きださおり拡大再生産戦略について

人生は、やり直したくなることだらけである。思う存分。

この記事は、うじを(@ujiwo0711)氏による「謎解きクラスタによる謎以外 Advent Calendar 2020」のために私ことしめじ(@shimeji_pz)が書いた文章である。
この時期になると毎年彼のアドベントカレンダーが現れ、これに何か書こうとエントリをし、それによって、年に一度のアウトプットをする機会が得られている。大変貴重であり、毎年続けてくれているうーじーには感謝しかない。この場で謝意の気持ちを表明したい。ありがおつ。

そうは言ってもお前、去年はなにも書いてないじゃないか、とご指摘を賜るのはごもっともである。
それには理由がある。
有り体に言えば、去年は、アウトプットに満足してしまっていたのだ。一年前の18年のアドベントカレンダー用に書き上げたエントリ「広い世界の数ある一つの物語」をもって。

よく「人は人生で一冊くらいは、小説を書ける経験をしている」といわれる。
18年の冬に、過去20年近くずっと抱え込み続けた青春時代の懊悩と「もしも」の気持ちを、そのまま吐き出して書き上げたこの文章は、今読み返すと、まあ拙さと後悔の塊みたいなものなのだが、それでもわたしがそれまでの人生で生み出しえた、もっともエモーショナルな文章であったということは断言できる。
青春は醜く残酷に過ぎていくし、取戻しもリセットも効かない。「全部うまくいく」なんてありえなくて、だれしもに、振り返ればせつなさが胸を締め付けてきたり、夜布団の上で過去の自分が恥ずかしくて足をバタバタさせてしまう思い出があるだろう。私にとってはあの文章につづった内容がそれだった。
それを潔く、文字の形で書き起こしたことで、ある意味、「供養」のような形となり、自分の中で少し整理がついた。不思議なもので、それによって、一時期、アウトプットの衝動が消えてしまっていたのだ。賢者タイムというやつだったのかもしれない。

では、今年こうしてエントリを再開したのはなんなのかというと。
結局は欲望というものは、一時的には衝動が収まったとても、しばらくほおっておけば、また鎌首をもたげてくるのが人間の性だということなのだろう。そうに違いない。

さて、ここまでは12月5日くらいに書いておいて、そのあとは何も考えていない状況であった。
もしこの下の出来事がなければ、ここまでの文章自体、日の目を見ないまま、ほかのあたりさわりのない記事にさし変わっていたかもしれない。


エントリ日も迫り、さてでは今年はなにをアウトプットしようか、と考えていた、このエントリの本来の公開予定日である12月12日。
私は「Inside theater Vol.2 『僕等のラストフェスティバル』」に参加した。

読者諸氏にはおなじみ、株式会社SCRAPエモ担当、きださおり氏のコンテンツである。
参加しての感想は、職業柄、多少思ったところはあるものの、そんなことはさておいて、画面越しに移る学園祭が、キラキラとまぶしかった。
それを眺めているうちに、2年前の私のエントリ、供養のように吐き出しされただけのあの感覚が、この作品によってきれいに「お焚き上げ」…炎で浄化され、「キラキラした思い出」に変えてもらえたように感じたのである。

むろん、きださんが過去のエントリを読んでいたとは思えないし、別に内容に似通ったところがあるわけではない。公開された範囲だけでいえば、「文化祭」という舞台背景が、少しだけ私の過去とリンクしただけだ。
それでも、あのオンライン文化祭によって、私の過去もまた、「あのときあの一言が言えていたら、違う結末があったのかもね」というポジティブな感情で捉えられるようになった。

まったく、きだ氏は物語でもって、人の灰色の思い出を鮮やかに塗り替えていくのである。

ということで、ここまで全部前置きにして、きださおりオタクとしての文章を書こうと思う。
※安心してください、ストーカーではありませんよ。
※安心してください、謎解きのネタバレは含みませんよ。
※でもニュアンス的なバラシはあるかもしれないから、それも嫌な人はここでこのページを閉じて、FANZAの10円セールへどうぞ。七沢みあさんお勧めです。


きださんが創り出す世界は、なんとなくいつも「夕暮れ」や「秋」に似ている、と僕は思う。壮麗な美しさと物悲しさが同居している。代表作の一つ「さよなら、僕らのマジックアワー」のキービジュアルがそうであるように。決して100パーセントのハッピーではない、1%の胸の苦しさを感じさせる。
それを人は「青春」と呼ぶのだろう。
きださんはこの成分をこう、絶妙にぶっこんでくるから、素晴らしい。

SCRAPが全国的知名度を得るころから謎解きに参加している、いわゆる「古参」は、きださんが好きなことを好きなように始めるさまを、よく目の当たりにしていたはずだ。
その好きっぷりが、だんだんいい感じでこう、人の古傷とかそれこそお布団でバタバタする思い出に対してクリティカルな角度でえぐりこむようにして打ってくるようになるにつれ、
「おのれきださおりめ!!(いいぞもっとやれ!!)」と叫んだ人は多いのではなかろうか。

時折「なんでそんなえげつない発想になるの…」と彼女のこれまでに思いをはせないこともないが、まあ鴨川べりを自転車で下りながら川辺で話し込むカップルに水風船をぶつけて回ってたとかそういう感じの過去があるんだろうと勝手に思っている。

そんなきださんの生み出すコンテンツはこれからも続いてほしいし、それ以上により強く願っているのは「きださおりの拡大再生産」である。

きださおり氏単騎では、紡ぎだせる物語や携われるコンテンツにも限界がある。これから先、どんどんお行儀のよいクライアント相手の仕事も増えていくだろう。
そこできだ氏のエッセンスを受け継ぎ、さらにきわどく、えげつなく、肺腑をかきむしるような感情を呼び起こさせることのできる後継者の登場強く望まれているということを、私はここで声を大にして言いたい。サクセサー・オブ・さおりん待望論である。
SCRAPという枠でもいいし、それ以外の形でもいい。
世のコンテンツ制作者の中で、きださおりの超越をテーマに挑んでくれる人がいないかと願っている。
私の経験が浅いからかしれないが、世のコンテンツを眺めても、まだまだきださおりを超える逸材を味わったことはまだないように思う。
こう、闇の深さが足りない。どうせ謎を解けばみんな幸せになるんでしょうみたいなお行儀のよさ、ご都合主義感を感じる。
この謎が解けようが主人公の恋愛がうまくいくかは別問題ナんだよ…ッ!!」的なストーリーを(結末はさておき、そのような可能性もありえるように見せ、それをしてストーリーとして受け入れさせるような)さおりんイズムの後継者よ、来たれ。
我こそは、と思わんものがあれば、どうか思うがまま、存分に。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?