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サイコパス3 FIRST INSPECTOR感想

※ふせったーより格納。若干の加筆修正あり。
初出:2020/3/29

個人的な感想です。好きな作品は一切の批判を許せないという方にはおすすめしません。わたしにはわたしの意思があり、あなたにもあなたの意思が備わっていることを念頭に置いてください。

やっぱりサイコパス3期はみんなもっと拳銃を手に取るのをためらうべきだったと思う。その手に握っていいのはドミネーターだけなんだよ。

正義と暴力について

言いたいことはいろいろあるのだけれど、まず正義の話から。

正義の裁きはシビュラの手によるものでなければならない。だから朱はゆきを救えなかった。片手にドミネーターを握ったまま、散弾銃を撃った(そして全弾外して槙島がゆきを殺した)。
みんなバンバン実弾を撃ってしまったら、朱がただゆきを見殺しにした意気地なしになってしまう。

実弾の入った銃で人を撃つのは、とても重大な選択だった。シビュラの託宣もなく、正当防衛も成り立たず、自らの責任で誰かを傷つける判断を下すことの重さを、槙島は朱に問うた。朱は友人を助けるために誰かを殺すことと法の遵守を天秤にかけ、後者に傾いた。
そういうジレンマは、3期にはあまり見られない。

特に花城の「正義のための汚れ仕事よ。あなたが一番得意でしょ」という台詞はよくなかったと思う。
シビュラの裁きから外れて自分の手で槙島を殺した狡噛は、絶対に肯定されてはいけない。彼は社会に反した人間なのだ。シビュラにまつろわぬ者が温かく迎え入れられていいはずがない。
法の裁きによらない殺人を「汚れ仕事」として必要悪と認めることは、シビュラシステム統治下の社会であってはならないし、法治国家でも禁じ手だ。シビュラは法治に偽装した人治であるけれど、法治であることを取り繕っている以上、同様に認められるわけがない。

シビュラシステム統治下の社会がその法的根拠とするのが、犯罪係数とそれに紐付くドミネーターである。これ以外に法はない。
だから今回の台詞であった「シビュラは罪と罰の外にいる」はまったくもって正しい。法で裁けないものは無罪になる。法治国家の基本だ(倫理は別問題だが)。
ずっと言っていることなんだけれど、シビュラの基準が揺らいでいるというのなら、相応の理由をつけてほしい。

実弾の入った銃と同じく、素手での殴り合いも多すぎる。
人を殴ったら犯罪になり、犯罪係数は必ず上昇する。しないのは免罪体質者のみ。以前も言った通り、テレビアニメで炯が殴ったシーンは完全に設定を無視している。自己防衛でも何でもないからだ。映画でもなんのためらいもなく狡噛と殴り合いを始めたけど、本当にその描写は必要性だったのだろうか。
殴り合いなんて、万人の万人に対する闘争ではないのか。はたして監視社会の全体主義国家がそれを許すのだろうか。

ドミネーターが「最大の暴力装置」と言われたのも、少し不適切ではないかと思う。暴力装置は、シビュラシステムが完全に支配下に置いたドミネーター(を擁する刑事課)しか存在しない。
そもそも、ドミネーターはただの兵器ではない。喋る銃の本質は、神託に従った正義の鉄槌である。

3期は全体的にシビュラとドミネーターの影が薄いと感じていたが、新型ドミネーターが登場したことで、ドミネーターの意味が少し変わってしまったように思える。
廿六木が嬉々として新型ドミネーターを振り回してはしゃいでいたシーンで、ドミネーターはただの強力な武器になってしまった。自らの命が危機にさらされている瞬間で、強力な武装を提供されたらそうなるだろう。そこは否定しない。
ただ、引き金が軽すぎるのだ。人を裁くことの慎重さをどこかに置き忘れてしまったように、暴徒を鎮圧するツールになってしまっている(そういう側面が最初からあることは承知している)。霜月が提案して却下された新型ドミネーターは「危険だから」却下されたのではなくて、その本来の意味、人を裁くための道具であることを喪失しかねないからではないのか。
灼の「ドミネーターのいいところは、引き金がついていることだ」という台詞が好きなので、引き金を軽くするような真似はあまり好きにはなれない。

