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札幌で一番わかりにくい直売所『かわいふぁ~む』川合浩平さん【北海道の生活史 #02】(廣岡俊光)

北海道にかかわる
さまざまな人たちの
パーソナルな語り。

なにかを代表するわけでも
なにかの縮図でもない
その人自身の語りを
どこかに残したい。

そんな思いで
始めました。

『北海道の生活史』

■ ほんとは東京にいきたかったんですけど。たまたま受かっちゃったんですね。でもめちゃくちゃ出たかったですね

 出身は札幌です。西区・宮の沢です。ちっちゃいころは林のなか走り回ってました。宮の沢で生まれてそのままそこにいて、大学卒業してから東京に行ったんです。

 高校は(札幌)西陵で。あんまり遠くに行きたくなかったんですよね。地下鉄に乗って高校行くなんてありえねえって。宮の沢で住んでたの山の上だったから、地下鉄におりるまで結構かかるんですよ。そういうのめんどくさいなと思って。自転車で通えるところで、ぼくの学力で問題なく行けるところ。坂だから足ぱんぱんになりましたよ、競輪選手じゃないですけど。足腰がすごく強くなりました。山からおりて西陵のほうの山に上がるからなかなかきつかったですね。

――部活はなにかやってましたか?

 吹奏楽やってました。楽器はチューバです。中学の吹奏楽部がいつも全国行けるかいけないかの強豪校で。宮の丘中なんですけど。ぼくのときはいけるかいけないかで、ぼくらが卒業したあと、先生が変わって全国にいったりしたんですけど。すごく燃えてるところで。ぼくの友達が吹奏楽入って、なんか男がいないみたいで。ぼくの友達ふたりはラッパに入って、チューバやるやついないって。自分でやればいいのに「やるやついない」っていやおうなしに入れさせられるみたいな。ずるいんです(笑)。全国はいけなかったんです。ずっと3位とか4位どまりでした。上位2つがいける。札幌はサクッと上がって、でも全道から全国にはいけなかった。

――高校入ってからも吹奏楽は続けたんですか?

 そうですね、近い高校だったから部活の先輩が多くてそのまま流れで入っちゃって。そこまで強くなかったんで。全道にいける?くらい。ぼくらの前の先輩たちは人数いたからそれで全道にいったり。でも全国はとても狙えない状態だったんで。だから自由にやってましたね。

 大学は札幌。ほんとは東京にいきたかったんですけど。たまたま受かっちゃったんですね。でもめちゃくちゃ出たかったですね。

――なんで出たかったんですか?

 もともとウチのおやじが大学時代を東京で過ごして札幌に戻ってきた人で。余市出身なんですけど。けっこう苦労人だったんですよ。東京いって新聞配達とか住み込みでしながら、すごい苦労したらしいんですよね。それで「いっとけ」みたいな感じだったんですよ。

   でもちっちゃい頃に亡くなったんですよね。で、いけっていうのが残ってて、それでいきたかったんですよ。でも経済的にも考えたら厳しいし、それで受かったしいくかみたいな。


■ バイクって死にやすいから「いつ死んでもいい」と思ったらバイク乗ろうというのがあって

――大学生活はどうでしたか?

大学生活は、ひどかったですね。遊んで遊んで。5年通いました。バイクにすごいハマってて、バイクサークルに入ったんですよね。バイク乗るためにアルバイトたくさんするっていう。

 バイク好きな人の集まりみたいな感じで、乗りたくて入るみたいな。北海道って18歳までバイク乗れないんですよね。道外は16歳で乗れますけど。乗れないし免許とれないので、ツテが無いんですよね。高校卒業して「さあどうやって乗ろう?」みたいな。まわりに乗ってる人がいなかったら教えてももらえないし、そういうのでサークル入っちゃって。

――高校時代からバイクに憧れがあったんですか?

 乗ってみたい、大学入ったし乗ってみるかみたいな。先輩がたはみんな持ってましたね。そしてそこにはもっとツワモノの先輩がいて。大学生活5年じゃ終わらないよ、8年フルでいくよみたいな。そういうひどい人たちがいて、逆によく5年で出られたなと思います。

――初めてのバイクは?

