黒い羊と〈僕〉

 2020年1月23日。砕けそうな足腰を水中に引き込んだのは巣鴨だった。相当顔色が悪かったのだろうか。「ねえ大丈夫!??」と知り合いに声を掛けられそのまま飲み屋に引き込まれる。乱雑になる一方のフロアを見守り続けてきたが、ここ最近は無秩序さに何も手が入っていない。「生きてるだけで偉いって」。言う側から転換してしまったのか。「脱退」という二文字には触れずに、数時間で得た情報で質問される。「はじめて知ったよ、にことちゃんとの会話とか!超かわいくない??」。ドルヲタ故のその瞬時のリサーチ力は範としたいところ。

 欅坂46「黒い羊」のMVが公開されて1年以上が経つ。

 「普通」ってなんだよ。イラつきながらも中々抗えない言葉だ。「普通」には実態がない分、誰かを排除する万能の容器として機能し得る。誰かを排除しているところにこそ「普通」が実態的に成立していると言えるのかもしれない。しかし「普通」なんてものにやはり根拠はないのだ。単に人と違ったところで排除される謂れなんてあるのか。〈僕〉は「ここで」自分を捨てるつもりなんてない。弱さを決して隠すわけではなく、苦悩が純化されながら、〈僕〉の強さも見せるのが欅坂46「黒い羊」の歌詞であろう。田村保乃の言葉を借りよう。

この曲は言葉にするのが難しすぎて。私は「黒い羊」のMVを観て、すごく苦しくなりました。今までの曲からはちょっと強い印象を受けていたんですけど、今回は弱さが見えて。だけど、歌詞にもあるように〈白い羊になんて僕は絶対なりたくないんだ〉っていう、自分を絶対に曲げない強さも見えるんです。(「8thシングル『黒い羊』リリースインタビュー   欅坂46 2期生 武元唯衣&田村保乃が語る、1期生との共演で芽生えた自覚と覚悟」より)

 この「黒い羊」について考えを巡らす前に少し遠回りをしておきたい。香月孝史「「欅坂46はアイドルを超えた」…その称賛が見逃していること」には以下のような指摘がある。

欅坂46の初期キャリアを振り返れば、「サイレントマジョリティー」以降の「世界には愛しかない」「二人セゾン」といったシングル表題曲は、群像による演劇的表現という基調は一貫しながらも、作品ごとに異なったテーマ性が宿されていた。/また、シングル作品としての「サイレントマジョリティー」にパッケージされていた各楽曲はそもそも、レジスタンスのみならずラブコメディ的な上演から、あるいはよりミクロで内省的な感受性の表現まで、描かれる人物像や世界の把握の仕方は相当の広がりをもっていた。/それら多様な人物像、多岐にわたる世界観をそのつど群像として上演できることにこそ、欅坂46のストロングポイントはあった。(「「欅坂46はアイドルを超えた」…その称賛が見逃していること」より)

 香月孝史さんのアイドル論はバランスの取れた論考だと思うが、だからこそ重要な意味で偏りのある欅坂の存在が見落とされているのではないだろうか。ここで言われる「初期キャリア」以降、正確には「大人は信じてくれない」(3rdシングル「二人セゾン」のC/W)を皮切りに、大衆に向かってレジスタンス的に「○○をせよ」という呼びかけをするのとも違う、孤独な魂の悲痛な叫びや憂鬱を表現した楽曲が多数誕生しそれに応じた振付、舞台演出が施されてきた。C/W全体曲の「エキセントリック 」「 君をもう探さない 」「東京タワーはどこから見える? 」「月曜日の朝、スカートを切られた」「もう森へ帰ろうか?」「Student Dance」「I’m out」 「Nobody 」(cf.平手友梨奈ソロ曲「自分の棺」「角を曲がる」)、表題では7th「アンビバレント」。そしてこれらの結晶とも言えるのが8th「黒い羊」。

