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大学教育改善の両輪とは?

〇大学教育改善をするために必須の2つのこと〇 

もしあなたが教員の立場でも、学生の立場でも、大学教育改善をするためには、2つの方向性を持って戦うべきであると私は考えています。

その方向性とは……

方向性①:大学の講義・実習全体をよりよいものに変革していくベクトル

方向性②:教員なら自分の講義、学生なら主催する学修会を、よりよい教育環境にするベクトル

この2つです。

 〇大学教育改善の目的〇

本質的に、大学教育の目的は、「学生を成長させること」の1点に尽きます。

ただ、実際にFDの領域に足を突っ込むと、あたかも改善すること自体が目的に見えてしまいます。

ですが、よくよく考えてみれば、大学の持つ「教育」というミッションが達成できればよいわけですから、その方法をどうするかは二の次です。

つまり、ある講義、ある学科のカリキュラムが改善できない場合は、そこに固執する必要はなく、別の方向性から攻めればいいわけです。

もしあなたが教員なら、自分のゼミ生だけはきちんと育てるところから始めればよいですし、もしあなたが学生なら、自分で学修会を立ち上げてしまえばいいわけです。

 〇方向性①:大学の講義・実習全体をよりよいものに変革していくベクトル〇 

これは、従来の大学教育改善に近いベクトルです。

ただし、1つの致命的な欠陥を抱えています。

それは、根本的に方向性①が、「期待して待つ」という性質を持つものであることです。

もしあなたがFD担当の教員で、ある教員に講義を改善してほしいと思ったとしても、できることはせいぜい、アドバイスをしてその教員が奮起することを期待して待つ程度です。

カリキュラム改定に関しても、あなたが強大な権限を持っていない限り、待ちの姿勢であることに変わりはありません。 

もしあなたが学生であっても、教員や大学に対して要望することこそ可能ですが、そこから改善がなされるかどうかは、祈るしかありません。

一言で言ってしまえば、方向性①の改善は、主導権が私たちの手の中にはないのです。

私たちにできるのは、背中を押し、支えることだけです。


〇では、方向性①は不要なのか?〇

ただし、方向性①のアプローチが不可欠であることもまた事実なのです。

それは、方向性①のアプローチを行わなければ、20年後の大学も今と同じ姿である可能性が高いためです。

学生が講義室から逃れる術を持たない今日においては、どんなに大学の大部分の講義や実習”以外”の教育が方向性②のアプローチによって改善されたとしても、講義室に座る時間は残り続けます。

だからこそ、遅効性であっても本質的な改善につながり、大きな変化のきっかけを小さく惹起し続けるために、方向性①のアプローチを欠くことはできないのです。 

でも……ここまでの説明でなんとなくお察しかもしれませんが、遅効性で、つまり「期待して待つ」という性質が強く、明確な成果が見えにくい方向性①だけでは、大学教育改革が難しいことも同時に意味しています。

なにしろ、この環境では取り組んでいる教員や学生の心が折れます。

だからこそ、影響範囲が小さく、本質的な解決とは言えない場合があっても、鋭く即効性のある方向性②が必要になるのです。 

〇方向性②:教員なら自分の講義、学生なら主催する学修会を、よりよい教育環境にするベクトル〇

この方向性の本質は、自分が影響できる範囲の教育に注力することです。教員であれば、自分の講義や自分のゼミに関しては、よりよい教育環境を自らの手で作り上げられるでしょう。

学生であれば、確かに講義や実習には直接介入できませんが、学生で運営する学修会であれば、思ったように理想を実現できます。

〇方向性②が不可欠な理由〇 

方向性②は、少なくとも学生FD業界において、あまり重視されてこなかったベクトルだと思います。

しかし、今後は、大学教育教育改善に関わる教員及び学生ことごとく、方向性②の側面を持つべきであるというのが私の主張の1つです。

方向性②では、自らの手で学修環境を作ることができます。

従って……

<1>他人が動くのを待つ必要がありません(期待して待つ必要がない)。

<2>自分の責任で行ったことの結果を、自分の目で確かめられる(学習者が目の前にいますから)。

<3>短期的に結果のフィードバックを得られ、雲をつかむような思いをしなくてよい(ときに教育システムの改革など、大きな話になると、具体的な変化との関係が、現場レベルでは見えにくい場合が多いですからね……)。

のようなメリットがあります。 

〇ゆえに両輪が必要である〇

しかし(今回の記事は何度、逆説の接続詞を使うのでしょう)……

方向性②は、講義・実習を学生がサボれない今日において(サボるのが適切とは言ってませんよ?一応)、本質的な解決にはなりません。

それは、一部の教員が努力して一部の講義が良くなったところで、または学生の自助努力でよい学修会が出来たところで、講義の大半は今日のままで、それを座って聞かないといけないのも今日のままだからです。

つまり、方向性①で示したようなベクトル、教育全体を引き上げていく考え方がなければ、全体が改善しないということです。

将来的に、今よりよい大学教育を実現することも、望めないわけです。

まあ、これは、「では、方向性①は不要なのか?」でお伝えしたことの繰り返しですね。

加えて、方向性①が方向性②を助け、同じように方向性②が方向性①を後押しすることはお察しの通りです。

故の、両輪なのです。 

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