 入ってちょっとしておさがりみたいな。他の大学の人がたまたま乗らないよって。それで払い下げてもらって。その頃、自分の変なこだわりがあって。バイクって死にやすいから「いつ死んでもいい」と思ったらバイク乗ろうというのがあって。

 ウチのおやじが死んだからかな。死が身近にあるイメージで。変な人生観を持つんですよね。親戚がすごく多くて、ちっちゃいころから葬式にでることが多かったんですよ。それでか知らないですけど。そういう時って周りの人は悲しむじゃないですか。それを見てて「死んじゃいけねーな」っていうのがあったんですよ。

 ぼくが入ってちょっとしたくらいで、先輩がバイク事故で死んだんですよね。走り屋だったんですよ。走り屋、その頃下火にはなってたけどまだいる頃で。山とかで走ってる人たちもたくさんいて。で、亡くなったのがあって、それから余計「バイクって死ぬもんだな」って。かっこいい、面白いだけじゃないなって。それからバイクと距離をおくことがあったんですよ。

 車よりも確実に死が近い乗り物だなと。普通歩いて生活してると死ってあんまり身近じゃないけど、バイクに乗ると身近になるなと。車はまだ囲まれてますもんね。バイクって囲まれてないので、車がぶつかってきただけで自分は飛ばされる。うまく転がれればいいけど、なにかあったらそれで終わり。

――バイクに乗る人ってみんなそういう意識があるものですか?

 特別なんじゃないですかね。最初はあるけどみんな慣れて鈍っていきますよね、そういう感覚って。それをすごい感じたんですよね。

――バイクにはいまも乗ってるんですか?

 いまは乗ってないんですよ。でも、この前買ったんですよね。いま直してます。畑を始めて一回やめて。バイクに乗る時間がないくらい忙しかったんですけど。ひとくぎりついた時に、なんか「乗る!」って。乗る時間ないかもしれないですけど、ちょっと時間があいたら。小林峠分かります?小林峠すぐじゃないですか。学生のとき結構走ったんですよね。あそこまで行って帰ってきて30分くらい。こんないいところにオレいたんだなって。全然見えてなかったなと思って。30分で行けるんなら気晴らしになるなと思って。乗る時間あるかわからないけど、でもやりたいなと。

 そういう時間がなきゃダメだなと思って。畑ばっかりやってると、ほんとそればっかりになるんですよね。たくさんの種類育ててるので、その都度収穫する場所もタイミングも世話するタイミングも全部ばらばらなので、すごい気張ってるんですよね。「いまはこれやんなきゃダメだな」「これやんなきゃダメだな」って。そうなっていくとグーっとなっちゃって、それしかできなくなるから、いっかい俯瞰的に見る時間も必要だなと思って。車を運転するとかでもいいんですけど、それだったらちょっと物足りないし、風を感じる時間が必要だなみたいな。そういう時間を取り戻そうと思って。こころの余裕がそこで生まれるかどうか。

 いま買ったやつが分解されて家の倉庫にまだあるんですけど、ほとんどバラバラになってるんですよね。ひどくて。買ってからびっくりしたんですけど。全部手を入れなきゃいけなくて。もっと簡単に直して乗るはずだったのに、まだバラバラの状態なんですよね。もうそろそろ乗り始めたいんですけど。

――バイク好きな人って、組み立てるのが好きな人が主流なんですか?

 分かれますよね。乗るのが好きな人と、いじるのが好きな人に分かれてくんですよね、バイクって。乗るのが好きな人はバイク屋さんに預けるし、いじるのが好きな人はプラモデルをいじるような感覚でバイクをいじるようになるんですよね。ぼくは乗るのが好きなのに、いまバラしてる(笑)。ホントにストレスですよ。「これまじで?」って。分解しちゃってほっとくと組み直し方を忘れるんですよね。例えばここにコードがこう来てて、コードを通してからこれをつけなくちゃいけないとかあるんですけど、全然忘れるんですよ。2カ月くらいバラしたままになってるんで。ネジがひとつ余ったりしたら、また外さなきゃいけないんで。おそろしい。でも面白いですよ。

 バイクのほうが車より全然危ないですけどね。車ってタイヤが4つあって、ブレーキが1つダメになってもあとの3つでカバーできるけど、バイクは前と後ろしかなくて、前がきかなくなったら、後ろってブレーキのきき悪くて簡単に止まれないんですよ。前のブレーキがダメになったらそのまま突っ込むしかない。バイクのほうが本当に危ない。本当に死ぬぞって感じ。


■ オレ何作ってるんだろって思うようになったんです。期間限定のごみを作っている

――大学を卒業したら、いよいよ念願の東京ですか?

