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『青少年に有害!』(ジュディス・レヴァイン)ブックトーク

うぐいすリボン主催ブックトーク「性表現の自由と規制をめぐって」

第2回『青少年に有害! 子どもの「性」に怯える社会』
 著者:ジュディス・レヴァインさん(作家/ジャーナリスト)
 質問:スヴェトラーナ・ミンチェバさん(全米反検閲連盟プログラム顧問)

 うぐいすリボンでは、表現の自由に関係する様々な本の著者をお呼びしてのブックトークを実施しています。本シーズンは、世界的に議論が激化している性表現をめぐる自由と規制の問題についてとりあげます。

 第1シーズン第2回目の今回は、2002年にミネソタ大学出版局から刊行され、ロサンゼルス・タイムス賞を受賞した『青少年に有害!』の著者である作家のジュディス・レヴァインさんに登場して頂きました。動画の中でも言及されているように、本書は発表されるやいなや、全米でペドファイルをめぐるパニック的な論争を引き起こすことにもなりました。

(2022年11月にビデオ収録。本稿はそこからの抄訳)

著者ジュディス・レヴァインが語る『青少年に有害!』


2002年『青少年に有害!』の出版への反応

 こんにちは。ニューヨークで作家とジャーナリストをしているジュディス・レヴァインです。身体と政治、歴史、法律の関係について考える文章を書いています。

 約20年前、私は「青少年に有害!」という本を発表しました。その本で私がもっとも述べたかったのは、「青少年をセックスから守ろうとするアメリカ社会の取り組みは、かえって青少年に有害である」ということでした。

 もちろんのことですが、大人には子どもたちを気遣い、保護する義務があります。しかし、アメリカ社会が保護するという名目で行ってきたことは、実際には子どもたちにとって良いこと以上に弊害が大きかったのです。

 この本では、表現規制の問題についても触れています。特定の児童書や絵本を、地域の図書館や学校図書館から排除しようとする試みや、インターネット上の特定の情報を、未成年者や、さらには成人に対してまで遮断しようとする試み、性的な内容を含むアート・パフォーマンスや絵画について、連邦や州の助成金を止めようとする試みなどについて書きました。

 それから、すべての性教育を禁欲的な性教育にすることを義務付ける法律の問題についても触れました。私はこれを「ノー・セックス・エデュケーション」と呼んでいます。こうした法律によって、避妊や同性愛、性感染症予防のためのコンドーム使用などに言及する包括的な性教育が一切禁止されるという事態が起きました。そこで許されるメッセージはただ一つ。「セックスにはノーと言え」です。

 他にもこの本では、子どもたちが性を探究することを病的と捉える風潮や、10代の合意あるセックスを犯罪化する問題などについてとりあげています。

 本の冒頭を引用します。「今日のアメリカでは、青少年が安全な形で性的な喜びを持つことができるという内容の本を出版するのは不可能に近い」

 以前から分かっていたことですが、いくつもの出版社から本書の出版を断られて、ますますそう確信しました。断り文句はこうです。

「レヴァインは魅力的な作家だし、彼女の主張は力強く刺激的ではあるが、しかし、どうすれば彼女の意見が幅広い読者を獲得できるのか確信が持てない」

 最終的にある出版局が採用してくれましたが、草稿を読んだ編集者からはこう言われました。

「勇敢な本ですが、本文でも明らかにされているとおり、最悪のタイミングでしょうね」と。

 実際 予想以上に最悪のタイミングでした。発売1か月前、カトリック教会の司祭たちによる長期にわたる性的虐待が暴かれ、告発と非難が殺到していました。

 そうしたタイミングで、私は迂闊にも、ある記者からの取材に、「大規模に実施された心理学的調査等を含む査読論文によると、未成年者と成人との間のセックスだからといって、必ずしも、その時点や、その後の長期にわたっても、心理的外傷を与えるとは限らないという結果が出ているようだ」という話をしたのです。

 その記者は、私の発言を都合よく切り取って、翌日の新聞に、ジュディス・レヴァインはペドフィリアを矮小化しているという記事を書きました。私はアメリカ中からペドフィリアを擁護したとして非難を浴び、それだけでなく、私自身がペドフィリアだという非難も押し寄せることになりました。

 ある保守的な宗教団体のリーダーは、私の本を読みもせずに、「邪悪な書物」と呼びました。この本は州立大学の出版局から出版される直前でしたが、その州の議会のトップは、もしこの出版を行うならば、州からの補助金をすべて止めると大学を脅して、実際にその通りにしました。合衆国下院でも私を糾弾する動きがありましたし、私に抗議してハンガー・ストライキを行う人たちが出たり、私の元には殺害を予告する脅迫状が届く事態にもなりました。

 まさに本書『青少年に有害!』で述べたとおりの状況です。セックス・パニックによる反応なのです。そして、この状況こそが、今回、私が皆さんに向けて語りたい問題でもあるのです。


80年代・90年代アメリカ社会の「モラル・パニック」「セックス・パニック」

 これからお話しするのは、80年代と90年代に起きたセックス・パニックと、それから現在に残るそのパニックの影響についてです。ポルノグラフィを規制する動きも、このパニックの名残といえるでしょう。当時、人々の恐怖をあおり、セックス・パニックに陥れた言説が、アメリカでは再び登場して、より深刻な結果を生んでいます。検閲に限らず、反セックス、反犯罪、反薬物、反移民など、すべての反対運動の大義名分は子どもの保護です。特に反セックスは女性や子どもや弱者を守るためとされてきました。

