モノを生み出す人として
うすはりのグラスに氷を入れると、いつも聞こえてくる軽やかなカランカランという音は聞こえない。
うすはりのグラスに氷を入れるとカランカランという音ではなく、鈍いコッ、コツッ、のような音が聞こえてくる。
手に伝わる氷の振動をダイレクトに感じて、今にもそのグラスにヒビを入れないか不安にもなる。
氷を入れたうすはりのグラスは、いつもの分厚いグラスより冷たさを直に感じる。手と氷との距離が近く、よりその物質を近くに感じる。だから特別なの時にそのグラスで飲むと格別になる。
そんなうすはりのグラスを知ったのは小学生低学年の頃。母が嬉しそうに僕に見慣れないコップにオレンジジュース入れてくれて、「飲んでみて」と嬉しそうに言ったのを覚えてる。
僕がまだ幼くて道具に関心や興味がない頃だったけど、初めてうすはりのグラスで飲むオレンジジュースがすごくおいしかったことを覚えてる。いつも飲んでるオレンジジュースがすごく特別に感じた。
そんな幼い頃の体験の蓄積が美しい道具を生み出す1つの原動力なんだと、いまデザイナーとして生きていてとても感じる。
川で釣りをして透明な水の日は釣れなかったけど雨の日の後の濁った川だと簡単に釣れたり、初めて友達に借りたキーパーグローブが鼻がもげるくらい臭かったり、公園にあるイチョウの染まった葉が綺麗だったり、遅く帰った日の橋の下に蛍が静かに光ってたり、そんな体験が今の自分を作って、誰かが使う道具のを生み出しているんだと。
デザイナーとして仕事をして時間が経って数年前にやった自分の仕事が幼く見えることもある。数年間で自分のいい方向に見方が変わったことよりも、その頃の曖昧な実力で中途半端なものをこの世に生み出して誰かの生活の中にいると思うと間違ってるんじゃないかと感じることもある。
100均で買った物でもいいし、1000円の物でも機能は大きく変わらない。
でもこだわりのある人が1000円払って、自分が関わった物を購入して、その人の生活に溶け込み少しでも生活を豊かにしてるのであれば、間違ってはいないんじゃないかとも思う、、
学生の頃から結局デザインって分からない。分かってるけど分からない。商業であるんだけど商業だけじゃない。
ずっと美しいか、なにが良いのか、誰が喜ぶのか、本当に作っていいのか、それを使うとどうなるのか、どれだけ使えるのか、わかりやすいか、、、、考えることはまだまだたくさんある。
考えることをやめたくない。やめない。
モノを生み出す人として。
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