 世界は愛情や善意で満ちているわけではなく、「明るさ」はあくまで世界の半分だ。しかし「明るさ」の方が語られがちだとすれば、それに抗してもう半分の世界を徹底的に掘り下げるというのも世界を広げる重要な仕事だ。それに懊悩と言っても様々な角度から掘り下げられるはずで、数曲で終われるものでもないはずだ。これはレジスタンス的なものにも共通して言える。
 孤独や懊悩を吐き出す避難所としての欅坂の存在は、「黒い羊」MVのコメント欄によく表れていると思う。表題曲すべてでセンターをつとめた平手友梨奈はこう語る。

自分が孤独を感じていないと、同じような気持ちを抱えている十代の子に届けられないんじゃないかなって。だからといって、無理に自分で自分を苦しめているわけでもないんですけどね。今、切ない思いをしている子に届けばいいなって思ってます。(QJ2017/12月号、64頁)
私、別にかっこいいとか可愛いって思われたいから欅坂をやっているわけじゃなくて……。人間のできることなら覗かれたくない感情やなかなか素直に表に出せないなにかを表現したいんです。(前同)

 「欅坂はそれだけではない」という言説は事実そうであるしその言説のもつ意味も理解できるが、「それだけではない」という強調が、欅坂が担ってきた偏り(正確に言えば、ある特定分野への深堀り)の部分を小さく見るものであればやや疑問にもなる。

 さて。上述の楽曲(平手友梨奈ソロ曲以外)を全網羅したライブがある。1年前の3rdアニバーサリーライブ武道館公演である。ここまで偏重したセットリストは欅坂の中でもまれであるが、注目したいのは、武道館でも披露された「二人セゾン」である。「二人セゾン」自体が僕と君が移り変わる物語なわけで、出会いと「別れ」が初めから「二人セゾン」自体に含まれているが、武道館ではこの「二人セゾン」後にシルエットパフォーマンスが来る。これがまさしく出会いと別れの物語だった。特に最後、完全に二人の別れである。そこからの「キミガイナイ」→「もう森へ帰ろうか?」と孤独が深められている。「二人セゾン」を別れに寄せた悲しみから解釈し、「二人セゾン」がこの孤独なモノローグのようなセットリストに完全に組み込まれていた。振付師のTAKAHIROは、「改めて“僕”の気持ちになって、欅坂46における歌詞世界とセットリストを追っていくと、系譜が見えてくると思います」(BLT2020/6月号、52頁)と語っているが、「初期キャリア」の楽曲を欅坂自身がどのように解釈し直していたのかというのも考えさせられる問題である。
 ちなみに、この「二人セゾン」→「キミガイナイ」→「もう森へ帰ろうか?」という曲順は欅共和国2018にもすでに存在し、2019年の東京ドーム公演にも受け継がれている(……ドーム2日目のもう森、もう森!みんなが踊っている中、平手友梨奈が一人ステージに歩いて向かってくるこのシーン!!ここでもほんと今にも泣きそうな顔で歌っていて、えぐられる。そんな悲哀からサビに向けて爆発してて「ここから」の時の視線が最高に硬質なまっすぐさ)。

 そろそろ本題に戻っていくと、この3rdアニラ武道館公演の千秋楽、この日にだけラストに、しかも特別な演出をもって披露されたのが「黒い羊」である。この「黒い羊」のおもしろさはMV、平手友梨奈と〈僕〉、ライブ披露の振付、という絶妙に交わりつつもそれぞれ違う要素をもつ三層から構成されていることである。歌詞に収まりきらない、1年あまり熟成されてきた「黒い羊」の世界を覗いてみたい。

① MVと〈僕〉

 「黒い羊」の歌詞がもつ上述のような側面とはやや違った角度で問題提起するのが「黒い羊」MVだ。「黒い羊」MVを観て、直感として孤独な魂が傷つきながらも孤独な魂をハグしていく、これが〈僕〉から発せられた何か救いの、存在を肯定するようなメッセージであると感じることはごく自然なことであろう。新宮良平監督もそのことを否定しない。

 “僕”はある意味メシアですよ。絶望の淵で戦う存在だからこそ他人を動かす力がある。他の黒い羊たち、もしくは白い羊たちも、“僕”と抱き合うことで救われるものがあるんです。(BRODY2019/4月号、64〜65頁)