ドミネーターがただの強力な武装に成り下がってしまったら、潜在犯たちもただの標的となってしまう。
作中では嫌悪され、隔離されるゴミ屑同然の潜在犯は、現在の価値観で言えばまだ罪を犯していない無実の人間である。その価値観の落差を楽しむ側面がこの作品の醍醐味でもあったと思っていたが、このシーンによって損なわれてしまった。執行官も、脚本さえも、潜在犯を人間と見なさなくなったのだな、と。
大勢の敵に少数で立ち向かう構図そのものが、この世界観では難しいのかもしれない。

アクション映画が撮りたかったんだろうな、という印象を受ける。わたしもアクションは好きだ。迫力があって大きな画面に映えていいと思う。でもそれを、シビュラシステム統治下の超監視社会に突っ込んではいけない。世界観があまりにもそぐわない。
だから1期では、免罪体質者(槙島)と潜在犯(狡噛)の二人が対峙した瞬間しかできなかった。映画ではSEAUnというシビュラ以前の社会に飛ぶ必要があった。
アクションを多めに出したいなら、シビュラ以前の社会に設定するか、シビュラが完全に弱体化した以降に設定すべきだったと思う。

シビュラについて

シビュラシステムは、結構律儀な性格をしていると思う。

1期もそうだったけど、犯罪係数がアンダー300でパラライザーしか起動しないのに、ドミネーターに介入してエリミネーター(デコンポーザー)に変形させる。でも、犯罪係数をいじらない。犯罪係数と銃の形態が合っていないことを監視官や執行官から隠さない。犯罪係数を嘘でも300オーバーにすれば疑うことなく引き金が引かれるはずなのに、絶対にそうしない。
それは、自らの否定でもあるからなのかもしれない。免罪体質は現在のサイマティックスキャン技術では、実際の精神状態と診断結果が乖離する存在のこと。この診断結果を捏造できるのなら、免罪体質をそうでなくすることもできる。

というより、シビュラシステムが内々に運用する何らかの基準に従って犯罪係数を測定しているから、これを守らないことには免罪体質をそうと特定することもできない。すべては基準次第。徹底的に法治国家(に欺瞞した人治国家)ですね。シビュラもまた、自分の法に従う存在なのでしょう。
だから、自らを法(=無機質なシステム)に欺瞞する脳(=生きている人間)の群れは、それでも朱に受け入れられたのだろうなと思う。

このへんの話は舞台「Virutue and Vice」の感想でも書いたので興味のある方はどうぞ。わたしの中では法=システム=哲学的ゾンビ=自らの意思を持たない公平さかなと。犯罪係数を偽ることについても言及しています。

シビュラの振る舞いで、どうしても理解できていないのがマカリナ。どうしてシビュラがAIを認めてしまったのか、謎が解けなくて困る。サイマティックスキャンがすべてではなかったのだろうか。やっぱりちょっとわからなかった。
自分の意思を葬ってAIに近づきたがっているからかな?とも思ったけど、まだ説明が自分でつけられない。このあたりの描写はもっとしてもよかったのではないだろうか。全体的に3期は風呂敷を広げすぎているというか、要素を詰め込みすぎていると思う。

ラウンドロビンについて

小説版でさんざん古い神だとか巨人だとかビフロスト=虹の橋だとか、北欧神話を匂わせていたが、シビュラに先立つというか、ほぼ同時期のものだったのですね。
あんな巨大なシステムにデバックする装置・人間がいなかったはずがないので、なるほどその設定ならたしかに、初期シビュラと同時でもおかしくない。
つまりラウンドロビンに必要とされるコングレスマンというのが、シビュラ以前の時代、人の手による決断の象徴とも見れるかもしれない。システムのデバックは人の手によって行われるものであるし。

