである。

松本氏はシベリア抑留問題の根源を探求しようと多くの資料を探っていくなかで、シベリア抑留という悲劇的な出来事が生じた原因や経緯についての直接的な証拠は何もないと気がついた。そしてそれは、日本軍では敗戦に際し、重要書類はすべて焼き捨てよとの命令が出て、シベリア抑留に関係する書類もすべて焼き捨ててしまっていたということを意味すると推測している。 松本氏は「国民60万人にも上る大事な事柄なので通常ならとっておくべきところ誰にも見せたくなかったので総て焼いてしまった。しかしいくら秘密といっても100%というのは異常である。」と述べているが、それだけ 徹底した証拠隠滅というのであれば、その裏に大きな目的があるように私には感じられる。 松本氏が感じ取ったように、確かに日本政府は、国民に重大な事実を隠蔽したし、そして現在も完全に隠蔽しようとしているという印象をうける。

その松本氏が見いだした、数々の資料や当時の事実についての考察を読んでいくうちに、私が最も知りたいと思っていた事実が見つかった。     そう、それは、シベリア抑留は、スターリンの日本に対する思惑の突如とした豹変による、冷酷極まりない強制連行などではなかったということだ。 そして、そのような事実を捻じ曲げた印象操作をした背景には、2022年10月の今現在も、日本を含む西側の主要メディアが執拗に繰り返し続けている ロシアへの事実無根な中傷や罪のなすりつけ、名誉毀損といった悪意溢れる報道姿勢の背後にある思惑と同様のものがあると推測できる。      つまり、そのような事実隠蔽や事実の歪曲は、ロシアを貶め、ロシアという国家を破滅に導くための情報煽動を目的としたもので、ロシアの愛国的指導者が、自国を防衛する為の愛国的行動を妨害する手段のひとつであるという点で共通しているとえるのだ。そして、それは東欧地域や極東地域の協調や融和を破壊し、ロシアに対する憎悪や緊張を高めようという印象操作のひとつとしてしかか思えない。

85歳の松本氏は、著書の中で繰り返し繰り返し、読者に訴えかける。           「日本政府(国)は自らの重大な失態のせいで、60万余の国民をシベリアの 極寒の地の過酷な労働に追いやり6万人もの死者を出したくせに、その間何の配慮もしなかった。そして抑留帰国者に対しても、何の慰労も補償もないという冷酷無慈悲な対応をとり続けている。そんな仕打ちは何としても受け入れられない」と。


シベリア抑留は敗戦国の労働力賠償

松本氏は、様々な視点から総合的に考えて、シベリア抑留は以下のような 認識のもとに行われた戦後の労働賠償だったと主張している。      

●日本政府が、ポツダム宣言を遵守して無条件降伏した結果、関東軍等将兵は、連合国最高司令官の指示に基づく天皇の命令により、連合軍傘下のソ連軍に投降した。つまり、関東軍等将兵は帰国のために収容所にいたわけで国際法上の捕虜ではない。(国際法上の捕虜とは「戦争ないし武力闘争において、敵に捕らえられた戦闘員」でありシベリア抑留者は、天皇の命令に従い自ら投降して待機していた人員だった。)

1945年2月4日に、クリミアで開催された英米ソの3首によるヤルタ会談での決定事項は                           ①2月11日付のコミュニケ                      ②ソ連の対日参戦に対する協定(ヤルタ秘密協定)            ③クリミヤ会談の議事に関する議定書(ヤルタ協定全文)        であるが、                             このうちの③のなかに、Ⅴ. 賠償という項目がある。そして、その項目の中に、『2、(e) ドイツの労働力の使用 』という記載がある。           つまり敗戦国が負うべき賠償の中に、敗戦国の国民の労働力を賠償に当てるという取り決めがあり、その時点ではドイツに対する賠償を意味しているが、その後の日本の戦況を考慮すれば、終戦前の時点ですでに、同じ敗戦国として、当然労働賠償を負わされるものとして認識できる筈だった。(つまり、やがて通達されるであろう労働力賠償について準備しておくべきだったのに、日本政府は何の準備や計画も行なわないまま、ポツダム宣言を受諾した。)                    

