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サイコパス舞台「Virtue and Vice」感想――ゆりかごから墓場まで、自由意思と哲学的ゾンビと社会規範の話

※ふせったーより格納。若干の加筆修正あり。
初出:2020/1/2

評判はいいと聞いていたが、2.5次元だから高望みしすぎないようにと思って見たら、出来が予想以上だった。

キャラクターを刷新し、完全オリジナルの脚本でもちっとも魅力を損なわないのはとてもすごいことだと思う。
一瞬、一期の焼き直しかと疑ったのをいい意味で裏切り、しっかりと連続したテーマを設定している。投げかけた命題への回答を出し、観客へ解釈させる余地も残す。後味の悪い終わり方も一期の雰囲気を引き継いでいて、とてもよかったです。

ゆりかごから墓場まで

言わずもがな、シビュラシステム統治下の社会は、精神的安寧や安全と引き換えに自由を制限されたディストピアだ。
 
ヒューマニストの首魁・三島が言う、「妥協点を探しながら挑戦するなら諦めもつくのに」というのは、シビュラ社会では認められない。試行錯誤をシビュラは不要と切り捨てたからだ。
シビュラシステム成立時の理念は、減少する人口を最適な位置に配置すること。試行錯誤などしている余裕は、当時の日本にはなかった。鎖国による深刻な食糧難から海外への移民という体で棄民政策を決行し、残った人口で日本を立て直す必要に迫られていた。

だから、シビュラ社会において失業という概念は存在しない。誰も彼も、シビュラが適性を判断して適切な職を与えられる。サイマティックスキャン技術によって心の数値化が成功したことによる、仮定の世界が選び取った未来は、最大多数の最大幸福を成し遂げた。
「為しうる者が為す」、すなわち適材適所こそがシビュラシステムの築き上げた理想的社会だ。
 
シビュラシステム統治下の社会は、巨大なゆりかごに見える。
「From the cradle to the grave(ゆりかごから墓場まで)」とは有名なイギリス・労働党のスローガンだが、これを本当に成し得たのが包括的生涯福祉支援システム・シビュラシステムだ。世界的混乱を経て「大きな政府」を市民たちは選択した。
実際には、その後のイギリスはサッチャー政権の下、小さな政府を目指していくことになるし、こんにち、ビッグブラザー的「大きな政府」はとても受け入れられない。
しかし、仮定の話として、シビュラは「ゆりかごから墓場まで」を実現した高福祉社会である。
 
ビッグブラザーとは兄という意味も持つが(たぶん父権的な、家父長制における長男的な意味合いも込められているような気がする)、シビュラは過保護な親としての側面もある。

シビュラシステムは、失敗する前に先回りして選択肢を提示する。本人よりも本人のことを理解し、適切な道を示す。市民たちはゆりかごから歩き出すことなく、ゆりかごの中で一生を終える。
飼い慣らされた家畜に例えられる市民たちは、目を閉じたまま、内側で完結した世界で生きる。精神衛生を最重要視する社会は、あらゆる苦悩を駆逐する。
治安維持のみならず、芸術方面もシビュラは取り締まる。芸術は認可制となり、強い感情を掻き立てるような色相を濁らせる作品は注意深く隠されている(伊藤計劃『ハーモニー』風に言うなら、健康を重視するあまり、好きなように食べて太る自由もない)。
ユートピアに偽装した、息の詰まるような未来が待ち受けている。
 
でも、たしかにそれは、圧倒的多数の市民たちにとって幸福でもある。老いを知らず、享楽的に生きる『素晴らしい新世界』の人間がたとえ短命を約束されていたとしても、生きているその瞬間、本人たちは幸せを感じているように。
市民はゆりかごから墓場まで、安寧としたまどろみの中で過ごす。社会の安定という意味において、それは決して悪いことではない。朱が部屋の電源を落とせなかったように、九泉が最後の最後で、システムの維持を選択したように。
シビュラはゆりかごから歩き出すことを許さない。危機にさらされた状態から市民を保護するために生み出されたシステムだから、市民を守る機能に寄っているのは致し方ないことなのかもしれないけれど。

