カポエイラを見逃した〜わかりやすく伝えること
カポエイラ
都内でいろんなことをして辻堂に帰ってきました。家に帰る前に,駅前のモールで晩御飯の買い物をして駐輪場に行こうとしたら,日曜だからか,何かのイベントをやっていました。僕がそこの前を通りかかった時,ちょうどカポエイラの演舞が終わって,出演者があいさつをしているところでした。「ああ,もう少し早く通ればカポエイラが見られたのになあ」とちょっと残念に思いました。カポエイラとは,ブラジル発祥と言われている格闘技で,奴隷労働者たちが,格闘技の訓練をしていると悟られないように,「踊りっぽく」みせるようにしてできたものだそうです(起源は正確には諸説あるらしいです)。
ん,でもちょっと待てと。僕は,演舞を終えて並んでいる人たちを見て,「ああ,カポエイラ見たかった」と思ったけど,これっておそらく,日本列島在住者約1億2千万人のうち,1%にも満たない感覚だよなあと思いました。
まず,カポエイラを知っている人がどのくらいいるか。見たことのある人がどのくらいいるか。その先にはやったことのある人が…と続くのだと思いますが,衣装と持ち物を見て,カポエイラだとわかる人は,本当に少ないでしょう。僕にとっては特別ではない当たり前のことが,当たり前ではない人がたくさんいます。いや,むしろ,世の中ってそんなもんだと思います。
発信すること
最近,発信することを特に意識しています。僕が書いたことが,いろんな人に伝わっていくことで,日本語教育やその周辺領域が少しでも世の中に認知され,世の中がよくなっていくためのきっかけにできればいいなと思っています。ですが,どうも,僕(たち)が書くことは,とても「難しい」ようなのです。今日,カポエイラがすぐわかったことも,僕(たち)が当たり前だと思っていることと,そうでない人たちがいることのギャップだなあと思いました。
瑣末な例ですが,日本語教育業界では普通に通じる「チョウカイ」という言葉があります。例えば,企業さん向けにカリキュラムを組むときに,「この学習者さんは,日本語の聞き取りが苦手なようなので,まずはチョウカイの授業を多めに組んでみようと思います」という感じで使います。
ところが,この「チョウカイ」という言葉は,日本語教育業界の外では,通じないことがしばしばあります。上記のような例文だと,会社の方は「朝会」の授業ってどんなことやるのかなあと思うわけです。すぐに「聴解」に直結しないんですね。
発信の行く末〜日本語教育の必要性
ひるがえって,僕(たち)が今喫緊かつ最重要課題として取り組まないといけないのが,「日本語教育がなぜ必要なのか」ということを一般の人にわかりやすく伝え,共感を持って賛同してもらうことです。でも,これが本当に難しいのです。
一般的な感覚をざっとまとめると,以下の3点に大別できるんじゃないだろうかと思います。一つ目は「自己責任論」「受け入れ企業責任論」という「一部に責任を押し付ける論」。二つ目は「日本人の方が先でしょ」「日本人の教育はどうなんだ」という「日本人(という幻想)優先論」(このパターンには,質の悪い亜種として,「税金は日本人に使うべきだ」というものがあります。外国人も納税者だという社会の基本がわかっていない論で,取り上げる必要すらないものですが…)。そして三つ目は,住んでいれば日本語できるようになるだろうという,「素朴言語習得論」です。
こういう意見に対して,どれだけわかりやすく説得的な議論ができるのか,それがまさに「専門性」ではないのかと最近強く思います。
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