 いや、それがですね。就職活動とか全然しなかったんですよ。めちゃくちゃ氷河期で全然なくて。2月くらいから就職活動始めたんですよね。でもまわりも決まってないし、いいかなって。就職課とかも素通りしてました。たまたま就職説明会みたいなのが2月か3月にあって、外資系の生命保険会社のリクルート担当の人がすごいいい笑顔してて。すごいなこの人と思って。この笑顔はすごいぞって。時間もなかったし「いいんすか?」「おいでおいで」って決まっちゃった。おやじの生命保険で大学行けたというのもあったりして。

 きつかったですね。そのときちょうど協栄生命がつぶれて、ジブラルタルが買ってっていう。破綻してるからだいたい積み立ての保険とかやってる人はみんなすごい減額してるんですよ。一千万が何十万とか。まず怒られるところから始まって。あとは紹介紹介でお客さんをつなげていくみたいなスタイルだったんですよね。そもそもそんな保険に入れそうな人なんていないじゃないですか、学生から卒業していきなり。だから行くところもなくて。まわりみんな転職組で、新卒がほとんどいなくて。

 しょうがないから一軒一軒飛び込みして、みたいな。電話して。そういうのを何ヵ月かやったんですよね。最終的にインセンティブ、最初の3カ月だけは給料保証して、あとは自分で収益あげた分でカバーして下さいみたいな感じだったので、保険が取れないとどんどん無くなっていく。で、辞めることにしました。入ってから1年も経ってないですよ。

――金銭的にきつかった?それとも精神的にきつかった?

 両方ですね。あと北海道が景気悪かったから、東京のほうが良かったので「これチャンスじゃない?」と。それで東京に行っちゃおうと。あては無かったですけど、死んだ親父のお兄さんが東京にいたので、そこに少し居候させてもらって、そこで就職活動をして決まって一人暮らしを始めたんです。

――決まったのはどんな仕事だったんですか?

 広告代理店の営業です。小さい会社だったんで、代理店の顔を持ちつつ、大手からは制作を請け負う、制作みたいな顔もあったりして、色々やってるところでした。流通関係に強くて。

 最初上司につきながらやって、そのうちひとりで任されて。めっちゃ楽しかった。もう『やりがい詐欺』じゃないかっていうくらい(笑)。それぐらい楽しかった。金額も大きいし、裁量も大きいし、後半はひとりで全部回してる感じなんで、伝票だけ会社通して、やることは全部ぼくみたいな。ひとりで会社やってるみたいな感じだったからすごい楽しかったですね。

――東京に出て、世界が変わった感じはありましたか?

 世界は・・・変わらなかったかな。遊びに行ってというわけでもなく、どっちかっていうと仕事がくそ忙しかったんで、それこそやりがい詐欺ですよね。てっぺんまで会社にいて、通勤もいやだったんで、会社の車で帰って、次の日の9時には会社来てみたいな。大変ではなかったですね、ほんと面白かったから。体はどんどん調子悪くなりましたけど。おかしくなりましたね。後半はバイク乗ってたせいもあるんですけど、首のヘルニアになったり。学生の頃からバイクにハマりまくってたので、そのまま東京にいっても乗ってたんですけど、それがあだとなって。 

 ツーリングとかは全然行く暇なかったですね。たまにですね。向こうは渋滞しているところから抜けて、気持ち良く走れるところまで1時間とか1時間半かかるから、ほんと馬鹿らしいなと。それで気持ちいいところを1時間くらい走ったら、帰りにまた渋滞。バイクは若干嫌いになった、というかストレスばっか溜まってたんですよね、バイクに対して。乗れないって。で、体も壊しーので。

 首のヘルニアはデカかったですね。販促物とか取付物も見るから、上向くんですけど、上向いたら痺れてる右手がバキーンってなってすごく痛くなった。もう切り離したいくらい。まいりましたね。

 東京の代理店に6年近くいたのかな。そのあともう帰ってこようかと思ったんですよね。いろいろ体の調子が悪くて。コンビニ弁当ばっかり食べてるから、体がめちゃくちゃ臭くなったんですよ。20代中盤なのに加齢臭とかひどかったですもん。食と疲れなんですかね。体に悪い生活してましたからね。枕がくさいくさい。自分で気づくんだから相当だと思います。

   あとは睡眠時無呼吸症候群って、いまは診断出て機械つけて寝てるんですけど、東京の時は分からなくて。ちっちゃい頃から「いびきうるさい」とか息止まってるみたいに見えるって言われてて。それもあって疲れも取れなくて、土日休みだったんですけど、土曜日は一日寝てないと日曜日動けない。平日ずっときつい仕事して、一日寝てやっと日曜日に元気になるみたいな。