美徳と悪徳

今作の舞台Virtue and Viceは「哲学的ゾンビ」と「中国語の部屋」をキーにして、「自由意思とは何か」をテーマとしている。
哲学的ゾンビは、人の姿をして人ではないもの。「人ではない」はすなわち、自由意思を欠く者。「中国語の部屋」は哲学的ゾンビを生み出す装置。
タイトルを直訳すれば「美徳と悪徳」。シビュラに従うことを美徳とする社会において、それが本当に美徳なのか、美徳を選んだのか押しつけられたのか、そこに自由意思はあるのかという話だと解釈した。

シビュラシステムは自身への服従を要求する。シビュラにまつろわぬ者は廃棄区画へ逃げ込むしかない。シビュラ的ではない人間は批判される。
シビュラ社会での美徳とは、シビュラの判定に従うこと。それに反抗することは「悪徳」である。だが、シビュラへ反抗する者たちは、与えられる恩寵を拒否して自らの意思で悪徳を選ぶことを自由意思として尊ぶ。
シビュラによる託宣を疑いもしない市民たちは、思考停止しているも同然と扱われる。だから、シビュラに反して悪徳を選択するほうが、自分の独立した意思を示すことになる。むしろヒューマニストにとっては、押しつけられた美徳こそが悪徳である。

美徳も悪徳も、社会によって、人によってたやすく入れ替わる。

三島は、シビュラの理念に盲目的に従う九泉を哲学的ゾンビと揶揄する(というか九泉は実際に哲学的ゾンビに類するのだが)。
だが、三島も手下を哲学的ゾンビにしてしまう。自由を得るために誰かの自由を奪う。必要な犠牲であったと言うには、手段が悪いな、と思うし、結局は同じ穴の狢なのだろう。
三島の自由意思もまた、親から刷り込まれたものである。そもそも他人の影響を一切受けないことなんてありえない。意思が本当に誰の影響も受けていないと証明するのは極めて困難である、という話でもあるのかなと思う。

自由意思と哲学的ゾンビについて

自由意思を著しく制限するシビュラの理念に抗う者として登場するのは、一期では槙島で、この物語ではヒューマニスト、三島たちだった。

哲学的ゾンビは作中において、肉体を持ち、普通の人間と同じ振る舞いをするが、その実意識がない存在を指す。
物語の中で作り出された哲学的ゾンビは、三島配下の大城と、九泉監視官。それぞれ理念を植え付けられ、そのように行動するようプログラムされている。彼らには「意識がない」という意識がない。まるで人間をAIにするかのような悪魔の所業である。それが己の自由意思と周囲も自身も思い込み、行動する。肉体を伴っているから、アンドロイドでもない。彼らが哲学的ゾンビなのか人間なのか、真に判断することはできない。

(人間の脳にAIをインストールする作品は『マリオ~AIのゆくえ~』とかがあります。けっこうおもしろいです)

シビュラシステムは、自身を哲学的ゾンビ的な存在へと隠蔽しているように思う。
シビュラはシステムを名乗りながら、その実、人間で構成されている。人の意思が介在しないがゆえの公平性は、完璧に裏切られている。一期ではその巨大な欺瞞が暴かれたが、シビュラを上回る社会の仕組みが見いだせないから、いまだ停止することなく社会を統治し続けている。
一部の人間には知るところとなったが、結局、数多の市民はシビュラシステムの正体を知らない。無機質だからこそ公平な「システム」としてその存在は社会に容認されている。

シビュラに自由意思があったらどうなるか。朱が激しい嫌悪感を示したように、社会の統治者としては到底認められないだろう。人間がいついかなる時でも、自身の感情に左右されず、公平な判断ができるとは考えられないからだ。
だから、シビュラは意思を持たないシステム――哲学的ゾンビでなければならない。

