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R5.5.5 ひとくぎり

7:00起床。バイト。帰宅。ちょっと身支度を整えて、サークル。雑談。夜。

昼に、サルトルが谷崎潤一郎の作品が好きだったというツイートをしたら、過去イチで伸びた。

読了

数日前から読んでいたデリダの解説書を読み終えた。

なんとなく後期ウィトゲンシュタインの思想と似通うところがあると感じていたのだが、そのところを突いた著作はすでにあるらしい。
この本が解説して曰く、決定不可能性を研ぎ澄ませていき、責任をより洗練化させていく? 話とか。うろ覚えなのはよくないな。アポリア、解決不能な問題。これをとにかく論じていく態度は、およそ「このゲームにはゴールがない」とでも言うべき状況だと考えた。ゲームに終わりがない、だから語り続けなくてはいけない。
デリダの表現は修辞的で、わかりにくい面が多いなぁってね。頭がいい人の書く文章ってことですかね。知らんけど。

デリダの文体というか、用語法的なので感じていたこと。ちょっと分析ニーチェの話。

論文と本と、それを知るに至った雑誌(分析ニーチェ特集)。なお論文と本は読んでいない。雑誌に含まれている飯田隆による話だけ読んだ。

で、ニーチェを論理実証主義がどのように評価したかという話。『ツァラトゥストラ』なんかは、哲学ではなく詩の形式、つまり芸術だから評価していたみたいな話がされていた。

一方で論理実証主義と言えば哲学の科学化みたいなのが思い浮かぶ。
で、ここに文学的な哲学と、科学的な哲学、実際にそのようになっているかは別として、そういう風な区別があるとしよう。

私としては、哲学は文学的でも科学的でもありうるという態度を取っていきたいのだが、ここに生まれた裂け目は、時として現象学と分析哲学の裂け目とパラレルに論じられる。いや、大陸哲学と、英米哲学と言うべきだろうか。

んでもって、文学的な方が、なぜ文学的なのか、パラフレーズ不可能なのかを、ニーチェが詩の形式で哲学したことなどと重ねて考えていたりした。

そもそもキルケゴールやニーチェなども英米哲学への影響を与えているのだから、あまりいい考えではないな、とこの文章を書いて実際に眺めて考えていた。

全消去。

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