 ぶつかり、抱きしめ合いながら誰かを解放していく物語という側面があることは確かである。これ自体がすでに「黒い羊」の歌詞を超えたものであることは明白であるが、新宮監督自身、「楽曲の先にあるものを映像で描きたかった」(前掲、61頁)と明言している。さて問題はここからである。新宮監督が「楽曲の先」として語り始めたものは、上述のような他者に向けられた救いというメッセージからではなかった。新宮監督の問題意識は、そもそも白い羊/黒い羊に分かれたのはなぜなのか、という問いであり、結論的には、以下のように言う。

 心の底からぶつからずに「黒だ、白だ」とお互いに決めつけて楽になっているだけなんですよね。要するに問題は自分にあるんです。(前掲、62頁)
他人と向き合うには自分が裸にならないといけないですから。自分に勇気がないから“黒”で居続けると跳ね返ってると捉えた。(同上)

 この一節を読んで思い出すのが、映画『聲の形』をめぐる議論の中で、飯田一史が、「「自分が全部悪い」ってしょいこむことで具体的な個人や事象と向き合わないのは嫌い(まずい)、って植野は観覧車の中で硝子に対して、橋で将也に対して言っていて、植野の思想は一貫しているし、間違ったことは言ってない」(「映画「聲の形」を感動ポルノだとする批判は妥当なのか」より)とするところである。
 ここにある「具体的な個人や事象と向き合わない」ために自己を悲劇の人に仕立て上げることの閉鎖性は確かに問われるべきことであろう。ただ、誰もが勇気をもてるわけではない。自己を悲劇の人とするしか心を保てないことだってある。しかもそこまで追い込んだのは、いわゆる白い羊側ではないのか?という問題もあろう。
 「黒い羊」歌詞としては、〈僕〉にレッテルを貼って排除していこうとするいわゆる白い羊側を指弾する方に重きを置いていると言える。しかし、〈僕〉は〈僕〉で抜け出さなければならない閉鎖性の問題がある、そちらにも注目したのが「黒い羊」MVだと言える。また、新宮監督は〈僕〉について語っているが、いわゆる白い羊側も自分とは違う人を分かろうと裸でぶつかっていないのであり、当然そうした態度を含めて問題にしていると言うことはできる。
 閉鎖的な〈僕〉が他者と向き合う、このテーマで選ばれたのがハグなのである。抱きしめる時に感じる相手の鼓動や、ぶつかり合う時の体の痛さ、他人の存在を嫌と言うほど感じさせるハグ。一見すると〈僕〉が他の黒い羊を傷つきながらも解放していく物語に見えるが、欅坂46の〈僕〉と時間を共にしてきた新宮監督は、まず〈僕〉が世界に開かれる舞台が必要なのではないか、と考えて映像に託したのだ。

 「黒い羊」MVは、他者と分かり合うとする結果、みんながみんな抱き合うようなハッピーエンドになる、という物語ではない。それは新宮監督も明言するところである。当たり前のように受け入れられない他者もいるわけであるが、自分のことを受け入れてくれない他者も出てくる。新宮監督は、「どん底から“僕”が他人とぶつかり合う勇気を得ていくストーリー」だとするが、ハグが表象するものは「ぶつかり合う」というものであることは重要である。単に他者を包み込んでしまうような物語ではなく、自分を他者にぶつける物語でもある。  
 これは黒い羊の歌詞からすれば当然ではある。黒い羊の歌詞ではこう宣言されている。“白い羊なんて僕は絶対になりたくないんだ/そうなった瞬間に僕は僕じゃなくなってしまうよ”と。