哲学的ゾンビを人為的に作り出す実験「中国語の部屋」は、二期で人工の免罪体質者を作り出そうとした東金美沙子ともちょっと通じるところがあると思う。
九泉はそれによって監視官(理想的市民)へと作り替えられた。実現すれば、理想的市民を作り出し、社会をより安定させることができる。潜在犯を矯正する格好の手段でもある。

もしかしたら、自由意思は社会に必要なのか、シビュラが知りたかったのかもしれない。
自分たちの自由意思とは何か。システムの構成員、免罪体質者の自由意思とは何か。シビュラの外側に位置する自分たちは、自由意思を持つ人間であるのか。システムを偽る内に、自分たちのこれが自由意思なのか、シビュラにもだんだん判断がつかなくなっていたりして。どうでしょうかね。

哲学的ゾンビといえば、オーウェル『1984年』のビッグブラザーもかなり似ていると思う。
オーウェルのビッグブラザーは最後まで姿を現さない。
最初に読んだ時は、皆がそういう存在があると思い込み、そのように振る舞うことで幻想のビッグブラザーに雁字搦めにされているようにも見えた(本文中にもビッグブラザーが架空の人物だという描写があったと思う)。社会に形成された共産主義思想そのものをビッグブラザーとして恐れていたと解釈するのが自然だと思う。
 
しかし、シビュラはビッグブラザーとは逆に、自身をシステムと偽る。

多様性を重視し、絶対的な基準そのものが悪とされる現在において、真に公平であれる人間はいない。絶対的な善は独善として厳しく非難される。
けれども、公平であるためには不公平でなければならない(わかりやすい例を挙げると、累進課税が典型。資産の偏りを均すためには、富める者からより多く税を徴収しなければならない)。
それを機械(AI)に代用させたのがシビュラシステムだ。一切の私情を介さず、冷徹に判断を下せるシステムだからこそ、シビュラは信頼を得ることができるた。
シビュラ自身に意思があることを明確にすると、公平性が揺らいでしまう。だからシビュラはシステムを自称し、自らをシステムの外側へと置くことを正当化する。自分の自由意思を徹底的に隠す。シビュラの構成員は市民(人間)ではないから、私情を差し挟むことはない。

免罪体質者は、現行法で裁けないかわりに永久的社会奉仕の刑を科された罪人であるから、社会の統治者でありながら、社会への奉仕者でもある(そのへん、象徴天皇制とちょっと似ているような気がしないでもない)。
シビュラを「神の意識」と槙島は呼んだが、彼らは自由気ままな神ではなく、社会のために働いている(と自分では思っている)。そこに自身の感情、意思が介在してはならない。
自分たちをよりシステムとして進化させるための「中国語の部屋」でもあったのかなと思う。

自由意思というのは、シビュラ自身にとっても邪魔者なのかもしれない。

社会規範と自由意思について

一期を見ていた人たちのどれくらいが同じ気持ちになったかわからないが、わたしはシビュラ社会をそれほど悪いとは感じなかった。

幼少期からの潜在犯である縢は、昔の人間は「何にでもなれた」とうらやむけれど、今を生きるわたしたちだって、何にでもなれるわけではない。ただ、試行錯誤する機会が少しばかり多いだけだ(もちろん潜在犯という概念がないので、そのあたりの自由さは格段に多いが)。
縢や槙島が憧れる「自由」というのは、過度に美化された節があるように思う。

わたしたちが自由意思だと思っているものは、実は完全なる自由とはほど遠い。

社会言語学や語用論でも似たテーマを扱うのだが、わたしたちが話す言葉は、常に社会規範に縛られ、その範疇で許される言葉を選択している。わたしたちは決して自由ではない。その場にふさわしい言葉をわたしたちは自由に選択しているのではなく、社会という枠組みの中で許容される範囲内で選択を行う(そもそも完全に自由に話せる場というものが存在しえない。無人の部屋でこぼす独り言くらいだろう)。
だから、現実とシビュラ社会は、根底ではそれほど変わらないと思う。