――行きたかった東京から北海道に戻ろうと思うんだから相当ですね。

 体を壊したのもあるけど、そこが農業につながってくるんですけど・・・装飾とか販促物ってたとえばひな祭り、クリスマスとかあるじゃないですか。そしたらその都度それに合わせて販促物を作って、当日に撤去してゴミにするんですけど、そういうのをたくさんやってるうちに「オレ何作ってるんだろ?」って思うようになったんです。『期間限定のゴミ』を作っている。考え方ひねくれてるかもしれないですけど、そう思うようになってきたんですね。

 クリスマスとかもすごい装飾するわけですよ。7月くらいから提案して、9月くらいには具材発注して組み上げて、だいたい11月の前半に点灯式をやって。で、12月25日の夜に撤去してゴミですよ。なにかイベントごとにゴミに。それがホントに嫌になってきて。

 別にぼくがいなくたってゴミを作る仕事は回るわけで、それだったらオレがやってる必要ないなって。誰もいない会社で深夜1時くらいにふと思って、それで「あ、ダメだな」って。そういう風に思っちゃったら、その思いがことあるごとにちょっとずつ出てくるんですよね。ふとした瞬間に。違う仕事で提案してても「これやってもいずれゴミだな」って思っちゃう。思っちゃうとちょっとずつ情熱が向けられなくなってくる。「何してんだオレ」みたいなのが少しずつあって。少しずつなんで、そんなに急激には変わらないですよ。だんだん。

 で、やめようと思ったんです。「実家で母親がそろそろ年だから、なにかあった時に近くにいられるようにしたいですし・・・」そんなことを言ってやめたような気がします。会社は大好きだったんで。なんだかんだで提案したら通してくれたので。

 それで北海道に帰ろうと思ったら、取引先の一社が「来てくれないか」と言ってくれて。これも何かの縁かなと思ってついついお客さんのところに行っちゃったんです。東京です。いや、帰る予定だったんですよ(笑)。

 そこはデパート関係で。やることは同じ感じですね。でもデザインして発注する側。楽しくなるはずだったんですけど、行ってすぐ粉飾決算が発覚してですね・・・「このタイミングで!?」って。リーマンショックが重なって。グループ会社の中で、ぼくが入った会社がまさに粉飾決済をやってて。気のいい感じのおじいちゃんがすごい損失を隠してて。「みんな給料減るぞ」みたいな。「入ったばっかでそれ?」みたいな。これは早く帰ろうと。それで帰ってきました。


■ あれも食べられるしこれも食べられる。あくまでも選択肢のひとつ。そう見てもらえたら、もっと平和になれる

――地元に帰ってきてからは何を?

 ちょうどその頃、転職業界が盛り上がってきてて、東京だったら35歳、地方だったら30歳が転職のリミットと言われてました。ちょうどぼく30ぐらいだったんですよ。ここ逃したら帰れないかもしれないと。一応実績もそこそこ持ってるし、行けるんじゃないかって向こう見ずで何も考えずに帰ってきたんです。そしたら「あれ、札幌すげー冷え込んでんな」と。2010年くらい。リーマンショック後で。面接行った会社も金額が桁違いなんですよ。「えっ、安!」って。こんな金額なんだと。予算とか下手したら5分の1とか。よっぽど東京が恵まれてたんだと気づきました。これでやってけるんだみたいな感じでした。

 で、募集してないところにも電話したりして。たまたま一社話を聞いてくれて、そこからの紹介で、資材の商社みたいな、販促関係の看板や装飾資材を扱っている会社に入ったんですよね。募集していないところにたまたま。

 で、札幌、旭川の支社に2年いて、そのころ子どもが生まれたんですよ。結婚は旭川にいるときに。で、子どもが生まれて、食のことを考えることになり。ここでやっと農業が(笑)。子どもができて食べ物を考えるじゃないですか。いろいろ考えるようになると、まぁいろいろ「え?」っていうのがたくさん出てきて。

 昔って食べ物って家で作るのが当たり前だったじゃないですか。それがいま食べ物って工場で作られるようになっていて、そこに違和感を感じるようになって。信頼できるものってあんまりないんだなと思うようになって、だったら食べるものを自分で作って食べさせたいなって。あとはものづくりが好きだったので、自分しかできないものづくりが農業とリンクしたっていうか。他のものは誰が作ってもいいんだけど、子どもに食べさせるものは自分が作りたいと思ってリンクして、それで農業と。