シビュラによって議会はほとんど消滅しかけたから、社会の統治権を簒奪する話ではないかと見ていたけど、間違いだったみたいですね。
congressman=連邦議会議員の割には「天から与えられた権力」「王者」みたいなキーワードが小説で散見されていて、まるで王権神授説だなと思っていて、そのあたりの説明がつかなかったのだけど、そもそもそういう話ではないのなら仕方がない。
シビュラ=神権政治、ラウンドロビン=王権神授説に基づく絶対王政みたいな対比という予想は完全に外れでした。

それよりも、ラウンドロビンを飲み込んだシビュラシステムはさらなる進化を続けるということは、シビュラに対抗する組織を更にひとつ潰したということになる。つまり、シビュラの権威の強化。
何故か2期以降、ガバガバ判定を出していたシビュラシステムは、1期の息の詰まるような閉塞感を取り戻すつもりなのだろうか。
ラウンドロビンがシビュラシステムを出し抜いて権力をもぎ取る=社会の統治を人の手に取り戻す的な展開を予想していたら、結局シビュラに逆戻りしてしまった。
「すべてはシビュラの手のひらの上だった」とするにはあまりにもシビュラの弱体化が著しくて、説得力がない。
デバックといえば2期の集団的サイコパスがそれだったのだけど、ラウンドロビンは一体シビュラシステムのどこの欠陥を直したのでしょうね。

局長について

個人的に、3期キャラで最も株が上がったのは細呂木局長だ。
細呂木局長が「私は世界のひとかけらにすぎない」と言って屋上から飛び降りたところは、1期で殺されることに怯える藤間幸三郎に槙島が言った「神の意識を手に入れても死ぬのは怖いかい」と対比させているのではないかと思う。
視聴者はあれが脳の一部に過ぎないから、人質たりえないことを知っている。だからあれは、細呂木局長のいわば滅私奉公的精神の表現だったのではないだろうか。
1期の藤間幸三郎は、シビュラの一員に加わった後でも割と自分の意見を持ち続けていた。一人称が「僕」になる瞬間なんかまさにそう。2期の東金美沙子も割とそんな感じだった。私欲というか、自分の信念を捨て去ったわけではない感じがした。
集団的サイコパスの導入によって、複数の脳が合わさって一人なのだという意識が芽生えたのかもしれない。

シビュラシステムの構成員たる免罪体質者は、永久的社会奉仕の刑を科された罪人であると解釈してきたので、ますますこの解釈に近づいてきたような気がする(異論は認めます)。全体主義を統括する側もまた全体主義の一部である、みたいな。
社会の外側で免罪体質者だけの社会を形成しているというか、個々の脳が全体として一人であるという意識を持ち始めたとみるべきでしょうか。

そしてまさかの禾生前局長の帰還!!!
義体に違う脳が入ってローテーションしている設定なので、代替わり自体は不思議ではないけど、禾生の名前で帰ってくるのには驚いた。
禾生局長と細呂木局長の見た目が似過ぎているのは、ちょっとよくなかったんじゃないかと思う(最初、禾生局長が名前を変えたのかと勘違いした)。
なぜ細呂木局長に代替わりしたのかあまり明確にならなかったのが、ちょっと残念だ。

最後に局長へ就任した静火だけど、これはかなり大きな転換点だと思う。
公安局はシビュラシステム直轄の組織であったから、局長はシビュラ構成員の脳が入った義体であり続けた。
そこへ、生身の人間である静火を局長へ据えたことは、シビュラに一極集中していた権力を監視官たちに分散させ、ゆるやかな移行と共存を図ろうとしている、とも見られるかもしれない。
静火はラウンドロビンの管理をしていた一族(個人的に「一族」という表現が古くさすぎてびっくりした。やはり血統主義が生きているのかもしれない)という設定だったので、彼自身がデバック装置としてシビュラの内側に入り込む、というメタファーであるかもしれない。
となれば、やはりシビュラシステムへ委ねた社会の統治権を、徐々に取り戻そうという動きなのかもしれない。

