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『天気の子』と『ライ麦畑でつかまえて』の関係性~帆高とホールデンのどっちが「大人」か~


1.『ライ麦畑でつかまえて』とは

物語序盤、帆高くんが家出をしてきてその日暮らしを転々とするシーンに何度か登場した『キャッチャー・イン・ザ・ライ』。サリンジャーによる小説で、野崎孝訳版では『ライ麦畑でつかまえて』というタイトルになっていますね。


『ライ麦畑でつかまえて』(以下ライ麦)は、高校を放校になったホールデンが、寮から家に帰るまでにニューヨークの街を放浪するお話。その旅の中で、彼は青少年特有の孤独感や社会への不信を強め、どこか遠くへ行き一人で暮らす決意をしますが、最愛の妹に別れを告げた結果「自分もついていく」と言われてしまい、結局家出をやめて帰る、という選択を取ります。

このように、ジュブナイル文学の金字塔として挙げられるライ麦ですが、最終的にはホールデンは「大人」になるんですね。ある種自分を曲げて社会の中で生きていく決意をする。「大人や社会って汚いよね、君(読者)だけは分かってくれるだろう?」ってな口ぶりだった彼が最後には妹を学校に戻るようたしなめるんですから別人です。


2.『天気の子』との相違点、共通点

翻って『天気の子』は「大人になることを拒んだ少年と少女の物語」です。ひと一人と(おそらく)全世界の天候、「大人」ならどっちを選ぶか明確なわけですが、それでもなお帆高くんは陽菜さんを選んで、「これでいい、大丈夫」と叫ぶ。

こうしてみるとライ麦と天気の子は対照的な構図のようにも見えますが、共通点もあります。それが「主人公の彼らは『愛』を選んだ」という点です。ホールデンと帆高くんが違ったのは、彼らがいつそれを手にしたかという点と、何と秤にかけてそれを選んだかという点なわけです。


3.ホールデンと帆高くんは何を選んだか?

上記のように、ホールデンは家出をやめて家に帰るという「大人な」選択を取るわけですが、それはひとえに妹を巻き添えにしたくなかったから。妹がまっとうに生きてくれるなら、自分をこのおかしな世界に順応させることなんて何でもないと思えたと。正確には、世界は完全ではないかもしれないけれど、それでも生きるに値することに気づけたんじゃないかと思います。

つまり、ホールデンは最初から妹への愛を、妹からの愛を、ひいては世界からの愛をその手の中に握っていて、それにようやく気づけた。愛と世界とが同じ秤皿に乗っていて、もう一方に自分が乗っている。「愛&世界VS自分(自意識)」という構図ですね。

一方、帆高くんはうまれた場所からみえる世界を愛することができなかった。そうして自分と世界の関わり方を見つけるために今いる場所からの逃避行に出て、陽菜さんと出会い世界を愛することができるようになった。「愛&自分VS世界」という構図になるわけです。

こうしてみると、「大人になる≒世界で生きていくことを決める」選択をしたホールデンの方が立派で、帆高くんが子供、という単純な話ではなく、二人とも愛を求めていただけで、ホールデンには初めからそれが与えられていた、帆高くんにはそれがなかった、ということのように思え、個人的には帆高くんに同情してしまうんです。

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