 食に関わってる人ってなにかで食を気にするきっかけがあるんですよね。まわりのひとの病気や自分の病気、あと子どものアトピーがすごく多いですよね。それで食べ物や洗剤を考えたり。そういう何かがあるじゃないですか。ぼくはそこだったんですよね。なるべく安全なものをって思いました。

――安全で『いいもの』を追い求めすぎた結果、それ以外を排除するような動きって世の中にありますよね。個人的にそれが少し怖かったりもするんですが…

 それは『多様性』で片づけられるなと考えていて。ぼくの野菜はほかのお店よりちょっと高いです。だけどそれって慣行栽培(増産のために化学肥料や農薬を使用し、大規模かつ効率的に栽培する方法)で安く作ってくれているからこそ、食糧難にならずにぼくの野菜も食べてもらえる。多様性のひとつとして見てほしいなって。食べ物に捉われてしまう人って排他的になって攻撃的になりやすいですよね。そうじゃなくて、あれも食べられるしこれも食べられる。あくまでも選択肢のひとつ。そう見てもらえたら、もっと平和になれるのになって思いますね。

――盲信するのではなく、多様性を認め合う。でも、良かれと思ってつい排他的になってしまう瞬間って、誰にでも起こりうることですよね。

 そういう風に思っちゃうと、心が健康じゃなくなるんですよ。人間のバランスって食べ物だけじゃないですからね。すごく食べ物が良くても、心にストレスがあったら結局不健康だから、そこのバランスですよね。時間がない人に「オーガニックで1から全部作れ」って無理な話だし、そんなことやってたら気が病むんで。時間ない時は、別にコンビニ弁当でもいいじゃないと。ただ時間あるときはこういうの食べたほうがいいよねって、そういうライトな考え方じゃないとやっていけないですよね。

 あとは金額だけじゃない部分っていうのも感じてほしいですよね。たとえばぼくの直売所で並んでる野菜って、だいたい当日獲れが多いんですよね。そうすると、レタスでもなんでもそうですけど、冷蔵庫の中で傷むってあるじゃないですか?でも、うちのって当日獲れだから全然傷まないんですよ。だから冷蔵庫に置く時間で傷んで捨てちゃうくらいなら、うちのを買って長く食べてもらったほうがお得ですよっていう。金額だけじゃ見えない部分も感じてほしいなって思いますよね。

――かわいふぁ~むの野菜は、なんで傷みにくいんですか?

 そもそも野菜が元気だからですかね。最近、土壌診断をしてる人が言ってましたけど、農薬を使ってるところって土がすごい痩せてる。うちはもうあんまり肥料を入れてないんですよね。入れなくても全然肥料が減っていかない。微生物がすごい豊かで、いまこうやって草がけっこうありますけど、こういうのが微生物のえさになっていい循環をしてるんですよ。という話をしていて。

 その人が土壌医っていう資格を持ってるんですけど「いやー、今回違うな」と言ってて、考え方を改めると。100カ所くらいやって傾向が分かったみたいです。無農薬のところを3つだけやったらしいんですけど、そこだけ全然違ったらしいです。

 病気になるならないはバランス。腸で言えば善玉と悪玉がいて悪玉が多くなると調子がおかしくなる。バランスですよね。土も微生物が豊かだと、育つコたちも影響されるので強いですね。キャベツとか無農薬じゃそうそうできないんですね。作ってもらったら分かりますけど、ホント葉脈しか残らないです。普通はできないです。ぼくもこの畑やるまえ市民農園借りてやったことありますけど、もうひどいですよ。この土だったらできるんですよね。

 うちの畑で喰われると喰われないの違いは、個々の強さ。たとえば同じキャベツをわーっと種まいて、並べて植えるじゃないですか。そうすると弱いやつが食べられるんですよね。強いやつは食べられない。弱いやつが食べられたらフェロモンを出す、そういう研究があるんですよ。フェロモンを出して「食べられたぞ」ってまわりのキャベツに知らせて、まわりのキャベツがワックス分かなにかでまわりを強くするんですよ。それで食べられにくくなったり。

 何でもそうなんですけど、弱いやつが食べられるのは自然の摂理じゃないですか。最終的な目標は子孫を残すこと。その子孫を残すためにどうするかっていうと、集団の法則、弱いやつが食べられても他が残ればいいと。まさにそれが畑でおこなわれてるんです。ここがやられたからってその周りが食べられるわけじゃないんですよ。慣行農業だったら、ここがやられたら周りもやられる。で、農薬をかけるんですけど、うちは弱いやつだけやられていくんです。

――弱いってどういう状況ですか?