静火をあまり動かせなかったのか、割と手短に済まされてしまったのが残念だ。静火と炯と灼は同じ名付け親なのではないかと勝手に予想していたのだけど、特にそうでもなさそうですね。

免罪体質者について

他ならぬシビュラシステムが言った「生まれながらの罪人であり、聖人である」だけど、初見ではかなり強い拒絶を感じた。まさか公式と解釈違いを発症するとは、まで思った。
この言葉が、今まで想定していた免罪体質者の定義を揺るがし、槙島のカリスマ性(ある種の神秘性と言ってもいい)を損ないかねないと感じたからだ。

実際に罪を犯さなければ免罪体質であることは確定しない。だからゆきが死んでも犯罪係数がほとんど乱れなかった朱は、一瞬免罪体質者であるかのような疑いを持たせたが、明らかにならなかった。
(朱は一度犯罪係数が急上昇するシーンがあったので、それをもって免罪体質者ではないという根拠にできるかもしれない。ただ、彼女はすぐに犯罪係数が落ち着いたせいで、ゆきの死を悼んでいないのではないかと自分を責めていたわけで、心と犯罪係数が乖離している。この乖離こそが免罪体質者の特徴なので、ここで引き合いに出した)

まだ罪を犯していない灼を「生まれながらの罪人」と呼ぶことに、今までの世界観からちょっと納得がいかなかった。
なぜなら、1期で朱がシビュラシステムを「犯罪者」と呼んだからだ。当時その発言にはやや疑問を覚えて、「まだ実行していないだけで猟奇殺人を考えるだけだったり、psychopathな考え方をする人」を犯罪者呼ばわりするのはどうなの?と思っていた。
しかし、免罪体質者が実際に罪(とりわけ殺人罪)を犯すまでシステムに見つからないのであれば、見つかった免罪体質者はもれなく犯罪者というということになる。だから、シビュラシステムは犯罪者の集まりという解釈が成り立つ。

それを、まだ罪を犯していない灼にまで適用するようになったことを、わたしは激しく拒絶したのだと思う。なぜ、灼が見つかったのに、槙島は見つからなかったのだろうか、と。

システムは「まだ罪を犯していない免罪体質者」と「理想的市民」を区別できない。だから槙島がゆきを殺すまで、彼はシステムに認知されなかった。何人も被害者をプラスティネーションしてから藤間は見いだされた。少なくとも、1期からわたしはそう受け取っていた。
全国民の一挙手一投足をシステムが常時注目し続けるのは現実的ではない。膨大なリソースがかかるから、基本的には色相の悪化や犯罪係数が基準値を超えた時のみ関心を払っていると思っていた。
だから決定的な罪を犯した瞬間に免罪体質者はシステムに発見され、同時に犯罪者となっている、と解釈していた。

「免罪体質者」と判定される理由は、サイマティックスキャンで精神を捉えられないこと、であったはず。その決定的瞬間とは、重大な罪を犯した時に他ならない。
灼がそう判断された根拠は「母の死に際して数値上は平静であり続けたこと」と「オブライエンが目の前で死んだのに犯罪係数が下がり続けたこと」の2点。(槙島がその手でゆきの喉笛を掻き切ったシーンと比べると、見劣りする感は否めない)

3期で追加された定義に従うと、免罪体質者はcrimeを免罪されるが、かわりに原罪、sinを背負っているということになるのだろう。
crimeは刑法や民法で裁かれる罪、sinは、ここでは灼が「母の死を悼んでいないように見えること」、つまり正常な感情の動きが観測されないこと。
精神状態のすべてが数値化された社会で、数値と違う精神状態であることを立証する術はない。朱のように悲しんでいるのに数値に表れない人も、本当に悲しんでいない冷酷な人間も、判断がつかない。これを「罪」とするのは決定打に欠けるな、と思ってしまうのだ。
だから、いまだ規範の中で生きている灼を免罪体質者と断言するのはどうなんだろう?と疑問に感じる。
ブラックボックスである犯罪係数の診断基準を、どうせ明言されていないのだからと、脚本の都合で良いように変えているようにも見えてしまう。

