民主主義を再度考える

ことはじめ「多数決」だけではない

民主主義と聞くといきなり多数決という言葉を繰り出す人がいますが、間違いではありませんが正解でもありません。そもそも多数決~云々は手段決定方法、意思決定方法のひとつなので目的ではありません。それにそこへ至るのに全員の参加が必要であり、その全員は国であればその中に住んでいるすべての人を指します。また多数決=正義となった場合はそこから漏れた少数はすべて悪となってしまうため、その点においても民主主義=多数決でありません。またもし多数決=正義が成立してしまったらそれは少数に対しての排除であり、しいては一つの意見しか通用させない独裁制でありムラ社会的なものになってしまいます。アレです。空気読めというやつです。

首長を変えられるシステムである

まず民主主義は無論絶対王政の反対のシステムです。絶対王政と比較するとわかりやすいのでそれで行きます。僕も陥っていた考え方があるのですが「いい人が独裁やったほうが悪い人が集まって民主主義のようなことするよりマシ」というやつです。民のことを思う王様というやつです。しかしなぜ「首長を変えられるシステム」を主要国が導入したのかというといい王様の後釜がいい王子とは限らないからです。また民主主義を導入はしたけど王様は残している国は直接王様が政治に関わらないという方法が取られています。イギリスが代表例ですね。国の象徴としての王様ですね。
また王様が気変わりなんかしたらその時点でそこへ追随する民に普通に危機が訪れます。その気変わりが腐敗政治の遂行です。王様が一度号令をかけてしまうと最悪革命を起こさない限り止めることができません。人によっては相手国をけしかけて侵略させてその王様を死に追いやるようなこともするかもしれません。話それますがそれが実行されないまでも噂話として成立したらゆくゆくの陰謀論として闊歩することもあるでしょう。

意思決定の可視化されたシステムである

冒頭でも多数決=民主主義ではないことを言いましたが、なぜ多数決がーーと言ってられるんでしょうか?絶対王政や独裁制では「絶対こうだ!」とされてしまえば止められませんが、民主主義なら止められる可能性があり反対意見も表明することができます。そしてそれによって命を奪われることがないようにしようというのも民主主義…のハズです。
昔々の太古の昔に古代ギリシャおよび古代ローマで生まれたとされている民主主義ですが、その当時は本当に全員参加で一箇所のところに集まって一つのことを決定したりしてましたが物理的に毎回決めごとがあるたびに足を運ぶのは無理があるため「代議士」というのが生まれました。普段議員とか人によっては手を擦りながら「先生!」と言われている人たちのことですね。その人を決めるための投票するという行為が必要となります。
しかしどうして決め事のたびにみんなで議論を尽くしてやったりする必要があるのでしょうか。それが全員から意見を聞くという行為でもあります。その最終決定の際に取られるのが多数決なだけであってそこまでに至るのにみんなで考える必要があるからです。それは意思決定までに至る道筋を明らかにするためです。仮に「コレはみんなにとっていいことなんだから多数決なんかしなくったって問題ない」と言って人気の少ないところに1兆人なんてすぐに殺せる何らかの施設を作ったらどうでしょうか?その話を聞いていたらみんなすぐに反対しますし、反対することができます。それを勝手にやれば絶対王政と全く変わりがありません。つまり公開された情報をもとにみんなで考えて少しでも駄目と思われることがあれば意見したり反対したりできるのです。そこでよく民主主義にマスコミの存在は大きいと言われます。このときのマスコミは意思決定を自分勝手に行える権力側にいては大変なことになりコレもまたそうなった場合、絶対王政や独裁制とあまり変わりがなくなります。

まとめ

民主主義は意思決定もしくは国家運営にかかわるシステムの一つであり多数決はそれを決める手段です。また多数決は絶対正しいわけではありません。「あの議員が出るなら」と言いつつ、付き合いで投票するのも独裁制とまでは言わないにしても民主主義の放棄のようなものなのでそれが続く限り正当な意思決定は永遠に図られません。日本にはそんな議員が多すぎるんです。

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