 いろんな要因があって、種も『F1』っていってクローンみたいな作り方をするんですね。何かの品種と何かの品種をかけあわせて、子どもを作るんですけど、メンデルの法則分かります?優性の遺伝だけをうまく組み合わせて、形がよくて大きくて美味しいたとえばキャベツを出すんですね。それを掛け合わせたのをF1っていうんですけど、それを植えて。でもF1でも強いやつがいたり弱いやつがいたりするんですよ。それでもダメになるし。

 あとは土。ここの土とそこの土が同じかといったらそんなことないんです。近いけど状態が全然違うんですよ。肥料だけでも変わるしいろんな要素があるんです。ちょっとこの辺がくぼんでて、雨が降ったときに水がたくさん入ってとか。ちょっと山になってるだけで水はけがよくなって、それだけでも全然水が入らなくなるんですよね。キャベツは水が好きだから、ちょっとくぼんでるほうが成育よくなるし。いろんな要素があります。それで見て相対的にダメなやつがやっぱり食べられやすいです。

――子どもの頃から、虫が選ぶ野菜は美味しい野菜だと思ってました。

 慣行栽培は肥料をたくさんあげる。化成肥料は人間でいえば血となり骨となる栄養素じゃないので不健康になる。不健康になると虫が来る。食べられるから農薬を増やさなきゃいけない。そういう悪循環になる。健康な土であればそういうのはいらないです。

 あとは時期もあります。うちキャベツは主力は夏前なんですよね。その時は食べられにくいんですよ、虫が少ないんで。暑くなればなるほど虫が活発になるので、活発になる前に収穫しちゃう。活発になってきちゃうと品種を変えて、春キャベツはやわらかいんですけど、そのあとは堅いキャベツになるんですよ。ワックス分がちょっと強いやつ。そうすると虫があんまり食べにこないんですよ。そうやって変えながら。あくまでぼくの考え方ですけどね。でもそれでうまく回ってます。


■ ぼくのやり方は特殊すぎるんで、もうちょっとまわりに馴染むやり方のほうが。これまわりに馴染まないやり方です(笑)

――畑の広さってどれくらいあるんですか?

 1.7ha。札幌ドームの1.3個分くらい。札幌ドームより広いです。このエリアだと小別沢だと広いほうですね。そもそもこの辺はハウスやってる人が多いので。露地ではこの広さではやらないですね。もともと前にここを借りていたところに、ぼく研修に入ってて・・・

――えっと、研修ってなんですか?

 農家になるには研修しないとなれないんです。やったことない人がいきなり畑借りてもできないじゃないですか。そのために技術を習得する時間が必要で、それが研修なんですけど。農家は研修しなきゃなれない、なおかつ農地もなければなれないんです。農地法の変なあれで、農家になるには研修しなきゃいけないし、農地もなきゃいけない、農地を借りなきゃいけない。でも農家にならないと土地は借りれないんですよ。よくわからないんですよ。結構大変なんです。要するに研修を終わった時に農地があって初めて農家になれるんですけど、そのタイミングが合わなかったら農家になれないんですよ。見つからない人は頑張って土地を探す。就職浪人みたいな感じですよね。大変だったんですよ。

 ここ最近は空き始めてるので。本当にいま平均年齢がすごく上がってきていて、この辺の農家の方って80歳超えてるんですよ。だからいよいよ代替わりっていうか。後継ぎがいないところもたくさんあるんですけど。やっとそういう時期です。

――農地を借りたい人のなかに、若い人はいるんですか?

 たぶんいると思います。そんな多くはないでしょうけど、でも借りたいっていう人にとっては借りやすい状況になってきてますね。ぼくが就農した時点は全然なかったです。農業が少し流行り始めたというか、新規就農したい人はいたんだけど、畑が全然あかなくて。畑浪人になるところでした。

 ここを前に借りていたところに研修に入っていて、ここに研修中もいたんです。で、そこが仁木に土地を買うっていう話になって、それで借りられたんです。助かりましたよ。オーガニックの畑を新規就農で借りられるってたぶんないですよ。ぼくぐらいじゃないですか、札幌市でも。なんとか新規就農できても、オーガニックを目指してたまたまオーガニックの畑を借りられるって、ないですね。

――すごくレアケースなんですね。前の借主が化学肥料をかなり使ってる農家さんだったら、オーガニックをやるのは大変でしたか?

