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サイコパス3期感想とシビュラ社会の移民問題をめぐるあれこれ

※ふせったーに掲載していたのをここに格納します。若干加筆修正しました。
初出:2019/12/21

移民問題について

3期は日本が開国した以降の話で、移民問題がひとつのキーワードだ。

新しい監視官のうち、片方は厚生省高官の息子で出島育ち。もう片方はロシア系移民2世。鎖国により平和を保っていたシビュラシステム統治下の日本は転換期を迎える。
(令和元年放送の3期にいたってようやく気づいたが、たぶん象徴天皇制は廃止されたか、少なくとも元号は滅びているように見える)
しかしながら率直に言って、薄っぺらい。移民にまつわる描写が圧倒的に不足していたのが悪いのだと思う。

まず、開国に至った理由が説明されない。作中で徐々に明かされるのかと思いきや、全くそんなことはなく放送が終わってしまった。この分だと、劇場版で明かされるかも怪しい。
そして、推測させるだけの材料もない。移民を受け入れる利点がどこにも見当たらないのだ。では、開国政策に転じた理由は何だったのか。

シビュラシステムに慈悲はない。システムの頂点に位置する免罪体質者は精神異常者(psychopath)であり、他人への共感は基本的にない。彼らは現行法で罰せられない代わりに、永久的社会奉仕活動の刑を課された罪人である。
鎖国して国内の食料が足りなくなったから棄民政策を決行したようなシステムに、今更、人権意識など芽生えようがない。

そもそもサイコパスを至上とする社会において、人権なんてものは消え去っている。安全と引き換えに自由を制限されるディストピア、それが1期で描かれた世界観だった。
政情不安定な外の国からの干渉を防ぐために鎖国し、無人フリゲート艦で不法入国者たちを海に沈め、国内であぶれた人間を移民という体で海外へ捨てる。そういう、徹底した合理性と非人間的判断がシビュラだ。

現在の日本が移民の受け入れを拡大しようとしているのは、少子化対策のためと言っていい。やがて不足する労働者を補うために外から人を入れようとする。
引き換えに、大勢の移民が自分たちのコミュニティを形成して自国の文化・慣習が破壊される、治安が悪化する、福祉の分配が不平等になる、働き口を奪われる、などの問題・混乱が伴う。
いずれもヨーロッパで問題視され、今まさにイギリスがEUを抜けるかどうかで揉めている(これを書いている間に国民投票で離脱を掲げる現与党が大勝した)。

翻って、作中ではどうだったか。

まず、前述したように、なぜ開国したのかよくわからない。メリットがあるから開国するはずなのに、特にそれらしき説明が見当たらない(印象が薄すぎてわたしが忘れているだけかもしれないけど)。
少子化は歯止めがかかって、シビュラシステム統治下の日本は、地上に残された最後の楽園として繁栄している。シビュラの理念上、失業という概念は存在せず、また働き手が不足している様子もない。

そして、こちらが物語上重要なところだけれど、移民たちは何のデメリットも生じさせていない。ただ、肌の色、顔の造作が違う人間が町中を歩き、様々な職に就いているだけだ。治安の悪化も特に見られない。
人の美醜の評価基準が容姿からサイコパスに移行した作中において、外国人風の見た目が問題になることは本来ありえないはずだ。
朱が形容された「メンタル美人」という言葉が象徴するように、そして作中で美形のキャラクターたち(槙島や宜野座)がその美形を一切生かさないように、ルッキズムは滅びている。
(槙島や王陵璃華子の美貌がカリスマ性の象徴のように扱われている描写はあるが、視聴者にわかりやすくするための演出のようにも感じた)

一期の桜霜学園で生徒たちに先生(槙島の変装)をデッサンさせるけれど、どれもこれもひどい出来で、他人への興味を失った今時の子どもたちは人の顔をうまく認識できないという設定があった。
それに則れば、隣人がちょっと彫りの深い顔をしていようと、金髪だろうと肌が黒かろうと、そこまで問題になるのだろうか?