 言論やセックスの規制の根底にあるのは、人は目にしたものを実践する/悪いことについての表現を見れば悪いことをしてしまう、という考え方です。「同性愛の本を読んだら、子どもたちが同性愛者になってしまう」「性行為の写真を見たら、子どもたちは性行為を行ってしまう」というのです。ミステリ小説を読めば、殺人を犯すとでもいうのでしょうか。確かに、言論は行動や思考に影響を与えますが、しかしそれは見たままを猿真似のように行動に移すという単純な話ではありません。

 実際のところ、メディアが人間の行動にどのように影響するのか、そこにはどのような関連性や危険性があるのかは、よく分かっておらず、したがってどんな表現を規制すべきかの合意には程遠い状況です。

 日本と同様、アメリカの道徳派のフェミニストは「女性蔑視的」または「暴力的」な性表現を規制すべきと主張します。さらには、性表現自体を性暴力とみなす人たちもいます。リベラル派は一般的に包括的性教育を支持していますが、どのような性表現が行き過ぎなのか、どの程度の年齢の子どもたちなら触れても大丈夫と言えるのかについては、何らかの悪影響もあるかもしれないからと確信が持てず、かなり神経質になってきています。宗教右派の考えではセックスや身体に関する万事が青少年に有害です。

 しかし 子どもを守るために大人が何を検閲したいと望んでいるとしても、実のところその着地点は同じです。そこで私たちが守っているものは、精神的・肉体的に未熟な幼い人間たちのことではなく、「純真無垢な子どもたち」という理想化された子ども像なのです。

 18世紀後期にロマン主義者たちが生み出したのは、世俗的な知識や罪、金銭、戦争、腐敗といったものとは無縁の「野生児」という純真な子ども像でした。

 19世紀 ヴィクトリア朝時代には、性的な純潔さに重きが置かれました。性的知識を持たないのが当時の純真な子ども像でした。

 ただし その無垢な子ども像は、すべての子どもを指してはいません。それが指し示すものは白人のブルジョアの子どもたちだけでした。アメリカでは黒人の子どもは性的にも早熟と見なされていて、過ちを犯せば非難されるべき存在と考えられてきました。そして、多くの人々が、黒人の子どもたちのことを、犯罪者やプレデターとして警戒すべき対象とみなしてきました。実際のところ、現代においても、白人の多くが、黒人の少年少女を実年齢よりも年上と認識して、責任能力があるとみなす傾向があるという研究結果が出ています。

 このように、何が子どもたちにとって有害なのかも、純潔とはいったい何なのかも、 実のところ私たちの意見が一致することはないのです。

 人類学者のジェニー・キッチンジャーは言いました。「純潔と無知の概念は大人たちのダブルスタンダードの手段である。大人たちが望むことを知らなければ無知であり、望まないことを知らないことが純潔なのだ」と。

 もちろん、私たち大人は子どもたちを守らなくてはなりません。それが私たち大人の役割です。しかし、世界中の子どもたちの苦境を思えば、その役割が果たせているとは言えないでしょう。なぜ セックスから守ることにばかり、これほど注力するのでしょうか。干ばつに苦しむソマリアの子どもの情報を検索しても、Googleで「性犯罪者」とニュース検索した時のように1000万件超の結果は出てきません。それは、なぜでしょう?

 1980年代から90年代にかけて、アメリカ政府が唐突に禁欲教育などの抑圧的な性政策を推進したのはどうしてでしょうか?

 セックスから子どもを守ろうと必死になるあまり、悪魔崇拝の儀式で子どもたちを虐待する性的倒錯者たちがはびこっているという噂話を、何百万もの人々が信じた理由は何でしょう?

 その答えは「モラル・パニック」です

 モラル・パニックとは、社会学者のスタンリー・コーエンが、今では名著として評価されている1972年の著書『フォーク・デビルとモラル・パニック』で生み出した造語です。

 モラル・パニックとは、ある状態・出来事・人物・集団が、社会的価値や利害への脅威とみなされる時に起こり、実在する問題の深刻性や規模、典型性や有害性が誇張されていくというのがコーエンの主張です。

 モラル・パニックの引き金は、社会変動と経済不安であり、アメリカの1970年代後半から80年代はこれに該当します。

 60年代と70年代には性との向き合い方が緩和されていました。まず中絶の合法化。さらに多くの女性が子どもを保育所に預けて社会進出を果たしました。

 子どもに対する親の支配、女性に対する男性の支配が、次第に薄まっていきます。

 インフレやオイルショックなどの経済状況を受け、減税と政府縮小を掲げた共和党のレーガンが大統領に当選します。彼は「家族の価値」という家父長制的な家族制度を支持する保守派の価値観を全面に打ち出しました。就任後、レーガンは政府の縮小のため、元々乏しかったアメリカの社会保障制度をさらに削減しました。多くの労働組合が潰されて、労働者たちは後ろ盾のない生活を強いられました。

 そうした経済不安や社会の混乱は子どもたちに影響します。それは性の問題とも切り離せません。この時に起こった性の災厄がエイズです。エイズは当初は主にハイチからの黒人移民や、同性愛者、薬物使用者や、血友病患者の間で流行していました。血友病患者以外の3グループは、元々「悪」と見なされ、社会から軽視された集団だったので、レーガン大統領は何年もの間、エイズの問題を無視しました。ハイチ人、同性愛者、薬物使用者は嫌悪され、コーエンいわく「民衆の敵」とされていたからです。そしてハイチ人はアメリカへの移住を制限されました。同性愛者を強制収容しろという提案や、エイズ感染者に識別用の入墨を強制しろという提案さえ、当時は行われたのです。

