不死は幸せか?

はいどうもこんにちは。
うじまるです。

前回は死の何が悪いのかというと、死ぬことでその後経験できるはずだったことや得ることが出来たはずの価値を剝奪されるからという事でした。

そこでじゃあ「不死になったら幸せなのか?」
というのが前回挙げた議題でしたね。

まぁ不死というのは今は現実的ではないので考える必要はないかと思いますが、将来記憶や感情がデータ化されて身体を入れ替えれば実質の不死ができあがるみたいなSFじみたことが可能になる日が来るかもしれません。

それらの話は冗談にしても不死ではない私たちが限られた時間でどう生きるかを考えるきっかけになる事はあるかもしれません。

興味のある方はぜひ読み進めて頂ければと思います。
それでは始めていきましょう!

不死は幸せか?

前回も質問しましたが、皆さんは自分が不死になったら幸せになれると思いますか?その際体はいつまでも健全でやりたいことは基本何でもできるとします。

剝奪説から考えると、良いことである価値や経験、感動の機会を失うことはありません。考えうるすべての良いことを得るのも時間の問題と言えるでしょう。
その反面、悪いことである痛みや苦悩なども同時に享受することになりますが。

どうでしょうか?
個人的にはそのうちこんな感じになっちゃうんじゃないかなぁとは思います笑(知らない方はすいません)

宇宙空間に投げ出されてよくわかんない生命体になるとかではなく、人間性をいつか失ってしまうのではないか?ということです。

確かに良いと考えられることは数限りなく存在するでしょう。
映画を見たり、海外に旅行に行ったり音楽を始めてみたりと挙げればきりがありません。

しかし、それらをすべてやり切ったらその後どうすれば良いのでしょう?
時代の変化に伴って良いことも変化したり増えていくことは考えられますが、それこそ時間の問題でいつかは享受できる良いことは枯渇していくのではないでしょうか?

さてそうなった人間がとる行動はどうなるのでしょうか?
私だったら良いことを経験してもやがて退屈に悩まされるならもう良いことにも興味を示せなくなると思います。

最終的には人間の姿をしていても人間とは言えない何かになってそうです。

もちろん良いことを探求し続けて地球が滅ぶまで人生を謳歌しようとする方もいるかもしれませんのであくまでも一個人としての意見です。

私の意見が一理あるのだとすれば、死による剝奪というのは救済となりえるのかもしれませんね。
この先良いことを享受できないのであれば、私なら生きていたくありません。

ただ冒頭にも述べましたが、私たち普通の人間は生きられる時間が限られています。
不死は必要ないにしてももっと長く生きられたらと思うことはあるでしょう。

なので私たちにとって「死は悪い」というのは免れられない真実なのかもしれません。
だからこそ自分がどう生きたいのかを考えなきゃなと思うようになりました。

答えは全然出てこないんですけどね。

「人生は一度きりなんだから楽しまなきゃ損だ」という言葉をよく耳にしてきましたが、はっきり言ってこの言葉が好きではありませんでした。
お前は快楽に溺れたいだけだろうが!良いこと言った雰囲気醸し出してんじゃあねぇぜ!と言わんばかりにこの言葉が嫌でした笑

ただ最近は解釈の問題だなと感じるようになりました。
明らかに軽薄そうな人がいった場合は先ほどの言葉を投げつけてやりたくなりますけど、なにか目標に向かって楽しんでいる人、アニメや漫画、ゲームが好きな人、趣味に没頭している人、寝るのが好きな人など人生の楽しみ方は多種多様です。

そう考えると明らかに軽薄そうな人を非難するのもお門違いですね。その人はその人なりの人生を楽しんでいるのだから。
嫌気がさしていたのはそれを押し付けられていると自分が勝手に思っていたからなんですよね。

と話が少し逸れてしまいましたが、何が言いたかったのかというと、私たちは不死であってもいずれ死にたくなるようなことに直面する可能性があります。そして私たちはあまりにも短い時間しか生きることができません。

だからというわけではありませんが、せっかく授かった生なので自分の生きたいように生きてみてはいかがでしょうか?
という事でした。

さてさて次回の話になりますが、「人生の価値」について考えてみたいと思います。

中高の授業で性悪説や性善説を習ったかと思いますが、そういった話に近いです。

お楽しみに!('ω')ノ

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