準日本人たちには徹底的な同化政策が行われる。移民が神主をしている設定がたしかGENESISにあったはずだ。日本の文化を教え込むから、かえって準日本人のほうが文化的伝統の担い手になる。読んだ時は、「これがシビュラの同化政策か!」と感銘を受けた。
日本語のみならず、文化的にも日本に同化するようにシビュラは教育する。彼らは日本国籍を許される頃には、ほとんど日本人になっているはずだ。

それなのに、どういうわけか入国者たちは差別されている。公には日本国籍を取得した入国者たち(準日本人と呼称されるのは「帰化日本人」よりはるかに残酷であるが)は法の下の平等を約束されている。

主人公の片割れ、炯・ミハイル・イグナトフは公安局刑事課の監視官にまで上り詰めている。この職は言うまでもなく作中では格別で、社会的地位が非常に高く、明晰な頭脳とクリアで強靱なサイコパス、そしてシビュラシステムへの忠誠を要求される。
国家公務員は日本国籍であることが第一条件で(少なくとも現在の日本においては)、炯が移民の子にもかかわらずその地位を獲得したことは、紛れもなくシビュラシステムの公平さを象徴する。
(たった数年で準日本人が社会に進出したのは、移民の就労規制が撤廃されたのだろうと解釈しているのが、はてさて設定はどうなっていることやら)

シビュラシステムの判定を至上とする社会において、それを疑うなんてありえない。第1話で霜月が言ったように、シビュラを疑うのは愚かしい行為だ。それだけで色相が濁ってしかるべきだろう。
それなのに移民への差別は公然と行われ、他ならぬシビュラシステム自身がそれを容認している。シビュラが間違っていると判定するなら、差別した側の色相が濁るだけだ。でも、そんなシーンはない。つまり、国民感情が移民を差別することは認められている。

ここで、世界観に矛盾をきたしている。シビュラシステムは自身に従わない者を認めない。システムの外(廃棄区画や海外)へ逃亡するか、システムの構成員として取り込まれるかのどちらかだ。
このあたりはオーウェルのビッグブラザーよりも、『素晴らしい新世界』の世界統制官的だと思う。

移民は潜在犯ではない。あの世界で憎んでいいのは潜在犯だけだ。精神衛生を最重要視する社会は、サイコパス以外の属性すべてを無価値とした。それは紛れもない、シビュラシステムの大きな利点であり、それによってシビュラの公平さは担保される。性別も人種も、サイコパスの前には等しく無意味だ。

だから、ひどい違和感だけが残る。

作中の時間軸をきっちり現実の100年後に設定するという手法から見て、作中には現実の日本が投影されている。SF作品にはよく見られる手法だが、現状そのままではなく、やがてたどるであろう未来の姿がそこには提示されている。
だから、遙か未来の出来事に対してもある程度没入することができた。わたしがもしそこにいたならと想像し、その環境下ならそう言う判断を下すだろうな、とも思えた。それが、移民問題については全くできなかった。
サブプライムローン問題を取り入れたあたりから、現実を未来に再来させ、時事問題として移民への差別を扱うつもりなのだと思っていた。結果を言えば、描写が現実とひどく乖離してしまい、どうしても拭えない違和感が生じた。現在でもその世界観でも、そうはならないだろう、と。

たぶん、3期の市民たちは、舞台装置としての群衆であり、生きている人間ではないのだろう。奇しくも1期の朱と槙島のやりとりにそのような箇所があった。飼い慣らされた家畜とて人間であり、踏みにじっていい存在ではない。
ストーリーを進めるためだけに登場し、それだけの役割を与えられる。確かにそこに生きているはずの彼らの人生なんて感じられない。

市民たちは文化も生活も脅かされているわけではない。何も変わらない。それなのに、市民は移民を排斥する。わたしたちはそれほどに愚かであったのだろうか。

移民としての炯について

炯の振る舞いもよくわからない。国家公務員にまで上り詰めるほど優秀なら、いっそ過剰なほど日本人に同化するのではないだろうか。

ところが、炯は移民への同情ばかり見せる。そこがとても不思議だ。罪を犯したなら、たとえ同情すべき弱い立場の人間だったとしても、相応の罰が下らなければならない。ドミネーターを握る立場の人間が、それを理解しないのはおかしい。
むしろ、そんな移民と自分は違うのだと線を引いて、嫌悪していてもおかしくない。潜在犯の息子だからこそ潜在犯を嫌っていた宜野座のように。