 政府がようやく動いたのは、子どもに危険が迫ってからでした。ライアン・ホワイトという血友病患者の13歳の少年が輸血によってHIVに感染し、学校でいじめを受け、ついには登校を禁止されるに至りました。抗議運動も行われましたが、1990年に少年は他界。この年にエイズ患者の支援法がようやく制定されました。その時点でアメリカ国内のHIV感染者はすでに10万人を超え、その3割が命を落としていました。

 こうした中で、子どもにまつわる恐怖と、セックスへの恐怖に、火がつきました。

 セックス・パニックは、子どもへの性的加害をめぐって炎上し、この業火からペドファイルという民衆の敵が生まれました。ペドファイルは病んだ邪悪な存在で、快楽のために子どもを探し回っては性的危害を加えると考えられていました。

 しかし実際は、児童に性的虐待を行った加害者たちに固有の性質はなく、大人の男女と性的関係を持っている場合も多いのです。児童虐待は病ではなく行為です。しかし制御不能な邪悪な病気だという考え方が社会に染み付きました。ペドファイルに限らず、職場での女性へのセクシュアル・ハラスメントに至るまで、性的嫌がらせをした人すべてが、「プレデター」と呼ばれるようになりました。

「この呼称は制御不能な野獣の姿を連想させる」とコーエンは述べました。「児童の性的虐待という出来事や、虐待を行う怪物についての証言は、信じ難いほど誇張された。しかし人々はそれらを鵜呑みにした」と。

 1977年に、風紀警察タイプとフェミニスト・ソーシャルワーカーの2人組のポルノ反対活動家が、「120万人の子どもたちが、児童ポルノと児童買春の被害に遭っている」と議会で証言をしました。

 今日の児童ポルノの製造者たちは、まさにネット時代の怪物です。しかし、その実態は透明な存在のようです。ジャーナリストや研究者であっても、そのような画像にアクセスすることが違法で、実際の商品をその目で確かめることも困難だからです。そうしてポルノ自体もその製造者も正体不明なまま、サイバースペースに潜む怪物への不安だけが広まっています。子どもたちが仮想空間を自由に歩き回るのに、少なくない大人たちはインターネットを使い慣れずにいたからです。児童ポルノは確かに実在します。インターネット上のピア・ツー・ピアの共有サークルで世界的に流通しています。しかし、かつての120万人という数字も捏造だったことが判明しています。児童ポルノが流行したり、児童の搾取が増加したりしているという証拠は実際にはなかったのです。

 それでも議会は、16歳未満の児童のわいせつ図画の製造と商業的流通を禁止する法律を成立させました。それ以前は、12歳以下、つまり思春期以前の児童の描写を対象とするものでしたが、連邦政府は、大量に設置した監視装置の費用を正当化できるほどの児童ポルノやポルノ製造者を見つけることができなかったため、犯罪の定義を拡大して、網を広げたのです。それから今日にいたる数十年の間に、性的とみなされるあらゆる子どもの画像が、憲法の保障から除外されようとしていきました。

 禁止対象となる未成年者の年齢は18歳に上がり、裸でもなく性的な行為もしていない子どもの表現も刑事訴追される可能性が広がっていきました。ポルノの定義が広がり、服を着ていない子どもの画像は全て違法とされ、さらには着衣の子どもの画像であっても見る人にとって誘惑的に映る可能性があれば違法とされたからです。

 モラル・パニックの波によって、写真芸術から風呂場で撮ったスナップ写真に至るまで、まるで浸水被害の後にカビが広がるかのように、違法の範囲が広がっていったのです。

 1980年代が始まると、大人たちが文字通り悪魔の指示で子供を虐待しているという噂が流れ、それが告発され始めました。

 その噂とは、悪魔的な儀式を行う虐待者たちが、保育所や幼稚園で、乳幼児に想像を絶するような性的拷問を加えているというもので、それはまさに働く女性たちが安全のために子どもを預けていた場所でした。

 1982年から1983年にかけてカリフォルニアで発生した告発は、瞬く間に全米に広がり、ヨーロッパにも広がりました。

 まだ2歳や3歳の子どもたちが、執ような誘導尋問を受けて、質問者が用意した虐待のストーリーを認めました。その虐待の中身とは、動物を殺害したり、メキシコに売り飛ばされそうになったり、子どもたちを性的に拷問するピエロの扮装をした人物が現れたり、性器にフォークやナイフが挿入されるなど多岐にわたるものでした。

 そのような虐待を疑われたのは、実際の虐待加害者のほとんどが男性であるのとは対照的に、ほぼ女性たちで、犯行の現場は保育所とされました。日中、色々な人が出入りするに場所であるにもかかわらず目撃者はゼロ。きっと人々の頭は鈍っていたのでしょう。

 報道機関、PTA、検察官、裁判官、陪審員など、多くの人々にとって、サディスティックで邪悪な悪魔崇拝者の広範な地下ネットワークが多数の子供たちを性的に拷問していたというストーリーを信じました。しかし、そうした活動が、事件の発覚まで何年も露見しないなんてことがあるのでしょうか。

 心理学者や警察は、悪魔儀式の虐待に関するでっち上げの情報を共有するために会議を開きました。

 評判の高い公共放送の調査報道番組でさえ、1985年に悪魔の儀式に関する特集番組を放映しています。真偽不明であるにも関わらず、「そこで何かが起こっている。何かがおかしい」などと言ってです。

 人気リポーターのジェラルド・リベラが悪魔儀式による性的虐待を暴くという特別番組を約2000万人が視聴しました。

 無実の数百人が起訴され有罪判決となった約70人は、後に冤罪と判明して釈放されましたが、人生は台無しです。10年後にFBIが再検証の調査を行いましたが、何の証拠も出ませんでした。悪魔儀式的虐待など存在しなかったのです。