親しい人の死に際して感情が変化しないこと、それに相当することが今までの免罪体質者には全く起こらなかったのだろうか。そんなに簡単に診断できるのなら、とっくに槙島だって見つかっていたのではないか。
灼が免罪体質者の疑いをかけられていた頃、もしかしたら槙島は、猫でも殺してみて、自分のサイコパスが何も変化しないのを確かめていたかもしれないのに。

それに対する答えが、灼の父なのだろう。
槙島になくて灼にあるもの、それは厚生省幹部の父親だ。灼の父が免罪体質者について何らかの情報を握っているどころか、シビュラの正体まで知っていたから、息子の異変に気がついて、システムに見つかったのだろう。
ただ、肝心の父親についての情報が少なすぎて、初見では納得がいかなかった。出し渋られているせいで、なんでそんな設定をいきなり持ってきたの?としか思えない。

でも、灼が空っぽな感じはなかなかいいですね。父に強固に嵌められた社会規範に無意識に従って行動しているとみれば、偽善を振りかざしているのも納得。だって自分に意思はないのだから。
灼のメンタルトレースはサイマティックスキャン技術のメタファーではないか、と以前書いたのだが、彼は鏡でもあるのかもしれない。他人の言葉で成り立っていて、その実、本人は空っぽ。観察した事象をその身に写しているだけ、みたいな。
最後の一線を踏み越えていないから、限りなく免罪体質者に近いけれどシステムに迎え入れることができない、という展開でもおもしろかったんだけど。
やっぱり炯と舞子は外付けの人間性で、社会にとどまれるよう、そう仕向けたのが父なのではないだろうか。

ザイルパートナーについて

灼と炯は対等なザイルパートナーなのに、炯が灼に与える一方で、何を得ているかの描写が映画でもなされなかったのは、かなりまずかったと思う。まるで炯が灼にとっての便利な男になってしまっている。
当初は、何事にも無関心で無頓着で、無神経ですらある灼は、炯にとって移民であることを気にしないでいられる安息の地、という風に解釈していた。しかし、それを裏付ける回想シーンが来ない。むしろ、いじめられていたのは灼のほうだった。いつも炯は灼を助けているシーンばかりが目に付く。
「俺がいないとお前はだめだな」という関係性ならそれでも構わないが、彼らは仮にもザイルパートナーを名乗っている。対等であることの証をしっかり見せてほしかった。
仲直りのシーンすらあっさり終わってしまって、脚本の都合でたたまれたようにしか見えない。

移民問題とグローバリズムとポピュリズムについて

こちらを先に読んでいただくとわかりやすいかと思います。

言葉を濁しているのも面倒なのではっきり言いますが、わたしはバイリンガルであるし、親しい人が帰化するような環境にいたので、この手の話にはとても敏感です。

だからこそ、移民2世たる炯が国家公務員になっていたことに驚き、感動した。現実には、外国系の名前をして国家公務員になるのは非常に難しい(そもそも国家への忠誠を求める職業に、そのようなルーツを持つ人間は興味を示さないというのもあるだろう)。シビュラはサイコパス以外の価値を本当に無意味にしたのだと、ディストピアの楽園たる側面がうかがえたことに感銘を受けたのだ。

それが、あのような雑な扱い方になってしまって、とても落胆している。
終盤の都知事のスピーチは、あまりにも雑すぎる。犯人が入国者ではないからといって、それをもって生理的嫌悪の域に達した入国者への差別が止まるわけがない。

