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源俊賢の論文収集家による批評会(後半ほぼツッコミ大会)

↑これ俊賢です(前賢故実の)

最近金が無いのにも関わらず、長年(?)読みたいと思っていた俊賢の論文を収集しまくってしまっていて、1月だけでも2つ手に入れてしまいました。

 普通に1年以上前から欲しいと思ってたのに、何で今さら手に入るんだろう?と自分でも謎ですが、今までは手に入れる努力が足りなかったのかな。

手に入れた論文のうち
『大鏡における源俊賢ー伊尹伝行成蔵人頭補任を中心としてー』
は国会図書館のウェブから見れちゃったんですよね。
国会図書館の会員登録した人ならネットで読めたっていうなんぜ今まで知らなかったの案件!
アホだ〜…と思いながら読んでみましたが、以前手に入れた安西廸夫氏の『源俊賢の生涯』という論文に内容的には似ていたので特に目新しくはなかった…(としゆき臭はしてて良いです)

要は「大鏡の重要な場面(政治的転換点)に源俊賢が脇役でいつもいるのはなぜか」というやつです。

そしてこの論点はほとんどの俊賢の論文で取り上げられてる議題。

これには大鏡作者(不明)が源氏の者だから、とりわけ俊賢系の人々なのではないかという説が昔から上げられてます。
安西先生によると、その説は山岸徳平先生が言われていた、とのことで私は気になってその山岸先生の論文も12月に買ったんですよ。
これがですね、ものっすごい古いのでね、90年物なんですよ。

 ウィスキーでも90年物って凄いだろ

てかそんな俊賢が大鏡に大きな影響を及ぼしてるってことが90年、いや100年前から研究されてるなんて…!!
と衝撃と感動と古さに震えましたが、山岸先生の説は

『大鏡は源俊明が作った説』

です。源俊明は俊賢の息子隆国の子。したがって俊明は俊賢の孫です。
大鏡には作者かとされる人が沢山いて、源顕房説、源俊房説、源道方説、藤原能信説…などなどまだいるんですが、山岸先生は俊明を推してるというだけです。
(講談社学術文庫の大鏡の保坂先生は顕房説なんですよねぇ)
醍醐源氏推しの私としては山岸先生ラブ!なので話はズレますが、いずれ俊明がどんな目線で祖父俊賢をバイプレイヤーで立ち回らせ、道長時代を見ていたのか、という漫画かなんか描きたいなーと思ってるんですがまだ先になりそうです。


さて、先程の山岸先生の説を受け、大鏡の中で俊賢は暗躍しうるのか?という疑問を政治的生涯に目を付けながら書かれたのが安西廸夫氏の
『源俊賢の生涯ー特にその政治的生涯についてー』
です。

この論文は「歴史物語の史実と虚構」という御本に収録されていて、『源俊賢覚え書』という論考も加わっておりさらにパワーアップしております。国会図書館でコピーしてもらったのでそこだけしか断片的に読めていないんですが、中古でもまぁそこそこの値段で買えると思います。
この論文は非常に分かりやすく、丁寧に俊賢を説明してくれるので、初心者も玄人も気に入るのではないかなと感じました。

と、ここでちょっと私が熟成させてた俊賢に沼ったらどっから手付ければいいんだ?という問に(そんな問は無い)自分なりに答えてみた↓↓↓

わたしが考えた俊賢論文のふれあい方

1、倉本先生の『公家源氏』(中公新書)の俊賢を読む
2、古事談、大鏡など比較的手に入りやすい説話から入る
3、安西先生の『源俊賢の生涯』を読む
4、関口力先生の『摂関時代文化史研究』(思文閣出版)の俊賢の章を読む

が、今の所の見解(?)です。
wikiやネットの情報って当てにならないとか自分の足でソース調べなきゃとか古の刑事みたいな事言ってる人(?)たまに見かけた事ありますが、正直言って平安時代に限ってはそんなwikiがデタラメ言ってたりはしないので大丈夫だと思います。まぁ間違いもあるなと見てて思いますが、俊賢に至ってはwikiの「河海抄では大学寮に行ったと書かれている」や「栄花物語では高明配流に泣きながらついて行った」などの希少な情報も載せられているので、そういうのもっとくれ!!と思う。
ただ、今まで調べてきた中で成尋阿闍梨母が忠君女所生になってるのは間違いなんだ…前妻の子なんだ…(成尋阿闍梨母集を読んで)という発見もあるので自分の足も必要ですな。そういう発見した時はマジで凄い。頭ん中アドレナリンで飛びそうになりますよ。


あ、先程のふれあい方で書いた4の関口力先生の御本ですが、これも三千円〜くらいから買えたと思います。今の私なら買えないですね…(会社員時代に買った)

この本の俊賢は麻薬です(ガチ)


…コイツはまた大袈裟なことを…と思ったそこの方、騙されたと思って読んでみなさいませ。

『公家源氏』なみのダーティーでヤバい俊賢の再来だ!!!!こいつァヤバい!!クセがすごい!!