 モラル・パニックは制御不能です。惨劇がひそかに忍び寄り増加していると人々に思い込ませるのです。メディアによる報道が増えるほど世間の不安が増し、政治家たちが人々の不安を利用する。この惨劇を防ぐという名目で新たな法案が可決される。

 法は厳しくなる一方です。露出や身体的接触などの軽犯罪は重罪に発展しました。新法が増え警察の捜査は活発化。当然、統計上の犯罪件数が増加します。統計が政治利用され、また刑罰が厳しくなります。

 1970年代、80年代、90年代と、性犯罪を疑われる人がどんどん増えていくと、以前は 愛すべき存在だった人も疑われるようになりました。かつては純粋無垢と考えられていた罪なき犠牲者の子どもたちです。

 1985年、「性的問題行動のある子どものための診療所」が初開設。精神的に不安定とされる子どもたちを分類する新たな枠組ができました。「性的問題行動のある子ども」と、より危険な「性的加害行為をする子ども」です。

 命名者の女性2人は「怪物作り」の達人たちでした。1人は保育所の虐待事件で誘導尋問を行った診療所の経営者で、もう1人は彼女の同僚です。新しい種類の「患者」である「性的問題行動のある子ども」の症状とは、「お医者さんごっこ」「頻繁なマスターベーション」「人前で服を脱ぐ」「お尻に物を入れる」などの行為で、それらは不適切行為とみなされました。

 行為をされた側が嫌がっていなくても、進んで加わっていても、関係ありません。大概、年上の男の子が加害者で、年下の女の子が被害者とされました。2歳児が性的加害者にされたこともあります。容疑者の範囲を増やすために、性交同意年齢が引き上げられ、強姦罪が厳しく取り締まられました。

 性交承諾年齢は成熟度と責任能力を1日の差で決めます。ある年齢以下なら子ども、ある年齢を1日でも過ぎれば性交に同意できる大人であり、年下相手にセックスを強要する加害者にもなりえます。

 純粋無垢だった人物が翌日には罪人に、今日の犠牲者は明日の犯罪者です。

 無垢な人が皆、保護されたとも限りません。未成年が成年として罪に問われる年齢は下がり、黒人やヒスパニック系の子どもは性的加害でも軽犯罪でも不当に犯罪者扱いされました。児童ポルノ法の違反で未成年も逮捕されます。

 最もバカげた児童ポルノ法の解釈は10代間の性的なメールのやり取りに関するものです。恋人に自身の裸の写真を送った子どもたちは児童ポルノを製造した加害者であると同時に児童ポルノの被害者でもあるというものでした。

 子どもを性的危害から守るはずの法律の数々は、他人からの性的暴行を防ぐ目的で制定されましたが、実際には、子どもの虐待や誘拐の大多数が家族による犯行です。赤の他人による誘拐は30万人に1人の割合です。

 非常に稀な頻度の犯罪が人々を恐怖に陥れます。公共の場では一時たりとも子どもから離れてはならない。これが今の社会通念です。公園に子どもを置いて出かけた親は児童虐待で通報されます。

 1997年に出版された本の背表紙を引用します。「知らない人と話をするな、では十分ではない。私たちが子どもの頃の対策は現代では不十分だ」

 再度お伝えします。子どもの誘拐や性的虐待が増加したという記録はありません。

 無垢な子ども像も、ペドファイルの怪物も、誇張された存在です。
 この存在は、人種・性別・性的指向への偏見と結び付き、強い説得力のある存在へと進化します。そしてセックス・パニックの中心に立ち続けるのです。終わりはありません。パニックが下火になっても負の遺産は残り続けます。

 19世紀に制定された男性同士の性行為を禁じるソドミー法も、そのようなパニックの中で1世紀以上も続き、20世紀のゲイ解放運動の末にようやく廃止されました。

 80年代の悪魔儀式的虐待をめぐるパニックも同様です。黒ミサ衣装の変態保育士の噂は消えても、子どもへの性的虐待の冤罪はなくなりませんでした。

 1997年、テキサス州サンアントニオで4人のレズビアンが親類の女児への性的暴行で逮捕されました。彼女たちは2013年まで投獄され、ようやく無実が証明されたのは2016年のことでした。悪魔儀式的虐待の逮捕者の一部は今も獄中にいて刑務所で亡くなった人もいます。

 このパニックの最大の負の遺産は、厳格な懲罰・監視システムと、「性犯罪者」と呼ばれる人々の人権を奪う社会構造でしょう。実は、性犯罪の前科者の再犯率は全犯罪の前科者の中でもかなり低いほうです。しかし、ペドファイルは矯正不能という世間の思い込みのせいで、性犯罪者は監視され、管理されるべき存在となりました。釈放から何年たってもです

 関連する法律は厳しくなる一方。2006年に制定された児童保護安全法では、12歳以下の子どもとの性交などは、30年以上の懲役と定められました。子どもへの性的虐待を死刑にする州もあります。

 生きて釈放されたとしても罰は続きます。アメリカの登録性犯罪者は約100万人。登録期間は最短10年。長ければ一生涯です。性犯罪者として登録されると、住む場所、職場、学校、旅行先まで制限されます。どの地域にも住むことを許されない州もあります。インターネットの使用を禁止され、職探しも困難です。登録性犯罪者と分かり採用が取り消されることもあります。彼らへの罰は増すばかりです。投票所で働くのは禁止、大型免許取得は禁止、ハロウィンのお菓子配りも禁止。性犯罪者の写真と罪状は誰でも閲覧できます。犯行から25年たっていてもです。写真の顔はどれも脅えています。