炯が殊更に日本人であろうとして、自らが移民を排斥する側に回っているほうがリアリティがあると思う。そのほうが、理想的市民であるはずの監視官が心の内にひた隠しにしてきた劣等感と嫉妬と憎悪と自己嫌悪を詳かにしてゆく感じの鬱展開を持ってきやすかったのではないだろうか(わたしが見たかっただけです)。

炯の立ち位置は、サイコパスは遺伝によるものではないと確定させなければならないという点で、宜野座ととてもよく似ている。二人とも、親の属性という先入観が人生に影を落とし続ける。
宜野座は、父親が潜在犯だから、自らの曇りなきサイコパスで犯罪係数と遺伝の関係性を否定し続けなければならなかった。炯はサイコパスに人種は関係ないのだと証明し続ける必要がある。

実のところ、作中でサイコパスに遺伝性があるのかどうか明言されていない。
1期で宜野座が局長に「犯罪係数と遺伝の関連性は証明されていないが、父親のようにならないことを期待している」なんてことを言われていたのに、1期ラストで宜野座は父と同じ道を辿って否定に失敗してしまった。
つまるところ、犯罪係数に遺伝的関連性がないと証明できていないのだ。

移民への差別としてひとつ考えられるのは、そこだ。シビュラシステムが担保する公平性は、同質な日本人の中でのみ適応される。そういう解釈も可能かもしれない。

3期のシビュラ社会は、「準日本人」という言葉に代表されるように、長年の鎖国で醸成されたムラ社会という印象を受ける。血統主義は決して滅びていないどころか加速し続け、しっかりと根を下ろしてしまっている。成熟した高福祉社会は血縁を必要としないにもかかわらず。
「為しうる者が為す」を掲げるシビュラシステムは、移民だろうが潜在犯の子どもだろうが、適性さえあれば職を制限することはない。
にもかかわらず、いまだ血統主義は背後に息づいている。 

たぶん、家族が今と同じ形態を保っているからだろう。
核家族が基本ではあるけれど、『素晴らしい新世界』のように子どもは人工授精で生まれて施設で育てられるわけではない。「親」という概念が滅びるほど、社会は時を進めていない。
生殖医療の描写がないからわからないけれど、そのあたりを現状と同じにしているのも、未来を現在と錯覚させる要因になっていた。

シビュラシステムは公平な社会を実現しつつ、市民たちには前時代的な感覚が残る。建前では平等だが、その裏では村八分していて、シビュラはひっそりと見逃している。
その線で話が進んでいたのなら、それはそれでおもしろかったのかもしれないけれど。


それと、炯の設定について、ひとつ言っておきたいことがある。彼は移民2世とは通常呼ばない。2世とは、親世代が(普通は成人後に)移民した後にその国で生まれた子どもを指す。幼少期を紛争地帯で過ごしたという炯は、いわゆる移民1.5世だ(侮蔑的な意味を含むのでおおっぴらに使ってはいけません)。そして思春期に再びロシアに渡り、軍隊に入っていた。どう見ても2世ではない。

その経歴だと日本語がおろそかになって、公安局の適性が出るほどの日本語母語話者相当の能力を得るのは難しいと思う。出島にインターナショナルスクールがあったからシビュラがロシア語の教育を許しているかもしれないが(これも世界観に合わない。海外に出る必要がないはずなのに母語を維持させるなんて、どういうこと?)、やはり炯がロシア語・日本語のバイリンガル(おそらく両方の言語をほぼ完璧に話せるbalanced bilingualなのだろう)なのは、だいぶ無理がある。
この手の話で論文を書いて現在バイリンガルのわたしが断言する。かなり、無理がある。まあ、こういう設定は創作によくあることなので、今更突っ込むのも野暮なのだが(個人的に、こういうことで嘘をつくのが許せないだけです)。

長々と書いたが、結局のところ、移民問題はエッセンスに過ぎない。本題に据えるつもりもなかったのだろう(だからといって無知、無関心が過ぎるが)。だったら、炯をロシア系移民2世にする必要もなかったのではないか。最初から人種差別を明確に描いていたのに、特に深掘りされることもなくて、なんというか、無駄だったなと思う。
今まで作り上げてきた世界観を自分で壊していくのは、好きなシリーズであったからこそとてもつらい。