公家源氏なみと書きましたが、刊行年順に言えば関口先生の方が先です。なので正確に言えばダーティーな俊賢像の原点(?)はこちらなのですが、手に入れやすさで言うと倉本先生の公家源氏なので。。。

私が読んだ順は
公家源氏→関口俊賢

私はファーストタッチがダーティー俊賢だったので今でもギラギラした源俊賢が大好物です。
(あ、公家源氏の俊賢については前にまとめた物が色々…)


というか俊賢ってなんかこう、知れば知るほどダーティーな部分が出てきて魅力的なんですよね。
ダーティーな部分って人によっては受けつけなかったり嫌悪の対象になったりしてしまうと思うんですけど、俊賢に至っては安和の変で家が没落してからの這い上がりが真骨頂なんで何したってもう俺はいい!満足だ!
って感じなんですよね(俊賢の人生龍が如くか)

そして関口先生の俊賢は安和の変で落ちぶれた俊賢を、むしろ個性的でアクが強いエネルギッシュな男として書いてくれているのが超絶推しポイントなのです。

まぁ先生の物言いがちょっと辛辣で(笑)笑ってしまう所も多々あるんですが、俊賢と行成の親を早くして失くしてしまった孤寂感から二人が惹かれあったのではないかとか、俊賢が貪欲ならざるを得なかった心の内などを詳しく記してくださっています。(この論文、俊賢→実資の矢印の構図にもキューンと来ますよ!)
あまり日の目を見ないコア論文かもしれんので、私が感化された文をいくつか…



(小右記引用の俊賢が毎日尊卑の者を讒言しているという記事を受けて)
こうした一種「狂」的言動は、先に触れた伊周の嫡男道雅にも看取されるところであって、いずれもその幼少時に父の配流に伴う屈辱的体験を嘗めたことにおいて軌を一にするのである。

彼のこうした自己売込み癖は、まさに頼る者なく孤立的な立場におかれた俊賢の自己の資質に対する強烈な自負と焦燥とに発するものといえよう。

俊賢の「恪勤上達部」的役割の一面として、道長に接近を求める者たちを道長に斡旋するブローカーないしマネージャー的機能があったのではなかろうか。

いいねぇ〜左府の軍師俊賢ですよ


(和泉式部に懸想した疑惑の俊賢を受けて)
長保五年(1003)当時、俊賢は45歳、式部は30歳前後であったろうが、噂話に根拠があったとしても、両者の交渉は感情の昂揚することのない、中年の不毛の好色として終わったとみるより他になかろう。

草。一番腹抱えて笑ったところです↑

         中年の不毛の好色(ドンッ)

先生wwwどうしてそんなに俊賢にちょこちょこ厳しいのwwwまぁそれで救われてる命がここにある…w


(俊賢致仕の話題)
但し、一度侃々諤々と渡り合う機会の到来にあえば、上表も「可慎年」も一瞬に脳裏から吹き飛び、俊賢は乗り出してこずにはおれなかったのであろう。
そしてこのような点こそ、良くも悪しくも俊賢の真骨頂であったのではなかろうか。

実は私この侃々諤々(かんかんがくがく)がずっと何と読むのか分からなくて、Googleレンズで撮ったら超簡単に出てきたっていう…

侃々諤々とは、ひるまず述べて盛んに議論するさま、
とのこと。

つまり俊賢は自分がまた政治の場に出れる機会があれば意気揚々と躍り出てくる、ということでしょうか。
これは刀伊の入寇の後日談、高麗の使者が刀伊に連れてかれた日本人捕虜を送還してくれた話題に対して俊賢が「あまり高麗の使者に我が国を見させては、国の強弱を量り、衣食の乏しい事を知るであろう」と実資に書状を送った話を受けて。

この時俊賢は致仕をゆるされてたみたいで刀伊の事後処理陣定には出てないみたい…だけど、意見を言う機会が与えられたからノリノリで意見した
…って感じかな?

