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【160】忘れ得ぬ光景:品川駅の地下道で出会った爺さんのこと 2023.7.29

 何十年か生きてきた人であれば、男性であっても女性であっても、誰しも忘れられない光景の一つや二つはお持ちのことでしょう。
 人生の何らかの瞬間のある光景:喜びや悲しみや、痛切な後悔などを伴った光景を何度も思い起こすことがあるのではないでしょうか。

 私にもそんな瞬間があります。
 その頃私はまだ20代の後半で、東京の小金井に住んでおり、ある期間、品川にある会社に通っていました。

 通勤経路は、小金井から中央線で新宿まで出て、山手線に乗り換えて品川まで行く、品川駅で港南口に出て数分歩くと会社、というものでした。

 問題は港南口です。
 このことがあったのは、思い起こせばもう何十年も前、1970年代後半のことで、新幹線品川駅が開業する2003年よりはるか昔、まだ「国鉄」の時代で、港南口(当時は東口と呼ばれていた)の再開発など、全く行われていない頃のことでした。

品川駅高輪口
品川駅高輪プリンスホテル

 品川駅の高輪口の方は山手線のホームからも近く、広い通路を通って改札を出れば、目の前にはプリンスホテルがあり、大都会の中の駅といって何の差支えもありませんでしたが、港南口はそれとは全く違ったのです。

 初めて港南口に出たときには驚きました。

 山手線のホームから下に降りて、高輪口に進む大多数の人の流れに逆らって東に進むと、港南口への通路であるトンネルへの入り口があったのです。
 この通路というのが、床も壁も天井もコンクリートが打ちっぱなしで、幅3-4mぐらい? 灯りというと低い天井に10メートルおきくらいに白熱電灯が点いているだけという、なんとも陰気で殺風景でおどろおどろしい雰囲気の細くて薄暗い地下道だったのです。長さは百何十メートルくらいはあったのではないでしょうか。

 この地下道をようやく抜けて階段を昇ると狭い改札があり、そこには、裏ぶれた小さな駅舎がありました。そして駅前には高層ビルなど一つもなく、「ええっ!ここはほんとに東京なの?」と叫びたくなるような、戦後の昭和にタイムスリップしたのかと疑いたくなるような、都市化から取り残されて時が停まってしまったかような、今の港南口からは到底信じられないような風景が拡がっていたのです。

今の港南口の威容
昔の港南口、確かにこんな感じでした。
この写真を見たら、駅舎の右側に見える立ち食い蕎麦屋で渡された丼を手を滑らせ、
ぶちまけてしまったこと、その時のなんともつらかった記憶まで思い出してしまいました。
駅舎の後ろの年季の入ったビルは国鉄の『品川乗務員宿泊所』です。

 そこに通っていたのは1-2年だけだったと思うのですが、私は、毎日そのタイムトンネルを抜けて港南口に出て会社の古い建物に行き、とても忙しかったので、帰るときは疲れ切っていて、とぼとぼとその地下道を抜けると、高輪口の方に遊びに出る元気もなく、ただ家に帰るだけという暗い生活を送っていたのです。

 それがあったのは、帰り道でした。
 季節は晩秋、そろそろ寒くなり始める時期だったような気がします。
 その日も時間は9時か10時か、そこそこ遅い時間まで働いて、いつものように疲れ切って、その地下道を港南口から山手線のホームに向かって歩いていました。
 すると通路の前方左側に人が座り込んでいるのに気付いたのです。
 いわゆる菜っ葉服という、グレイの作業服を着た小柄なおじさんというか爺さんが、壁に背を付けて通路に向かって体育座りをし、背を丸め膝の上に頭を載せ、目をつぶって眠り込んでいる様子でした。
 ホームレスだったのか、酔っぱらって寝ていたのか、いずれにしても、あまり清潔そうではなく、関わり合いになりたいタイプではなかったので、通路の右側に離れて、注意をひかないようにそっと通り過ぎようとしたその瞬間でした。

 ふと妙な気がしたのです。
 第六感が何か異様な気配を察知し、私は通り過ぎ様にサッとその爺さんに視線を投げたのです。

 すると見てしまったのです。

 そのじいさんは、上は作業服を羽織っていましたが、なんと下半身はスッポンポンだったのです。
 ちょうどタイミング悪く、真正面から股間が覗けてしまい、見たくもないものが目の中に飛び込んできてしまいました。

「ううっ、ばっちい!」
「うわあ 嫌なものを見てしまった!」

「最悪だあ」と、私は心の中で呻きつつ、急ぎ足でそこを離れ、今見た映像を脳裏から消そうとしたのでした。

・・・・・・・。

話はこれで終わり、もしかして期待されても、その後なんの進展もありません。
****************

けれど、今になって、なぜか、その時の光景が、ふと蘇るのです。

私と爺さん以外は人っ子一人いなかった薄暗いコンクリートのあの通路

白熱電灯の侘しい光の中の爺さんの丸めた小さな背中

 思い出したい思い出というわけでは決してないのに、あの時の物悲しい情景が妙になつかしく目に浮かぶのです。

 「あの爺さん、あの時どうしてたんだろう?」
 「あの後どうなったんだろう?」
 「今頃どうしているんだろう?」
 「もうとっくに死んじゃったかな?」

吉田拓郎の「落陽」を聞いたりすると、あの爺さんのことが重なって思い出されるのです。

私の忘れ得ぬ光景のお話でした。

 あの、時に取り残された裏ぶれた品川駅東口(港南口)が、私はけっこう好きだったのかもしれないと思うのです。


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