 登録性犯罪者の子どもはいじめられ、家は襲撃を受けます。性犯罪者の親は暴行され、まともな職に就けず、家族全員が貧困に陥ります。子どもへの性犯罪でなくても自分の子との同居は禁止です。14歳以上なら、子どもでも性犯罪者としての登録が義務付けられています。ヒューマン・ライツ・ウォッチは、これを人権侵害と批判しましたが、登録された子どもたちの心痛は言葉では言い表せません。5歳のいとこの性器を触ったとして有罪となった10歳の少年の父親は、ヒューマン・ライツ・ウォッチにこう語りました。
「息子はセックスが何かも知らない。なぜ性犯罪者として登録されるのか分からないようだ」と。

 20の州で「暴力的な性の捕食者」を施設に拘束することが合法化されました。暴力的な性の捕食者とは、別の性犯罪を犯し得る精神障害のある人を指します。ただし専門の組織が診断するわけではありません。起きるかも分からない犯罪に対する予防拘禁なのです。死ぬまで拘束され続ける人も多くいます。

 現在、アメリカで反刑務所・反警察運動が活発になっているにもかかわらず、この現状です。性犯罪者は抗議運動や法改正から除外されているのです。


現代に蘇るモラル・パニック/セックス・パニック

 D・トランプの登場以来、子どもと性に関するパニックが再燃しました。

 セックス・ジェンダー・人種に関する学校図書が検閲されています。ペドファイルを口実に、子どもの教育を制限する法が作られ、"LGBTQの子が不当に扱われています。性的指向の議論禁止法が約20州で施行され、教師が学校で同性愛や性的指向や人種について言及することを禁じました。法案の支持者は、このような話を子どもにする親を不道徳な性行為を唆していると批判しています。

 未成年のジェンダー肯定ケアへのアクセスの制限が15の州で制定、または検討されています。未成年にこうしたケアを提供した側は厳しく罰せられます。子どもにケアを受けさせた親も、児童虐待で調査されることがあり得ます。トランスジェンダーの子どもが自認する性別のスポーツチームに入るのを禁じる州もあります。ある州では、子どもに性器検査を受けさせて男女どちらのチームに属すべきか判断することが提案されました。

 トランプ陣営は選挙戦で、対立候補を「小児愛症者」「性の搾取者」と中傷。ある候補者は対立候補がペドファイルだと選挙カーで触れ回りました。事実無根だと知った上での行動です。

 Qアノンは民主党に関する陰謀論を広めています。「ハリウッドやユダヤ系の力を借りた民主党が小児愛症者の秘密組織を運営している。そこで子どもの誘拐・拷問が行われている」というものです。Qアノンは集会で「子どもを救おう」と呼びかけます。「民主党のプレデターたちは、子どもの血を採って、若返りの薬を作っている」と。ペドファイルと悪魔儀式的虐待に関するお決まりの空想と数世紀前の反ユダヤ主義の神話の合体です。

 ユダヤ人が子どもの血を儀式に使うというデマは、集団リンチ・宗教裁判・強制収容所を生みました。過去の恐怖の再来です。2016年に1人の男がワシントンのピザ店を銃で襲撃、店が児童人身売買組織の拠点という噂を信じての犯行でしたが、そんな組織は存在しませんでした。人身売買はなかったのです。

 今週 デビッド・デパピという男が民主党のナンシー・ペロシ議長の暗殺を試みました。彼女が家にいなかったため夫をハンマーで襲撃、ペロシ議長の82歳の夫は今も入院中です。    

 犯人は長年、SNSに陰謀論を投稿していました。ホロコースト否定論や民主党の児童買春組織の運営説などです。この事件後、イーロン・マスクは議長の夫が男娼と喧嘩していたという陰謀論サイトの記事をリツイートしました。マスク氏はその数年前にも、少年たちを海中の洞窟から救出したダイバーについてツイートを投稿、ダイバーを「ペド野郎」と侮辱しました。

 共和党側はペロシ議長の夫のデマを拡散しています。同性愛・ペドファイル・セックスワークといった煽りによって対立者を悪魔化する常とう手段です。このような性的な当てこすりや、子どもの性的搾取を示唆することが、敵への嫌悪を表す共通語となりました。その上、暴力的な性文化があり、3億9千万丁の銃が出回るアメリカ社会では、このようなセックス・パニックは、大量殺人にも直結します。

 子どもを保護するための誤った努力は、子どもに限らず大人と文化にも深刻な害を与えます。人種・性別・性的指向によって差別されがちな人は、さらに苦しみ、禁欲教育によって望まない妊娠が増加、中絶を拒んで出産した若い女性の多くは貧困に悩み、家庭内暴力を受けたり、教育の機会を奪われたりします。

「性的問題行動」でセラピーを受けさせられた子どもたちは、自分自身を憎み、自分の欲望を恐れるようになります。未成年者を投獄することの害は言うに及びません。子どもの心理的外傷は目には見えません。

 法学者のエイミー・アドラーは、現在の児童ポルノ法は逆効果だと主張しています。
「児童ポルノ法は私たちの子どもたちに対する見方を変えてしまった。警察・出版関係者・陪審員をはじめ、誰もが子どもの画像を注視して、卑猥な表現や性器の露出がないかを探している。撮影者に淫らな意図がなかったか、ペドファイルに性的興奮を与える要素がないかを、見つけ出そうと躍起になっている」と。

 児童ポルノ法は、人々に「ペドファイル的な目線」を植え付けてしまったのです。

 青少年同士の恋人関係の中に、児童レイプということにできそうなものはないかと探し出そうとするのも同じことです。この法律は、大人たちの子どもに対する意識を性という一面のみに集中させてしまいました。子どもの身体と欲望に過剰に注視して、子どもたちを性被害から守るどころか、子どもたちを性的対象化してしまう法律なのです。