シビュラシステムとビフロストについて

小説を読んだ限りでは、シビュラは神権政治、ビフロストは王権神授説に基づく王政、という捉え方ができると思う。
シビュラは言わずもがな、アポロン神殿の神託の巫女。告げる言葉は託宣であり、ただの人間に逆らうことは許されない。ラウンドロビンはAIであり(小説の冒頭で明かす程度の情報なら、アニメの中でしっかり明言すべきだっただろう)、ビフロストの三人が世界を影から牛耳る。

ビフロストの由来はどうやら北欧神話で間違いなさそうだ。神の世界へ渡るための虹の橋。
神の世界とは、すなわちシビュラ。

古き神=巨人族という表現が小説に登場するから、北欧神話のように神々の黄昏をもたらし、人が神から社会の統治権を簒奪する、そして自身が神になるという筋書きではないかと思う(もしそうなら、Fateシリーズのギルガメッシュ王とちょっと似ているなとも思った)。
朱が目指すのは立憲民主主義であったから、そこにシビュラとビフロストを加えて三竦みにするつもりなのかもしれない。

ただ、ビフロストを描くためにシビュラシステムを矮小化したのが、すべての失敗の始まりに見える。

超監視社会としての世界観は完全に崩壊している。犯罪をたくらんだ時点で犯罪係数が上昇して捕まるのが、あの社会の治安維持の仕組みだったはずだ。
それは、1期冒頭でストーカーになりかけた男を即座に捕まえて施設送りにした描写で明らかだ。でなければ、槙島のヘルメットは必要なかった。刑事課が三十人足らずで都内の安全を守ることも無理だ。

ビフロストのメンバー全員が免罪体質でなければ説明がつかない。しかし、免罪体質者の灼が「ビフロストに匹敵する」のであれば、これも違うのだろう。3期で何も明かされなかったのは、相当に不味かったと思う。

シビュラ社会の良さが全くと言っていいほど出てこなかったのも、リアリティの欠如に繋がる。
どんなに免罪体質者を犯罪者と嫌悪しようとも、部屋の電源を落とせなかった朱の苦渋の判断はどこへ行ったのだろう。
最大多数の最大幸福、それが全く見えない。オフィシャルプロファイリングで、市民の9割は幸せな生活を送っていると書いてあったのは、わたしの幻覚だったのだろうか。

サイコパスシリーズの真の主人公は、シビュラシステムであると言っても過言ではない。
シビュラシステム統治下の社会がどのような道筋をたどるのか、その社会に生きる人々はどのように未来を選択するのか。わたしはそういう物語であると思っている。
1期、2期の主人公・朱は物語の視点であって、途中で降板しても構わない。3期の主人公入れ替えにはたしかに少し驚いたが、そういうやり方もありだな、と受け入れることができた。
それが、どういうわけか3期では、ろくな説明もなくシビュラは弱体化させられた。デュストピアと一体化したユートピアとしての側面は失われてしまったように見える。

映画SSから何のつなぎもなく、唐突に、シビュラは無能と化した。

シビュラ社会は今のわたしたちにとってはディストピアかもしれないが、そこに生きる人々は、独房の中で自分だけの安らぎに飼い慣らされた家畜であろうと、ゆりかごで眠り続ける幼子であろうと、荒廃した世界の中では間違いなく繁栄している。

ビフロストの設定もよくない。シビュラに先んじる存在であるとほのめかされているが、後付けでそういう設定を出してくるのは嫌われやすい(SHERLOCKシーズン4のシェリンフォードを思い出してちょっと苛ついた)。
新しい敵の強大さを演出するために既存のキャラクターを下げるのは、古参ファンの反感を買うのは当然だ。
個人的には、シビュラに従いたくない者たちが影でラウンドロビンとビフロストを作り上げて、シビュラの目を盗んで経済活動を通じて社会を動かしている、くらいが落としどころだったと思う。

灼と免罪体質者について

もしかしたら、灼のメンタルトレースはサイマティックスキャン技術のメタファーであったのかもしれない。
舞台装置だから細かいことはさておき、メンタルトレースの原理は、カウンセリングと投薬の組み合わせで色相を浄化するメンタルケアの応用なのだろう。
灼が免罪体質者だとすると、メンタルトレースは機械的な測定によらず生身で運用するサイマティックスキャンという見方も成立すると思う。
サイマティックスキャン技術はシビュラ社会の根幹をなす技術で、これを限定的にせよ生身で、しかも一人で運用できるとなると、システムに取り込むのではなく普通の市民のまま生活させる意義も見いだせる。