 土にだいぶ変わってもらわなきゃいけないんで、めっちゃ大変です。やっぱり簡単にはいかないですよ。奇跡みたいなタイミングでしたね。すべてがうまくいって今があるみたいな。タイミングちょっとずれてたら今なにしてるか分からないですよ。

 研修もそうでしたね。研修もここで受け入れてくれなかったら、研修もできなかったですもん。農家で基本研修を受け入れるんですけど、研修を受け入れる農家が札幌はすごい少ないんですよね。で、農政課に行ったら「研修先はここだよ」みたいな。農政課がお願いして研修を受け入れてくれている農家さんがいくつかあって紹介されたんですけど、当然オーガニックではないですし。「あとは自分で見つけて」みたいな。

 自分で見つけるしかないな、でもオーガニック自体札幌ですごく少ないし、どこかないかなと思ってたら、ここの話を誰かから聞いて電話してみて「研修したいんです」っていう話をしたら「いいわよ」って言われて。社長の奥さんだったんですけど、すぐOKしてくれて決まっちゃったみたいな。

 それまでめっちゃ悩んでたんですよ、地方に行くしかないかとか。基本は地方って産地だから、ピーマンだったらピーマン、トマトだったらトマトをやってくれる人を募集してて、オーガニックの農家はいらないんですよ。ましてや少量多品種の人なんかいらないって感じで。あと貯金は800万くらいはないと無理だよと。初期投資にお金がかかるので。それぐらいあったらあとはうちの農協で貸し付けるよとか。それで何とか1,500万いくからそれでハウスたてて、機械買って、始めてねみたいな。そういうものなんですよね。

――新規就農って大変なんですね・・・

 いまはちょっと楽ですよ。ほんと畑あいてきてるから。

――新規就農の希望者が、河合さんのところに相談に来たりしないですか?

 たまに来ますよ。「やめたほうがいいよ、大変だよ」って言いますけど。実際に始めた人もいます。ぼくのやり方は特殊すぎるんで、もうちょっとまわりに馴染むやり方のほうが。これまわりに馴染まないやり方です(笑)。

 農業をやりたいっていうか「何をやりたいか」ですよね。ぼくみたいに子供に食べさせたいってなると、いろんなもの作りたいってなるし、収入をあげたいんだったら、トマトとか一品種のほうが全然効率が違うんで。機械も1セット揃えればいいんですけど、ぼくの場合機械だらけですから。あれにはこれ、これにはあれって。そういうこと考えると正直アホらしいですよ。

――作物ごとにスケジュールも違うでしょうし、本当に大変そうですね

 そもそもスケジュール帳がないんで。全部自分の頭に入ってて「これだったらここだな」って。畑回ってみて、ここ草ひどくなってきてるから「先にここだな」とか。そういう感じです。だからほんとずっと畑歩き回って、それもいかに効率よくできるかを考えるんで。

 たとえばそこにいまふたばが出てきてますけど、そのふたばくらいだったらまわりの草が小さいから、一回除草しちゃえば大体10日か2週間くらいはそのままでいけるんですよ。でももうちょっと大きくなっちゃうと、今度一回ホー(鍬に似た形状の除草用農具)を入れても入れにくいから、いいタイミングだったら1時間でできる作業が2時間半かかっちゃう。2時間半やったあと1週間したらもう一回やらなきゃいけなくなる。だったら1回目のいいタイミングで1時間半で終わったほうがいい。そこを考えてやるんですよね。

 諦めるところはいさぎよく諦めます。「あー、もうだめだ!」とばっさり草ボーボーにしちゃいます。種まきしたところを草ボーボーにしちゃったらその時間はもったいない。おこして種まいてっていう手間はもったいないですけど、そこから先の時間を考えると諦めて、新しく種まこうとか。

――その感覚や知識はどうやって身に付けたんですか?