 そこかしこにプレデターが潜んでいるかのように、ペドファイルの危険性を教えられた子どもたちは、すべての大人との触れ合いを恐れ、愛情深い人物との交流の機会すらも、隠れたプレデターかもしれないと疑わざるを得なくなりました。

 善意の安全策は、子ども時代を奪う結果になりました。大人から四六時中監視されていたら、子どもは世界に出て行くことも、一人で行動することも、友達と行動することもできません。能力や自立心を身に付けられず、大人になる過程を妨げられてしまいます。

 私たち大人は、神話の世界の怪物から子どもたちを守ることに必死になるあまり、現実の脅威を軽視しています。女性蔑視、人種差別、貧困、教育の喪失、忍び寄るファシズムや急速に進む気候変動などです。私たちは、子どもたちに迫る真の危険に対処する必要があります。そして、身体や快楽のことについて、子どもに教えるのも大人の義務です。それが子どもを守り、成長を助ける方法なのです。

 ご清聴、ありがとうございました



インタビュー・コーナー


アメリカの学校図書館での検閲の現状


スヴェトラーナ・ミンチェバ(以下、ミンチェバ):
「性表現の自由と規制をめぐって」へ、ようこそ。
 まず、あなたが『青少年に有害!』を執筆してくださった勇気に感謝したいと思います。そして、検閲に反対する数多くの文章を出してくれていることにも。
 この本には、80年代と90年代の子どもと性に関するパニックへの憂慮が、明快に書かれていますね。今日も残るモラル・パニックの問題です。子どもたちの純粋さを守るために行っている努力が、かえって青少年に有害だと主張されています。確かに 現代の親たちは、海辺で自分の子どもの写真を撮ることや、自分の子どもを抱き締めることさえ恐れるようになっています。あなたのご指摘どおり、モラル・パニックの問題も再来して、共和党と民主党の党派争いに利用されるようになりました。性の捕食者(プレデター)と子どもたちの被害というイメージを武器に、他の社会問題から目を逸らさせ、政敵を悪魔かのように陥れるようなことも起きています。2022年のアメリカの中間選挙では、候補者たちが、学校の図書館からLGBTQ関連の本を排除することをアピールしていました。文学賞を獲得した数々の名作のことも、淫らなポルノ扱いです。
 こうした状況についてのご意見を聞かせてください。
 教師が特定の本を勧めると、「グルーマー」と呼ばれるような現状をどう思いますか。「ジェンダー・クィア ある回想録」「男の子が全員 青じゃない」など、禁止図書は多数にのぼります。政治家たちは、300冊、800冊と本をリスト化しては、性的な内容の有無を調査しているといいます。このような動きは、どんな影響を及ぼすでしょうか?

ジュディス・レヴァイン(以下、レヴァイン):
 
少し整理しながらお答えしましょう。
 まず、パニックの政治利用は事実です。しかし 無垢な子どもを守ることには誰もが賛成で、民主党側からもその点について反対の声は上がっていません。ただ「子どもの純粋性」と「子ども自体」とは別物です。子どもをあらゆる危険から守るのは大人の義務です。ですから政治的な争点は、「何から子どもを守るのか」、そして「何のために守るのか」という問題なのです。

 ペン・アメリカの調査によると、2022年6月までの1年間で、一部の本を学校教育の場で禁止したり、排除しようと試みた事例は2500件にも及びます。1600冊以上の本が禁止の対象にされました。そのうちの約40%がLGBTQプラス関連の本、約40%が有色人種の主人公が登場する本でした。また約25%は、排除を呼び掛けた人々からは、あからさまな性的表現があるという断定を受けています。

 主人公が政治的立場を取ったり、世の中の主流に反発したりしていて、子どもに悪影響を与えうるという理由で禁止された本も多数ありました。また、40%の本は、特定の本や言論を禁じる法律と関連がある内容でした。

 書籍だけでなく、発言まで規制されている州も、いまや約20州にのぼっています。例えばテキサス州では、約1000項目もの禁止事項が並んでいますし、民主党優勢の州でも禁書が行われています。こうした動きは、子どもや学校、そして特に教師に多大な影響を及ぼします。教師は、単に批判を浴びるだけではなく、禁止本を生徒に勧めたり、図書館に置いたりしたことを理由に解雇されるようになりました。

 こうした州では、親がいつでも教室を訪ねて、授業に使う教材などをチェックすることが親の権利として定められているわけですが、それが教師を脅かすようになりました。性的な議論だけでなく、彼らが呼ぶところの「批判的人種理論」に触れた教師を、親が通報することもあります。白人による人種差別を考慮した歴史解釈を教師が口にしただけで、親から政府に通報がいってしまうのです。「自分のアイデンティティや人種に関して、子どもに居心地の悪い思いをさせる話題」も、批判的人種理論とされるようになりました。つまりクィアの話題は、異性愛者の白人の子どもたちを不快にさせるというのです。

 こうした社会の動きが、教師に与える影響は深刻です。また副次的影響として、教師の自己検閲が挙げられます。彼らは境界線を越えそうな話題を避けるようになります。教師の話すことが減れば、生徒の学べることも減ります。こうした表現規制を求める人々は、偏った考え方を子どもたちに教えることを止めたいだけだと主張します。しかし、セクシュアリテのあり方、恋愛関係のあり方、家族の形、政治、人種についての幅広い考え方に触れる機会を奪うことこそが、視野の狭い偏った考え方ではないでしょうか。子どもに様々な意見を聞く機会を与えなければ、決断する力、聞く力、真実を見抜く力、大量の情報を整理する力を身に付けることはできません。教師への検閲であり、子どもが目にするものへの検閲です。アメリカ自由人権協会も訴えていましたが、書籍の規制は子どもの教育全般を大きく衰退させて、歴史や未来の世界を子どもたちが理解することの妨げになります。