灼が免罪体質者でシステムの構成員たる資格を持つと発覚した今、「撃つかどうかは自分で決める、そのためにドミネーターには引き金がついているんだから」の意味合いが全く違う。
灼にはその判断を下す権限がある。灼はシビュラの一員として、その判断はシステムに多大な影響を及ぼすことができる。

灼は全然感情移入できない、何も信用できない感じがしたけれど、免罪体質者(psychopath)であるなら、見る側が共感できないのも無理はない(もちろん、掘り下げが足りないというのもある)。

メンタルトレースが「誰にでもできる」という発言は、己と他人の区別がついていないと見ることもできるのではないだろうか。
目の前の民間人よりも自爆テロをしようとする人間を救おうとするのは、システムに弾き出された側としての親近感を無意識に抱くから。
あるいは、免罪体質者としてシステムの外側から他人を見下ろすような視点でもって優先順位の判断がつけられない。自分以外は等しい価値があると思っている。博愛主義は誰も愛さないのと同じで、皆に等しく慈悲を与えているように見えて誰も特別ではないし、誰も愛さない。たぶん炯と舞子以外は。
灼にとっての炯と舞子は外付けの人間性だったのではないだろうか。

とはいえ、灼が本当に免罪体質者なのか、正直わたしは疑っている。 
免罪体質の証明は魔女裁判に似て、罪を犯さなければ確定できず、罪を犯した時点で当然、罪人になる。だから、罪を犯していない免罪体質者は存在しない。
しかしながら、何の罪も犯していない灼が免罪体質者なら、この定義そのものが揺らいでしまう。生命の危機のような極めて大きなストレスにさらされても犯罪係数が低下し続ける、もしくは犯罪係数ゼロも条件になり得るのであれば、朱も該当しかねない。
その辺の説明が劇場版で明かされるならいいのだが……。
1期を見ないで、もしくは忘れて脚本を書いているのなら、もう何も言うことはない。というか、下手な二次創作にも劣りそうなほど世界観を守れていないのって、プロの仕事としてどうかと思う。

集団的サイコパスについて

2期はなかったことにされるのかと思いきや、移民の多い地区で集団的サイコパスの計測が行われている(小説版より)。
シビュラはサイコパス以外のすべての属性を無価値にした。それは利点でもあったはずだ。
例えば、公安局局長は女性(型の義体)であるし、作中で性別が問題になることはほとんどない。伝統的女子校である桜霜学園は「クラシックな家具」を生産する場所として皮肉交じりで描かれるように、性別という属性によるデメリットは、社会から消え去っている。

そこへ集団という属性を復活させるのは、個人的にはあまりいい判断には見えない。最終話で移民への反感がこれでもかと煽られていたから、たぶんヘイトスピーチ的な要素を入れたいのだろう。
2期でも魔女狩りの時代に突入するかもしれないと言っていたから、色相のクリアな移民をもっと直接的に排斥する描写も出てくるのかもしれない。都知事の秘書は離職せざるを得なかったが、そういう感じの描写がどっさり出てくるのかもしれない。どちらにせよ、シビュラによる統治が機能不全に陥っていることが前提であるのに変わりはないが。
移民問題への無関心っぷりを見るに、表面的な描写にとどまりそうな気もするが。

全体を通して

全体的な印象を言うと、嘘のつき方が下手なのだと思う。
ストーリーのためにキャラクターを動かすのが悪いわけではなく、納得できるだけの理由/動機付け、掘り下げが為されていないから、しらけてしまう。

キャラクターたちがストーリー展開のための駒であることを見る側に意識させたら、夢は覚めてしまう。そういうのがご都合主義と呼ばれて嫌われるのだ。丁寧に虚構の舞台にリアリティを積み重ねて厚みを出した世界がとたんに安っぽくなる。
ろくに取材もしないから、虚構の社会がどんどんリアリティを失って、のめり込むことが難しくなる。社会を描きたいなら、社会をよく見てほしい。


3期視聴後、色相が濁りすぎて舞台「Virtue and Vice」を見ましたが、とてもよかったです。一係の引き立て役ではない三係の活躍が描かれます。世界観もしっかり守っていておすすめできます。


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