 観察力です。ひたすら観察。畑によって草のはえかたも違うんで。「ここの草だったらもうちょっと待てるな」「ここは早く取っとかないとまずいな」とかあるんですよね。そういうのを考えつつ、職人みたいな。ベースになるのは研修のときに受けた知識ですけど、それだとすごく効率悪いんですよね。研修では草を手で抜いたりしてたんですけど、手で抜いてひとりでやってたら、ここから向こうのハウスまで半日やったって半分も終わらないですよ。それはちょっとなって思うじゃないですか。それでどうしたらいいかなって考えて。で、道具を使う。その道具もどう使えば効率いいか。トライアンドエラーでどんどんやって今にいたってます。


■ いまやっと捨てられたごみを減らす方向にいけてるなと。罪滅ぼしじゃないですけど。そういう気がします

 土壌医の勉強をしてたんですよね、農家になるときに。なりかたも分からないから、とりあえず「農家に必要なものなんだろう」と思って。で、まず「土の勉強だな」と思って。その時にたまたま土壌医っていう資格が新設されて「これ勉強してみよう」と思って。

 土壌診断とかよくやりますけど、ああいうのって全部が全部は分からないんですよね。土壌診断って偉そうにいってますけど、そんな大したことない(笑)。土の成分、肥料成分は分かるんですけど、じゃあそこでその通りにやっても作れなくなる時ってでてくるんですよね。それはやっぱり微生物なんですよ。土壌診断通り作ってても途中で作れなくなって、そうすると「堆肥入れましょう」ってなるんですよね。「え、なんで?」って。その通りにやっててなんでダメになるんだと。客土しましょうとか、土入れ替えましょうって。リセットしましょうって。

 で、微生物のことが気になって調べたら、土のなかの微生物って8割がた知られてないって言われてるんですよ。それぐらい人間が分かっていることなんてちっちゃいのに、それをあたかも「これが全てです」みたいに言うのはおかしいなって思って、それもオーガニックに入るきっかけのひとつになったんですよね。

 経済活動でいろんなゴミって出すじゃないですか。農業でもなるべくごみを減らしたいなって思ってこういう農業になってます。例えば見てみて下さい、まちの風景。10年後、20年後、30年後残ってるもの何があるかなって考えたら、10年後これとこれは残ってるかな、20年後これ残ってるかな、30年後これしか残ってないんじゃないの。家の中でもそうです。

 そういう風に視点を変えてみたときに、すごい気づきってあるんですよね。これ全部ゴミになるの?これ日本ゴミだらけじゃない?これから先も続いていくんですよ、その時に世界は大丈夫かって思っちゃいますよね。日本だけじゃなくて世界中でおこなわれてるわけですから。全部捨てられて新しいものに置き換わってるわけですよね。誰かが作ったものが新しくそこに入ってるわけですし。そしたらえらいことだなって。あたらしいものの材料とか。

――若い頃に「ゴミを作っている」と感じた経験も、いま考えていることに影響していますか?

 そうだと思います。農業が面白いのはいろんな人のいらないものとか廃材も自由に使える、ごみを減らせる。面白いですね。創意工夫がしやすいというか。うちも周りで捨てられてるものをたくさん使ってますしね。たとえばそこにあるストーブも捨てられるやつだったんですよ。いまもう使わないようなやつでも、ハウスのなかをあっためるのには使える。このコンテナも。ありがたいですよ。いまやっと捨てられたごみを減らす方向にいけてるなと。罪滅ぼしじゃないですけど。そういう気がしますよ。

 それこそ多様性というか。プラスチックって必要不可欠じゃないですか。使わないわけにいかないですよね。だから結局、使い方ですよね。パンが入ってる袋はパンを食べるまでは必要なものだけど、食べ終わったらいらなくなるじゃないですか。そこですよね。発想ちょっと変えるだけでいいんじゃないかな。必要なものなんだから。

 あと日本は出口がないですよね。ヨーロッパだったら、プラにも1・2・3・4・5って番号がついてるんですよ。で、その番号によって回収が違って、用途が全部分かれてるんですよね。日本は雑多に集めて、輸出したり、今はあまり輸出もできなくなったから、焼却処分とか埋め立てとかしてますけど。そうじゃないよなって。もっと分けてリサイクルしやすくするとか。

 バッテリーとかもそうなんですよ。ちょっとしたものにも入ってるけど、いくところがないからそのまま燃えるごみに捨てたりする。あれって資源の無駄だし有毒な金属も出るし。出口があればみんなそこに出せると思うんですけど。バッテリー捨てる場所ないんですよ。驚いたんですけど。車のバッテリーは回収とかあるんですけど、中途半端なバッテリーって捨てるところなくて。指定されてる店に持っていってもやってませんよって。「どこ持っていけばいいのよ」って。

 そういうのすごくたくさんあるんだろうなぁって。よくないよなって思います。


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