ミンチェバ:
 
私の印象では、こうした規制はある政党が進めているようですね。


「グルーマー」「グルーミング」というレッテル


レヴァイン:
 
まさにそのとおり。本の規制を進めているのは、共和党の極右派たちです。禁書運動の政治的リーダーはロン・デサンティス氏。フロリダ州知事で、次の大統領選の候補者と言われています。口が達者で危険な人物ですね。

 次の質問は、「グルーミング」という言葉についてでしたね。
 この言葉の背景にあるのは、「同性愛者たちが、子どもをリクルートして、同性愛者に仕立て上げている」という昔からの考え方です。「同性愛者はプレデターであり、子どもたちにとって有害であり危険である」という偏見が何世紀にもわたって存在していました。

 近年、同性愛やクィアに対して、このような理由からの嫌悪や表現規制の風潮が高まったのは、エイズの流行が彼らに責任転嫁された80年代でした。90年代にも多くの公演や書籍を規制しようという動きがあり、私とスヴェトラーナさんが知り合ったのも、確かこの頃かと思います。

 しかし、この「グルーミング」という言葉は、次第にペドファイルの文脈で使われるようになっていきました。その意味は、「大人とセックスしてもいいのだ」という考え方を、大人が子どもに徐々に植え付けることを指しています。子どもに性的な写真を見せたり、本を読ませたりして、そうしたセックスを受け入れるように考えを刷り込んでいるというのです。

ミンチェバ:
「ノーマライズ」である、と。

レヴァイン:
 
そのとおりです。曖昧な表現ですよね。そのノーマライズの対象が、同性間の性的指向についてなのか、ノンバイナリーなジェンダー・アイデンティティーについてなのかも不明です。「ノーマライズ」だなんて、同性愛を突飛で恐ろしい現象と扱っているような表現です。「ヘザーにはママが2人いる」というのは、そんなに変なことでしょうか。幸いなことに超党派の支持を得て、同性婚を保護する法律が議会で可決されました。ママが2人いることは認められたわけです。しかし ママが以前は男性だったトランスジェンダー女性となると、子どもにとって危険な虐待行為とみなす人たちがいます。

 混同が起きているのです、子どもに同性愛などを教えることと、同性愛に関連するとされる虐待を正常なこととして刷り込むことは別物です。

「子どもたちは、同性同士で恋愛したりセックスしたりする者たちの存在を学ぶことで、それを普通のことだと思わされるようになる。だから 同性愛についての本を読んだり絵を見たりして学ぶことは、同性愛者による子どもへの虐待行為をノーマライズして、子どもたちに刷り込むことにつながる」というのです。

 こんな論理は間違っています。その結果として一番被害を受けるのはクィアの子どもたちです。いじめや自己否定につながるでしょう。私たちは、いじめをなくそうと、ずっと努めてきましたし、LGBTQの子どものケアに取り組んできました。

ミンチェバ:
 
統計的に、「性的に普通じゃない」と位置付けられてしまう子どもたちがいじめられる確率は高いですよね。

レヴァイン:
 
非常に高いです。


危険な芸術による、安全な経験


ミンチェバ:
 
少し前向きな話題に移りましょう。
『青少年に有害!』の中で、「芸術的なエロスの喜び」について書いていましたよね。そしてその章で、美術品の展示が未成年に有害だと保守派が考えるのは過剰な反応ではない、抑圧的な体制下で画家や詩人が投獄されたのは、まさにこういう理由だからだと述べています。文章や絵画の重要性を一言で表した素晴らしい表現です。
 ピカソの「芸術は純潔ではない。無知で純粋な者は触れるべきではないのだ。危険でなければ芸術とは呼べない」という格言を思い出しました。
 危険な芸術の喜びに触れることは、なぜ若者にとって重要なのでしょうか?

レヴァイン:
 
子どもにとっては 危険な経験をするということも重要なことです。
 芸術に触れる経験は、車を運転したり、ホームレスになったり、あるいはネグレクトを受けたり、虐待されるような経験と比較したら、かなり危険性は少ないでしょう。

 私が思うに、芸術の危険とは、見る者に、何を考えるべきか、何を感じるべきかの答えを教えてくれないことではないかと思います。鑑賞者が5歳であろうと、50歳であろうと、等しく、自分で感じて考えろと挑んでくるのです。だからこそ芸術は様々な真実を突きつけてきます。そこでは多くの真理とともに、紛い物や嘘と思えるようなことも提示されます。だから良い芸術は、私たちを落ち着かなくさせるのです。

 私は先日 ジョアン・ミッチェルのすばらしい作品を見て、幸せな気分に浸りました。そういう意味では芸術が危険とは限りません。しかし、若者は自分が何者なのか、何を考え、何を感じるのかを模索中です。彼らが求めているのは経験を通じて何かを感じ、自分の心と体に渦巻くものを理解することです。芸術はうってつけの手段です。身体的な危険を冒さずに様々な経験ができますからね。

 例えるなら、自転車の乗り方を教えるようなものかもしれません。最初のうちは、親が自転車の後ろを持って支えます。いずれ親は手を放し子どもが自力で進んでいきます。つまり、まずは子どもを守り、徐々に手を放していくのが親の役目です。芸術も同じで、子どもが家族と違う人生を歩むための手段です。