作中での自由といえば、真っ先に上げられるのが職業選択の自由だ。
法律上、年齢、性別等で職業を制限されることはないが、それが建前にすぎないことは明白だ。シビュラはそれを、適性診断として白日の下にさらしただけだ。
シビュラの適性診断では、向いていないかもしれない職業へ挑戦する自由がない。確かにそうだろう。しかし、その挑戦する時間、手間を考え、省略したのがシビュラシステムだ。当時の日本にはその無駄を許すだけの余裕はなかった。

今だって、優秀な人間は引く手あまたになる。優秀でない人間は、能力的にどんなに希望しても就けない職がある。能力的、経済的に恵まれた人間には選択肢が多く存在し、そうでない人間は選択肢が少ない。
それが加速しきってたどり着いた終着点がシビュラ社会だ。だから、シビュラ社会はまったくの虚構でありながら、リアリティもあった。
試行錯誤を無駄と感じる感覚自体は、今のわたしたちにも理解できる。AIによるビッグデータの解析なんかは、まさしくそれを解決する手段として研究が進められていることだし(先日、AIによる相性診断で婚活を行うサービスをテレビで見かけたが、まさしく現実はシビュラ社会へと突き進んでいると言っても過言ではないだろう)。
合理性を追求した果てが、包括的生涯福祉支援システムになる。

最適化された社会、無菌室のように完璧な調和を保たれた社会。

ユートピアはもはやディストピアと表裏一体である。誰かにとってのユートピアは、誰かにとってのディストピアだ。絶対的な価値基準というものの正しさが崩壊した後では、誰もにとってのユートピアは、ただそれだけでディストピアになりうる。

シビュラ社会は9割の市民たちにとってはユートピアで、槙島にとっては度し難いほどのディストピアだった。安全と安寧のために自由を制限されることをほとんどの人々は受け入れ、槙島は拒絶した。

そもそも自由意思というのは、存在そのものが幻想じみたところがある。
「人は自らの意思に基づいて行動したときみ、価値を持つと思っている」と槙島が言っても、現実には、自らの意思にのみ基づいて行動することはできない。
たぶんほとんどの社会学系の学問でそう定義されているだろうが、人間は社会規範に縛られる。それは人間が社会性の生き物であるからして、逃れられない宿命だ。

人は、社会の外側で、ひとりきりでは生きてはゆけない。

社会から弾き出された槙島が孤独から凶行に及んだように(もちろんそれだけが理由ではないが)、人と人との関わり、繋がりというものが必要だからだ。

人里離れた山奥で生活することも可能ではあるけれど、それは文明の放棄でもある。
人間を高等生物たらしめる文明を手放さなければ、自由を手に入れることはない。だが、世捨て人のような生き方が、人間としての自由意思を確立したことになるのだろうか。

わたしたちに許された自由というのは、実のところ、それほど多くない。わたしたちが自分の意思で選択していると思っていることは、社会規範によって既に規定されていることだからだ。
槙島も縢も三島も、「古き良き時代」が過去にあったという幻想を信じているように見える。

シビュラシステム統治下の社会は、諧謔的に誇張して描かれた部分を差し引くと、とても現実とよく似ている。そして、本当に世界はそのように進んでいる。

7年前に1期で描かれた全体主義への回帰と、それとは裏腹の究極の個人主義。
シビュラシステムは全体主義でありながら、市民たちは個人主義を突き詰めたような生き方をする。市民たちは社会のために生きている自覚なんてない。システムとして社会に普及しきったシビュラは、社会通念上守るべき「常識」の立場に据えられているからだ。

どんな才能、関係にもスペアが見つかる世の中は、市民たちが社会を回す駒であり、逆に市民ひとりひとりにとっては他人なんてどうでもいいという解釈も成り立つ。
当時はスマホが普及した初期であったから、自分のスペアがいることを拒絶した寂しがり屋の槙島は、SNSで孤立を際立たせた現代人にも重なって見えた。まるで生まれる時代を間違えたかのように。