 こうした黒い羊の歌詞とシンクロしていくのがラスト、屋上のシーンである。ラストのセンター・平手友梨奈ソロシーンについて新宮監督は、「“僕”が“僕”でいるために、その場にいる全員に自分をさらけ出す姿」(前掲、65頁)であると。新宮監督はラストシーンについて、色々な大人の中で葛藤する主人公が「私はこれでいい」と言い切るシーンだともしている(前同)。しかしこれは、特に「黒い羊」MVにおいては、「自分に勇気がないから“黒”で居続けると跳ね返ってる」というものではないはずだ。他人と向き合うのに裸になった、全員に自分をさらけ出した姿だと考えるべきであろう。さらけ出し他者とぶつかり合った結果、決してすべての人から受け入られるわけではないが、「私はこれでいい」と言い切ることができた戦士の姿があのラスト。世界を閉鎖して自己を保つのではなく、この世界に開いて僕が僕になっていこうとする姿がある。

② 平手友梨奈と〈僕〉

 「黒い羊」MVが公開された時、こんな声をよく聞いた。「黒い羊」が2018年に欅坂が歩んできた軌跡とどうしてもオーバーラップしてしまう、「黒い羊」MVに見る平手友梨奈が見せる苦悩が彼女の痛みに見えて苦しくなる。確かに重なるところはあるが、あくまで作品は作品であると。

 月川翔監督が様々な媒体で語っているところであるが、演技とは嘘をついていることなのではないか、今までの音楽活動では嘘をつかずにやってきた、それが台無しになるのではないかと平手友梨奈は月川監督に問うていた(「【インタビュー】『響 -HIBIKI-』月川翔監督「平手友梨奈さんと2人で話し合い、響のキャラクターを突き詰めていきました」」 等参照)。新宮監督は、「ガラスを割れ!」の平手友梨奈のソロダンスはアドリブであり、「100%ドキュメンタリー」(FLASHスペシャル2018/4/5増刊号)だと語っている。
 「黒い羊」に関して平手友梨奈は以下のように語っている。

ああ、いていいというか。欅坂のなかにこの曲があることで、ちょっと救われたじゃないけど、自分のいる意味をなんとなく感じたかもしれないな。ああ、この気持ちを出せるんだって。たぶん、これはずーっとモヤモヤ悩んでたところの気持ちなんじゃないかなあ。(ロキノン2019、179頁)

 先に平手友梨奈は「人間のできることなら覗かれたくない感情やなかなか素直に表に出せないなにかを表現したいんです」と語っていたが、「黒い羊」でまさに平手友梨奈自身の出せずにモヤモヤしていた感情が表出されていると言えよう。

 作品の中で平手友梨奈を見るときに、そこに平手友梨奈自身を見ない、ということの方が難しい。「黒い羊」MVに関するインタビューの中で、新宮監督はこう明言している。

欅坂46の歌詞世界の主人公である“僕”は平手さんに通じるものがある。(BRODY2019/4月号、61頁)
“僕”というのは平手さんそのものだと思っている。彼女はメンバーとかいろんな大人の中で、心を打ちひしがれているわけです。まさに「黒い羊」そのものというか。平手さんがみんなの前で「私はこれでいい」と言い切るシーンがどうしても作りたかったのはあります。(63頁)

 新宮監督の〈僕〉への思いはそのまま平手友梨奈への思いにつながっている。 

平手さん自身も普段メンバーと感情むき出しでハグすることはあまりないと思うから、ああいうハグをして何か感じることはあったと思うんですよね。ハグをしていった先に何があるか。僕はそういう舞台を作ろうと思った。(前掲、63頁)

 平手友梨奈はこうした新宮監督の思いとシンクロするように、「……メンバーがいないとちゃんと届けられない、成立はしないんだなあとはすごく思いましたね。“アンビバレント”から、メンバーと絡む振り付けが多くて。今まで、ひとりでやることが多かったんですけど、“アンビバ”はメンバーと触れ合うことが多かったからそういう感情を抱いたのか、わからないけど」(ロキノン2019/4月号、172頁)と語っている。「黒い羊」以前からメンバーとの触れ合いとの中で何か新たに思うところが出てきたということであるが、まして「黒い羊」MVを通過した時、さらに思うところがあったであろうことは想像に難くない。……ほのとーく20200102の「9月」は屈指の一枚。あのハグ!!!!