●1945年10月の産経新聞特集記事の中にある             「1945年8月23日付、国防委員会決定に基づくスターリンの秘密指令」という命令書の内容は、「ソ連内務人民委員部のベリヤ、クリベンコ両同志に対し50万人以内の日本人捕虜の受け入れ、捕虜収容所への移送の責務を与える」との言葉から始まり、捕虜大隊の組織・衣服や食料・必要列車・捕虜の警備 等のすべての業務を規定し、捕虜の労働現場として10地域に分け、さらにそれを数カ所に区分している等、これは短時日でできたものではなく相当以前から検討されていたと思われる。 つまり、これは「シベリア抑留の始め」ではなく、「シベリア抑留実施の命令」であって、相当前から入念に計画された労務賠償の計画書だ。巷では、北北海道占領が拒否されたので、シベリア抑留が決定されたという説もあるが、トルーマンによる北北海道占領案の拒否からシベリア抑留実施までには、そのような入念な計画を立てる時間はなかったわけで、そのような理屈には無理がある。そして、その期間の出来事を時系列に並べると                                 ①8月15日:日本が連合軍に降伏を通知                    ②8月19日~8月20日:日本代表がマニラの連合国司令部を訪問し、降伏に関する一切の書類を受け取る。                   ③8月23日:スターリンの指令書が発布される。            ④9月2日:ミズリー号艦上で日本の降伏文書の調印式。同日、シベリア抑留の為の人員の移送開始。                      というように、ソ連は、連合国総司令部の行動に従ってタイミングを計り、連合国軍総司令部の傘下のソ連軍として、日本に通達している。     さらに、ソ連国防委員会が労務者受け入れ決定した結果として、1945年8月23日に日本から提供を受けるべき労働適格者の配置命令を出し、そこでは「シベリアでの労働に肉体面で適する人員を50万人選び出し、その人員のシベリアへの移送を命じている」のだ。 ところが、あろうことか日本政府はその命令に従わず9月2日を迎えてしまい、とうとう労働力の取り立てが始まってしまい、労働への適正を無視した「根こそぎ動員」が行われ、障害者や病弱者、中高年の人々までが移送されてしまったのだ。当然、移送された人々は、自分たちがどういう立場で、これからどういう扱いをされるのか何も知らされないままに移送され、抑留されてしまったのである。日本政府の無策のせいで、過酷な労働に耐えられない人々が混在していたわけで、弱者から命を落としていくということになり、悲劇が大増幅されたのだ。


注目すべき点

これまで述べてきたように、松本氏の著書を読んで、シベリア抑留について、従来の正史とされる歴史認識と事実には、大きな隔たりがあることを痛感した。そして、ここで最後に重要な視点を付け加えたい。

というのは、シベリア抑留について語られるとき、ソ連が意図的に冷酷な仕打ちを行った結果「飢えと寒さ」や「過酷な労働」に苛まれ、抑留者の悲劇に繋がったような扱いをされているが、当時のソ連は、戦勝国ではあるが、その想像を絶する戦争被害は無視されがちだ。しかし、下図のように、ソ連の戦争被害は、あまりにも甚大だ。

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松本氏も「我々がソ連に入った時は民衆の状況は日本内地よりひどく、衣料はボロボロで飢えに飢えていたようであった。」と述べている。そのような状態で、シベリア抑留者にだけ厚遇を与えるのはどう考えても無理だろう。飢えや寒さのなかで、ソ連国民も同様の悲劇の中で生活していたことを無視してはならない。それなのに、松本氏への最高裁判決のなかにも(続編参照)、日本政府の失態や悲劇を増幅させた責任は棚に上げ、ソ連に対してのみ悪意に満ちあふれた表現で、悲劇の全責任を押しつける態度は、許しがたい。

また、抑留中の悲劇の中には、多分に日本人内での軍隊特有の虐めがはびこっていたという。それによる悲劇こそ重大だ。それについては、続編で考察したい。


以上が、松本氏の著書「告発 シベリア抑留」の概要と、読了後の私の意見となるのだが、実は、まだまだ問題提起した内容が多々ある。それらは、改めて、続編に纏めようと考えている。



①江藤淳編「占領史録」講談社学術文庫                ②昭和20年10月17日付け 朝日新聞、毎日新聞、日本産業経済新聞     ③陸軍省報告集                           ④ポツダム宣言                           ⑥平和条約(相手国四十五ヵ国)                          ⑦江藤淳著「占領軍の検閲と戦後日本」文春文庫            ⑧アルチュル・コント著「ヤルタ会談・世界の分割」 サイマル出版会           ⑨佐藤幸治著「憲法」                         ⑩「国際条約集」有斐閣  






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