 あるいは、やっぱり両親の考えは正しい、自分も同じ価値観だと思うこともあるかもしれない。それでも、芸術は子どもたちに別の世界を見せてくれたのです。

 本は子どもを救うこともあります。貧困や虐待で苦しい状況にいる子どもたちを別世界に連れ出すこともしてくれます。あるいは本の中では、子どもたちが辛さ、恐怖、悲しみ、困惑などの様々な感情や思考を安全な場所で味わえます。芸術の危険とは、ある意味で安全な危険なのです。

ミンチェバ:
 
しかし、子どもが自由に考えるのを嫌がる親や、自分と同じ価値観を持つことを願う親にとっては危険ですね。

レヴァイン:
 
そうですね。表現規制に関連する法律を見ていくと興味深いことが分かるのですが、そこには子どもの保護ではなく、親の権利としての文言ばかりが並んでいます。まるで子どもは添え物みたいで、言及すらされていないことすらあります。家族とは利害が必ず一致するユニットであり、子どもの利益と親の利益は決して対立しないという想定です。しかし、誰かの親になった経験、誰かの子どもになった経験のある人なら、これが間違いだと分かりますよね。

「家族内に意見の不一致があれば、父親に決定権があり、他の家族を従わせる。親が自らの価値観や考えを子どもにはっきりと示すことそれ自体が子どもの保護だ」
「親には子どもの読む本を監視し、制限する権利がある。子どものしつけ方に国が干渉すべきでない」
「傷を残さなければ体罰もありだ。自分の子どもであれば親が傷つけるのはかまわない」
「子どもは家族以外の大人と親しくするべきではない」

 こうした、子どもを守るとことの責任よりも、親が子どもを所有する権利を優先してしまう考え方があります。
 しかし、多くの子どもは学校で仲間に出会います。それが教師である場合もあります。特に性的指向などの理由で親から拒絶されている子どもたちは、共感や支えを、教師をはじめとする家族以外の大人たちから得ることもあります。

ミンチェバ:
 
昔 アメリカの法律では、子どもは親の所有物とされていましたね。子どもが働いて得た賃金も親のものでした。その名残が今もあり、子どもの権利条約にも批准していません。

レヴァイン:
 
国連加盟国の中でも、非締約なのはアメリカだけです。実態は違う国でも、条約には入っているというのに。


楽観的な今後の展望


ミンチェバ:
 
そうした奇妙な政治的背景もあり、子どもに関するモラル・パニックに待ったをかける人がいない状況です。純粋な子どもを守るのは当然と考えられていますし、この状況で 子どもが性的表現にアクセスする機会を守ることには困難があるわけですが、しかし、あえて楽観的に予測するとしたら、今後の展望はどうなっていくでしょうか。

レヴァイン:
 
まず 挙げられるのは、一方に偏った過激な運動は、それに反対する意識を芽生えさせることです。アメリカ図書館協会が行った禁書に関する世論調査によると全体の7割以上が禁書に反対。共和党支持者も7割は反対派でした。アメリカ人にとって、司書は神に次いで信頼度が高いとされています。回答者の9割が図書館司書を尊敬し、地域や学校で重要な役割を担っていると考えています。ですから人々は図書館・司書・学校、そして子どもが本にアクセスする権利を守るでしょう。表現規制運動が激化するたびに、言論・表現・アクセスの自由を守る運動も高まることになるのです。そこには希望が持てます。

アメリカ人がペドファイルを極端に恐れているのは事実で、それは子どもを狙う性の怪物を指す記号になっています。しかし対極する存在もいます。性教育の実践者たちです。ただ子どもに安全で幸福な性生活を送ってもらうには、性教育だけでは足りません。住宅・栄養・教育・親などの環境が整っていないと、子どもたちは危険にさらされます。性的虐待と貧困には関連があるのです。人々にこうした気付きを促すという面では明るい兆しがあると思います。芸術・言論の自由やアクセス権などの子どもの権利について、これらを守りたいと考える人々が頑張ろうとしているからです。


まとめ


ミンチェバ:
 
そうした人々は、議論の場に参加する重要性や、選挙に行く重要性に気付きはじめましたね。マイナス面に注目していると、つい忘れがちですが、30年前はLGBTQ関連や性自認に関する書籍は学校のカリキュラムに入っていませんでした。青少年の手に届く情報に関しては。大きな進歩があったと言えます。トランスジェンダーなど、性の多様性の認知度の向上は、30年前には想像できなかったことでしょう
 最後に、まとめをお願いします。

レヴァイン:
 
先ほど 楽観的な予測を聞かれましたが、私は楽観主義者じゃないんです。ひねり出すのに苦労しました。今は世界的に、厳しい時代です。子どもたちも様々な危険にさらされています。ウクライナでの戦争。ソマリアの子どもたちは、10年も干ばつに苦しんでいます。不安定な政治情勢は、多くの難民を生み、子どもを含め、数億もの人々が住む場所を追われています。学校図書の規制について論じるのは贅沢にすら思えますが、子どもは世界について知るほど、世界を気にかけるようになります。実際 気候変動をめぐる抗議運動を子どもが主導しています。子どもたちが最も急進的で声の大きな抗議者となっている。そのこと自体が私にとっては希望です。彼らの将来の危機に気付き、行動を起こしているのですから。青年運動は常に良い変化を生むものです。

ミンチェバ:
 
いくら子どもを守ろうとしても、子どもは自ら成長しますね。

レヴァイン:
 
本当ですね。

ミンチェバ:
 
ありがとうございました。

レヴァイン:
 
こちらこそ、ありがとうございました。