 平手友梨奈は、パフォーマンスの舞台上を「自分が自分でいられる環境」(前掲、173頁)とするが、作品世界上でまさに〈僕〉が〈僕〉となるそのリアルを我々は目撃するわけである。欅坂の歌詞はMVや振り付けに依って立体的になり(それは忠実な立体化というより、建て増しに近い)、その歌詞を実際に生きる人間に依って絵空事を超えて我々の目前まで迫って来る。これは暴力的ですらある。「自分が自分でいられる環境」と言うが、必ずしも舞台上で順風満帆であったわけではないことは多くの人が知るところであろう。そこにはステージ上で俯く姿が多くあった。全国ツアー2018も、調子が良かったとはまず言えないパフォーマンスであったが、

自分が納得いってないステージになぜ立たなきゃいけないのかっていうことを、考えて考えてやってました。毎公演、毎公演、スタッフさんと話して、出るのか出ないのかっていう話をして。(前掲、174頁 ※ライブ演出についてストーリー性のぶれ等を問題にしている)

と語っている。
 ロキノンを読めば分かるが、決して平手友梨奈は開き直っているわけではない。しかし、考えすぎてしまう自分をやめれば楽になるのに、と言いながら、そうやって楽になった自分についての想像は、「まったくつかない。うん。たぶん全部をはっきりさせたいから。はっきりさせないとダメだから」(前掲、178頁)と。こうしたところを含めて我々は、〈僕〉が〈僕〉になるという意味を目前で問われるわけである。様々な言葉、疑問が現に噴出していた。ただ、これが歌詞とは無関係とも言えない歌詞の――黒い羊の――リアルさでもあり、言葉が突き付けてくる問いはとても鋭角だ。

 正直に生きていく、このシンプルな言葉が平手友梨奈において現実に実行される時、様々な波紋を呼んできた。まさにまったく絵空事ではない分、特に2017年夏以降、様々な批判も投げかけられていった。正直に生きることは本当に美しいことなのか、という世界像の変更もあったやもしれないし、正直に生きる苦しみに何か新たな世界を見た人もいたかもしれない。

③ ライブ披露と角を曲がった〈僕〉

 振付を担当するTAKAHIROは平手友梨奈脱退後のインタビューでこう語っている。

平手さんの脱退に関しては、私個人としては第1回目の『欅共和国』の時から予感がありました。そして、今から1年程度前の『3rdアニバーサリーライブ』くらいから、いよいよ、その時が近付いているのを感じました。“僕”の最後の場所を探っているのかなと。[……] その後、年末の『ミュージックステーション ウルトラ SUPER LIVE 2019』でも『黒い羊』と『角を曲がる』の2曲を披露しました。あの日の『黒い羊』は、歌中の“僕”が彼岸花を(小林由依に)渡すという特別な演出がなされましたが、『角を曲がる』に繋がることで、“僕”が別の道を行く、と読みとれるような曲順になっています。“1人きりで角を曲がる”……これが『角を曲がる』の最終歌詞です。(BLT2020/6月号、52頁)

 彼岸花を渡すというラストはライブ・TV披露時に行われてきた演出であり、MVとの相違点である。MVから歩みだし、〈僕〉の在り方に最終的な決着をつけたということなのであろう。

 3月19日。ラジオSCHOOL OF LOCK!、「平手友梨奈ちゃんGIRLS LOCKS!卒業式」で平手友梨奈は最後にこんなお願いをしていた。「辛いこと、苦しいことの方が多いと思う人もきっとたくさんいると思います。私もそう思っている人間の一人です。でも、どれだけ嫌なことがあっても、逃げずに闘ってほしいです。闘うことはすごく勇気のいることだし、自分も傷つく。そして相手も傷つくことがあります。大切な人間関係がもしかして崩れちゃうこともあるかもしれない。でも、それはマイナスに受け取るんじゃなくて、むしろプラスに受け取ってほしいなって思います。あとは、もっとわがまま言っていいんだよって言ってあげたいです」と。少し震えながらこう語る声は心底優しかった。彼岸花は差し出された。

(画像は「平手友梨奈ちゃんGIRLS LOCKS!卒業式」より引用)

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