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根深い感情のもつれ。解いてくれたのは母の認知でした。

人は、生きているなかで、他の人とさまざまな関係性を作りあげます。

その関係性のなかでさまざまなことが起き、さまざまなことを学んでいます。

とりわけ、肉親との関係性は、それはそれは深い学びの場をくれる。

まさに今、そんなことを体感しています。


母の異変


2〜3年前から、東京で、独り暮らしをしている母に異変が出始めていました。

認知症です。

当時、社会人になりたての娘が母の元に下宿しながら通勤をしていたので、なんとなくの様子は聞いていました。

「ばぁば、ちょっとおかしいよ?」

私はたまに母に電話をして、

「ごはん食べてる?」
「今日は何したの?」
「また電話するね」

という、ほとんど決まった内容の会話をする日々。

いずれ来る「その日」に重圧を感じながら、聞きたくない言葉を聞かなくて済むように、会話を切り上げできたのです。

私にとって、母から聞きたくない言葉。

それは、

「寂しい」

という言葉でした。


「寂しい」の呪縛


6年前、父が他界しました。

亡くなる数年前から病気で、最後のほうは、母はほぼ24時間ずっと父と一緒の生活。

「お父さんの世話が大変」と四六時中文句を言い、父の前でも平気でひどい言葉を言っていたので、父の他界に対してはそれほどダメージを感じないのではないか、と思っていたのですが。

ぽっかり穴が空いたのですね。

毎日のように電話をかけてきては「寂しい」と言うのです。

はっきり「一緒に住んでほしい」とは言いませんでしたが、

「私の年齢の人たちはみんな、子どもたちと住んでいる。ひとりで住んでいるのは私くらいのものだ」

そんなことを、毎日、何度も何度も言ってくる。

もともとかなり毒舌な母は、しまいには、私のしていることや、住んでいるところなどに対しても辛辣な言葉を言うようになってきました。

母からの電話に出るのが本当に嫌で嫌で、最後のほうは、突き放すようなことも言いました。

「お母さんにはお母さんの人生がある。
私には私の人生がある。
どんなに寂しくても、その寂しさに自分で向き合わない限り、外にいくら求めても、たとえ私が一緒に住んだとしても、消えることはないんだよ」

要は、

「その寂しさ、自分でなんとかしてよ」

そう言い放ったようなものです。

それからは、母とは距離を置くようになりました。

東京と淡路島という物理的な距離に加え、心の距離も。

社会情勢の影響で帰省できないことも、私にとってはある意味、好都合だったのだと思います。

同時に、私の中で〝罪悪感〟がどんどん膨れ上がっていきました。

「親不孝者」
「冷たい娘」
「自分のことしか考えていない」
「問題を先延ばしして逃げている」

膨れ上がる罪悪感から逃れるために、さらに母との心の距離を広げていくという悪循環の日々。


「寂しい」が混ざり合う


3月。そんな居心地の悪い平衡状態がにわかに崩れ始めました。

母の住む地域の包括センターの方から連絡をいただき、思っていた以上に母の認知が進んでいたという事実を突きつけられたのです。

「いよいよその時が来たか」という気持ちもありましたが、正直に言ってしまえば、「めんどうだな」のほうが優っていたかもしれません。

娘としての〝義務〟で、コトにあたっていくしかない。

たぶん、そんなふうに思っていたのだと思います。

その後、地域包括センターの方やデイケアの方々に本当に良くしていただいたおかげで、今できることや、今後の方向性について落ち着いて考える〝時間〟をいただくことができました。

帰省する日を決め、それまで粛々と準備をしてきたなかで、この〝時間〟は、私に大きな変容を起こすための時間だったのだと、今ははっきりわかります。

ふとした瞬間に、これまでブロックしていた母の「寂しさ」が自分のなかにドッと流れ込んできて、私の奥深くに眠らせていた「私の寂しさ」と一体化していったのです。

母が訴えていた「寂しい」は、私の「寂しい」でもあった、ということです。


幼少のころの欠けた記憶


私は、6歳になってすぐの頃、当時3歳だった弟を病気で亡くしています。

弟は先天性の病でした。

生まれてすぐから入退院を繰り返した弟のために、私は東京から遠く、岡山の親戚の家に預けられることも多かったようです。

日常でもきっと、弟優先になることが多々あったのだと想像します。

そして、子どもの頃からあまり感情を外に出さずに周囲を観察するようなところがあったと聞くので、両親の大変な様子を見て、自分を抑える術を身につけていったのかもしれません。

残念なことに、私のなかで弟の記憶はほとんどなく、幼少の頃の記憶全体もほぼありません。

弟のお葬式のワンシーンのみ、なんとなく覚えている程度です。

ですので、覚えてはいないのですが、流れ込んできた母の「寂しさ」が、「その頃の私の寂しさ」だと、ありありと感じることができたのです。

部屋で掃除機をかけている時。

湯船につかっている時。

夜眠りにつく時。

ふとした時に流れ込んできては、一つになって、ただ静かに涙となって私の中から出てくるのです。

そして気づきました。

母への突き放すような気持ちや態度は、当時の寂しかった私がしている、母への小さな仕返しだったのだと。

もちろん、母は母なりの愛情を注いで私を育ててくれました。

うれしかったことや楽しかったことはたくさんある…むしろ、大切に育ててもらったという感覚すらあります。

でも、幼かった私の中には、「もっと愛が欲しい」「自分だけを見てほしい」「寂しいよ」という、無条件で湧き出てくる感情があった。

時を経て、その感情がねじれて、すっかりすねてしまっていたのですね。

このことに気づいたら、疎ましくさえ思っていた母の状態が、何のひっかかりもなく受け入れられるようになっていました。

そして心から、母のために何かをしたいと思っている自分がいました。

さらにいまは、「いずれは、母の生まれ故郷の徳島で、母に合う施設を探して入居してもらおう」という考えから、「淡路島で施設を探そう。そうすれば、いつでもすぐに会えるから」という考えに変わってきています。

「会いたい」と思うようになるなんて、
「何かをしてあげたい」と思うようになるなんて、
夢にも思いませんでした。

私の外側の世界は何も変わっていない。

変わったのは、私のなかだけ。

私のなかにあった大きな大きな塊が溶けて、視界がひらけ、世界がさらに澄んで見えます。


大変な現実が愛おしさに変わるとき


昨日から、東京に戻り母と過ごしています。

さっき言ったことも、すぐに忘れてしまう。
同じものばかり買ってきてしまう。
きれい好きで片付け上手だったのに、散らかり放題の部屋。
以前の嗜好からは考えられないような、偏った食生活。
子どものような感情表現。

驚くことの連続ですが、どの母もとても愛おしく感じます。

なにより、そんな自分に、自分が一番驚いています。

今日は2人でたくさん歩いて、そこかしこで咲いている満開の桜を愛でました。

夕飯後は、ケーキを食べて、1週間早い母の誕生日会も。

2人だけのささやかな誕生日会。

私も子どものように、大きな声で、「ハッピーバースデートゥーユー♪」と歌って。

明日は母とどんな景色が見られるのでしょう。

すばらしい時間をありがとう。

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