死の定義について.part1

はい皆さんこんにちは!

今回から本題に入っていきます!

タイトルの通り今回のテーマは「死の定義」について。

定義と言っても本書で「これが死の定義だ!」と断定しているわけでは無く、こういう視点もあるよね?こういう場合はどうだろう?って感じで視点と状況によっていろいろな考察を交えています。

今回はその中の一つの身体説人格説について話していこうかと思います。

なんか堅っ苦しい表現だとは思いますが、噛砕いて言ってしまうと

身体説:体の機能が役割を果たせるうちは生きてますよ

人格説:心(思考、意思疎通など)の機能が役割を果たせるうちは生きてますよ

ということだと私は解釈しました。

うん?それで?って感じですよね笑

それが普通だと思います。大体の人は死ぬ瞬間にその両方をほぼ同時に失うからです。ただ現実にはそうでない亡くなり方をする方がいるのも事実ですので2つの説について考えてみましょうか。

少し例を出してみましょうか。あなたが寝ている時はあなたは死んでいるか?

は?バカなの?と思うかもしれませんが、練習問題だと思って聞いてください笑

答えは当然生きています。身体説でも人格説でも機能が果たせるうちは生きているからです。寝ている最中は言わずもがな体は呼吸をして心臓も動いています。意思の疎通や思考はできませんが、それは一時的に機能のスイッチをOFFしているだけであって起きればONに戻せます。心の機能はまだ果たすことは可能なわけです。つまりこの状態は生きていると言えますね。

さぁ次の例はどうでしょう?

Aさんがある時、突然交通事故にあって重傷を負いました。医療器具に囲まれて息をして心臓も動いていますが、意識が戻ることはないと医師に宣告されました。

さて?こういった場合ではどうなるのでしょうか。一つずつ見ていきましょうか。

まず、身体説を支持した場合はこの状態は生きていると言えるでしょう。かろうじてではあっても体の機能はまだ役割を果たしていると言えます。

次に人格説はどうでしょうか?現在心の機能は果たせておらず、医師によってその後も心の機能は果たせないと宣告されています。つまり、人格説を支持すればAさんは亡くなっていることになります。

つまりAさんの置かれている状況は生と死が混在している状況なのです。

極端な例かもしれませんが、現実ではこれに似通ったことはあります。そうなると安楽死や臓器提供は道徳的に正しいのか?という疑問が生まれてきますね。

安楽死も臓器提供も人格説を支持している場合意識が100%戻らないという状況下では認められますが、身体説を支持していた場合生きている人を殺してしまう行為と考えられてしまうからです。

このテーマは意見が分かれるところではありますが、本書のその後を追っていけば自分なりの答えを見つけ出せる方もいるかもしれませんね。

その辺は追々お話しできればと思います。

フー(;'∀')疲れた。人に読んでもらうことを前提で書くのは大変ですねー。読んでいる方がいるならば上手く伝わっているといいですけど。

死の定義について.part1とか言っておきながらこの話についてはここで終わりにしようかと思います笑

本書ではまだまだ色んな議論がされています。例えば赤ちゃんの物心ついていない時期はどうなの?冷凍保存は生きているといえるのか?人格を他の身体に移せたら「私」として生きていると言えるのか?など結構ぶっ飛んだことも書いてあったりします笑

ですがこのpartでは何が言いたかったのかというと、生と死の境界って結構曖昧だってことです。だからこそ考える価値と生を授かった立場として考える責任があると私は思います。

皆さんは皆さんの友人や恋人、家族がAさんと同じ状況になったらどうでしょうか?

または自分がそうなったら時あなたならどうしてほしいでしょうか?

色んな回答があると思います。もし何か意見などがあればコメント頂けると嬉しいです!

今回はここまでにしましょうかね。

ではでは皆さんご視聴ありがとうございました!

次回のテーマは未定です笑

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