一極集中した権力も、細切れにされた権力も、結局のところ同じ意味でしかない(このあたりも『ハーモニー』と似通っている)。予言的作品でもあったと思う。

犯罪係数の操作について

嘉納は犯罪係数を意図的に隠蔽、操作されたことにより、執行官から監視官になった。物語中ではそこまで深掘りされることはなかったが、これはけっこう大きな要素だと思う。

犯罪係数はシビュラシステムの構成員たちが判断を下す。詳しい基準は不明だが、サイマティックスキャンによって集められた各種数値を鑑みて、免罪体質者たちが潜在犯か否かを判定する。
おそらく、統計学的に確立が示されるけれど、犯罪係数の基準には明確でないところがあって、構成員たちの協議によって最終的に決まるのだろう。

心が数値化された社会、魂という聖域を暴かれた未来、心はとても弱いものなのだと思う。九泉が偽の記憶によって犯罪係数を低下させたことは、心、ひいては意識の不確実さとでもいうものを示している。

意識とは、心とは何か。

一期の朱が既に問いかけている。友人が死んでもクリアなままのサイコパスを見て、朱はショックを受ける。実は自分はゆきの死を悲しんでいないのではないかと疑う。
朱は免罪体質者ではない。だが、彼女は強いストレスにさらされても色相を濁らせることはない。ほとんどメンタルケアを必要としない「メンタル美人」であり、きわめて強靱なサイコパスを持っている。一期では、朱は正しくあろうとし、社会的な正義を為しうるからクリアなサイコパスを保ち続けるのだと解釈した。

ただ、犯罪係数を恣意的に操作できるとなると、少し意味が変わってくる。シビュラにとって有用な人物であれば犯罪係数が低くなるということだ。「社会にとっての正義を為す」という意味では同じだが、それがシビュラの「意思」でひいきされている可能性もある。
前述の「シビュラが持つ自由意思」と関わってくるが、それが本当に自分たちの自由意思ではなくて、真に社会のためを思って判断しているのか、シビュラシステムには証明できない。
 
犯罪係数の決定は公平でなければならない。でなければ市民のコンセンサスを得ることができないからだ。恣意的な操作など論外だろう。シビュラは神を自称するだけの人間(しかも犯罪者)であるが、社会の統治という意味においては一定の成功を収めているのも事実だ。

実験のためとはいえ、犯罪係数を操作したシビュラは、そこに自身の意思がないと言えるのだろうか。

AIとシビュラシステムについて

『PSYCHO-PASS』シリーズはAIがメインテーマではないが、シビュラシステムはAI的な立場に置かれていると思う。人の意思が介在しない神託を下す、無機質なシステムであり、人の手で作り出され、人より上に位置する存在としての神である(攻殻SACにそういうくだりがありましたね)。
この7年でAI技術は飛躍的に進歩した。その結果、むしろシビュラシステムは人間が最終的判断を下すという点においてAI倫理規定を満たしているのがとても皮肉だと思う。

EUのAI倫理ガイドラインを要約すると、AIはツールであり、人間が人間のために運用するものとして規定される。シビュラがひた隠しにする自身の自由意思こそが、AIを運用する上で重視される要素になる。

「君たちは一体、何を基準に善と悪を選り分けているんだろうね?」とは槙島の台詞だが、槙島はたかが機械に判定されることを不服とするところがあった。
槙島の不満通り、AIには説明責任が求められる。現在のAIはどうしてその判断を下したのか説明するのが苦手であるし、最終責任は人間が担うものである。
シビュラシステムのはらむ巨大な欺瞞は、むしろ現状の倫理的な問題をパスしてしまうのだ。
ユートピアとディストピアが表裏一体と書いたけれど、一期放送時は否定的要素であったことが、今になって肯定的要素とも受け取れるというのは、なかなかに面白いと思う。

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