やはり、グローバリズム全盛期に鎖国体制を敷いて閉ざされたディストピアを描ききった1期は素晴らしかったと思う。
3期はおそらく時事問題として移民の話を取り入れたのだが、その話の語り方が他人事に過ぎない。
3期が2018年のドイツやイギリス、フランスであったなら、詳細な説明をせずに「たくさんいる移民が現地人と軋轢を引き起こしている」で十分だった。
でもこれは、100年後の日本の話だ。少子化の話をせずに、どうして移民問題を語れると思ったのだろうか。少子化なくして、どうして移民問題が生じると思ったのだろうか。まさか本当に、シビュラに人権意識やら慈悲の心が芽生えたというのか。
雇用の奪い合い、文化的衝突を甘く見すぎているのではないか。未だ広く開かれているとは言えない現在の日本から見たふわふわの未来図ではないのか。
申し訳ないけど、わたしには到底現実味は感じられない。ただただ没入感が薄れていく一方。

結局、犯人は入国者ではないし、舞子はなんだかんだで施設から解放されて、めでたしめでたし、で終わってしまった。移民問題はただのエッセンスであったことが確定してしまって、なんだかなあと思う。
炯が入国者の子である設定があまり上手く生かされていない。灼と対比させるために付与されたはずなのに、全然対比されていない。

トランプ大統領が当選し、再選しかねない合衆国、ブレグジットしてしまったイギリス。ポピュリズムの台頭はとどまることを知らず、(そこへ新型コロナウイルスが鎖国を加速させて)今にもグローバリズムはとどめを刺されそうになっている。その世界的潮流を読み切れなかったのだろう。制作段階で既にトランプは当選しており、イギリスもブレグジットしかけていて、間違いなくその萌芽はあったはずなのだが。
最初から移民問題に手を出さずに、シビュラとビフロストの対立に絞っていたほうがずっとよかったと思う。
繰り返すが、3期はいろいろと詰め込みすぎだ。

1期の続編として

率直に言って、続編としての出来は良いとは言えない。サイコパスシリーズの正当な続編でなければそう悪くはないかもしれないが、続編を名乗るには疑問点が多すぎる。

灼と梓沢がシビュラへの階段を降りるシーンが露骨に1期の縢とグソンを意識していて、なかなかにつらかった。
あちこちで1期を意識しているようなシーンが見られたが、あまり使い所がうまくなかったなというのが正直な感想だ。

わたしは好きなキャラの死ネタもバリバリ食うし遺影を胸に抱いて好きなキャラが死んだ後の世界も愛するんだけど、その死の意味を貶めるような演出はアウトですね。

この世で最初にシビュラの正体を見たのは縢とグソンだった。その設定は覆してはいけない。2人の死を無意味にしてしまうから。
あそこまで作り上げたキャラクターを惜しみなくためらいなく殺した手腕に戦慄したし、それゆえに彼らの死は大きな意味を持ち得た。シビュラの正体の秘匿の重要性を、縢とグソンは身をもってわたしたちに提示した。
それを、あまりに気軽にオマージュしたあげく、灼のほうが先にシビュラを見ていたと設定してきたのは悪手だ。以前のキャラを灼の引き立て役に貶めているし、かえって灼への反発を招く(すなわちメアリースー状態に近い)。

狡噛の「二度とごめんだね」もそう。気軽に1期の名シーン、名台詞を消費してしまった。やり方が安直にすぎる(細呂木局長と藤間幸三郎の対比はいい感じだったと思うので、ああいう調子でやってほしかった)。
オマージュは敬意を持って行うことだけれど、それが全く伝わらないから苛立つのだと思う。
すべてが3期の引き立て役にされてしまったら、わたしの愛した世界観はどこへ!?と叫びたくもなる。

テレビアニメ放送後にも書いたことだが、テーマと結論が先走って、説得力を持たせるべき経過がないがしろにされている。
脚本の都合が透けてみえるのは、作品として致命的な瑕疵だと思う。
炯と灼の仲直りシーンなんて、脚本の都合で畳まれたようにしか見えない。主人公二人なのだから、十分に尺を割いてやってもらってもおかしくないのに。

続編を名乗るということは、永遠に前作と比較され続ける宿命を自ら背負ったことに他ならない。パラレルワールドではなく、地続きの世界線に立ったのだから、言い訳できない。であれば、1期と比較して批判されることも織り込み済みだろう。