        良くも悪しくも俊賢の真骨頂

めちゃくちゃ面白いな…先生……


あと俊賢と行成の関係に言及してた個人的ナイス先生!な文章があって、長いので漫画にまとめたのをば↓↓


 先生の文章は「世人の認める日常関係があったはずである」から「心の内なる〜」の部分で権記の引用から後は私の脚色なんですけど、

幼くして父を失った行成の内奥に巣くっていた弧寂と人の真実に対する渇望の念

俊賢もまた幼くして生母を失い、頼むべき父の失脚に遭った。俊賢は行成のうちにかつての自己の投影を見たのではないだろうか。
そして先に引いた古事談の逸話もまた、実は俊賢の心の内の底なる孤独と真実への憧憬と行成のそれに共鳴したことを示すものとして理解すべきではないだろうか。

とあるのだ………

ヤバくない???これが偉い先生が書いた論文(でいいのか)なの凄くない????

あと俊賢が行成に君のために吉夢を見た〜と言ってきたこととか、実資の敷地に沸いた泉を見に行って(不法侵入)お礼に「大瑞」を予言する”愛想”を振りまいてること。これが先生によれば

俊賢が好意を表現する際の癖の一つ

かもしれないという事です。

なんですかその動物の性質みたいな、観察日記みたいな物言いはwwww動物の求愛行動か


 源俊賢(ヒト科ホモサピエンス)

貪欲で自己売り込み癖が強い。自分の能力を過信ぎみ。

好意を持った相手に対して大袈裟な事を言う。

こんな感じか…(悪ふざけしてごめん)
余談ですがホモ・サピエンスをググッたらラテン語で「賢い人間」という意味らしいです。
俊賢にピッタリ

もし俊賢に大袈裟なことを言われた方は「あっこの人僕のこと好きなんだ!」とでも思ってあげてください()

あとその後先生が
”俊賢のかなり大袈裟なものの言い方が感じられ、このような所からも、俊賢の

世俗的性格の限界がうかがわれるように思われる。”

ってwwww
もうツッコミどころしかない…wなんだ俊賢はこの世の人間じゃないのか(爆)


そして「おわりに」のあとがき部分の言葉一つ一つが全部良すぎて引用してきたい……

権力者に対し、「勤公勝人」であれば、傍観者から「貪欲謀略其聞共高」といわれることも憚らなかった。
しばしば讒言を弄して「悪念罵辱」の的ともなった。
畢竟口舌の徒であって、数寄に遊ぶ風流も、人を容れる態度もついに彼のものではなかった。
これが十一歳の時に筑紫に流される父の車の後を、馬に乗って追った少年の、その後の必死の生きる努力によって到達した限界であった。

しかし、筆者は俊賢がその少年時代に体験せざるを得なかった致命的な衝撃ー人間性の真実への不信ーからの恢復、換言すれば、真実への渇望が心の奥底に潜在していたことを、せめて彼のために信じたい気がするのである。

めんどかったけどほぼ書いちゃった……(指が死んだ)

ここ読んだ時なんかもう壮大な小説読んだみたいな気分になって、これが私の追い求めてた俊賢だなぁ……
って泣きましたね。

俊賢ってね、そうなんすよ分からない人には永遠に何でそんな事するんだろうって思われてただろうなって(当時の人的には)感じるし、ある視点に立てば俊賢って悪役じゃないですか…?
人は誰しも何かしらの信念があってそれに突き進んでるから拗れや疑心が生じ、それによって政変が起きたりするのだろうし、俊賢自身も幼い頃に安和の変に巻き込まれ「狂」的な歪みが生まれて、大人になってそれを「する」側に回る…のがまたなんというか。人生って、人って奥深い生き物だなぁと思いますし、業が深い。

誰かに後ろ指さされようと、己の信念と野望は忘れない、そんな男源俊賢はたぶん好かれる存在ではなかったかもだけど、そんな俊賢に一方的に好意を寄せられそれに応えてくれた行成、ありがとう…って心から言いたい。

先生の「せめて彼のために信じたい」がまた何とも…w辛辣の部類に入るのかな?と思うんですが、先生こんなに書いといて次の公任の章では

自らの才覚で道を拓いてゆかなければならなかった

なんて言ってるんですから隅に置けないですねーー!!


嗚呼また簡単にすまそうと思ったのにこんなに書いちまって5000字いっちゃった…俊賢ってマジでずっと語れる(書ける)。誰か酒くれ!!




書き出したら長くなってしまったので一旦切りますが、 「古事談」の俊賢もそんな感じでエネルギッシュだという事を論じた三原由紀子氏の『古事談の醍醐源氏たちー俊賢と資綱の場合ー』という論文がありまして、それも紹介したかったんですがこれを書いてる間にやっぱ投稿しなくていいか……と4ヶ月放置してしまって。
これもまた本当に心躍る論文だったのですが、記事書く熱量がここで尽きてしまったので締めます!

大河にもチョロっと俊賢が出てきだしたので、誰かに読んで貰えたら嬉しいです。


ps:長々とニッチなnote、読んでくださりありがとうございます。五体投地。

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