1期のことを中途半端に意識しておいて、1期ファンはお呼びじゃありません、だなんて虫がよすぎる。そもそもが3とナンバリングして続編を名乗ることで1期からの古参ファンを引き入れて、1期のキャラで見せ場を作っているのだから、1期と比較しないで見ろというのは筋が通らない。
世界観の説明すら1期に丸投げしておいて(だから途中経過がわからなくて大幅な設定変更に面食らう)、下駄を履いている自覚が薄いのだと思う。1期のネームバリューにだけ乗っかって都合よく利用しているように見える。
何回でも言うけど、変容した理由を説明してくれないと1期をないがしろにしているようにしか見えない。

全体を通して

変化があまりにも急激すぎて、脚本とわたしの間に深刻なディスコミュニケーションが発生しているのだと思う。

もっと時間が経過していれば、例えば20年後ならば、今回の設定・世界観でも整合性がとれたかもしれない。槙島の件以降、シビュラは免罪体質者の発見に尽力するようになったから灼が見つかった、集団的サイコパスの導入により脳を大量に処分したせいで処理能力が落ちたシビュラが弱体化し、虎視眈々と隙を窺っていた外務省が権力をもぎ取った、とか、そういう説明がついていたなら、それほど困惑しなかったと思う。
(ラストで潜在犯である狡噛と宜野座が一人で出歩いていたのだが、そういうところに説明を一切しないのは何故なのだろうか。潜在犯の定義すら覆すのなら、続編を名乗る意味がない)

しかしながら、すべてが急すぎてついていけない。
移民が増えたのも、免罪体質者の定義が変化したことや発見しやすくなったことも、1期と時間軸を共有しているせいで、いきなり設定を覆してきたようにしか感じられないのだ。
槙島はシステムにとっての透明人間であったし、この世で最初にシビュラの正体を見たのは縢とグソンだった。後出しで否定するのは一体どういうつもりなのか。
シビュラ社会はゆりかご、あるいは魂の牢獄で、時間の流れはゆっくりのはずだ。あんなに急激に社会が変わることも信じがたいし、その説明を省いてしまうのはもはや、わけがわからない。出し渋る理由なんてあるのだろうか。

シビュラはなぜ弱体化しているのか。なぜ外務省に行動課という刑事課みたいな(それともFBIやMI5的な存在なのだろうか?)が設立されたのか。殺人罪を犯した狡噛は、なぜのうのうと帰国できたのか。宜野座や須郷はどうして行動課に異動しているのか。霜月はどうしてあんなふうに成長したのか。
すべての過程をすっ飛ばして、3期は始まってしまった。

キャラクターを刷新することに抵抗はないし(舞台VVはとてもよかった)、世界観の変容自体を嫌悪しているわけではない。社会が変容するなら、そして1期から地続きの続編を名乗るのなら、きちんと理由付けしろと言っているだけだ。
設定がきちんと存在するのなら、しっかりストーリー内で見せるべきではないか。

相変わらず2係と3係が踏み台というか噛ませ犬というか、無能っぽく描かれてしまうのも残念でならない。きわめて優秀な人材を集めたのが刑事課だったはずなのに。たっぷり尺があったのだから、もう少し活躍を見せてほしかった。

それと、いつまでもストーリーが完結する兆しを見せないのも、なかなかのフラストレーションになった。最初からテレビアニメでは終わりません、映画では終わりません、と言ってくれればよかったのに。
映画でも何も解決してなくてびっくりしてしまった。
・朱が収監されていた理由
・灼の父と炯の兄の死の真相
この二つはこのシリーズでかなり重要というか核だったはずなのに、普通に持ち越されてしまった。半ば予想していたのだが、それでも悲しい。初めから言っておいてほしい。
次は劇場版ですか?それともテレビアニメ4期ですか?

(外出を自粛してアマプラで見たら、Cパートがカットされていると聞いて、メロスほどではないけれど割と激怒した。ひどい。ひどすぎる)

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